草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

なぜこんなに豊かな社会で我々はこんなにも働いているのか? 再論

 このブログの出発点は、「なぜこれほど豊かな社会で我々はこんなにも働いているのか?」という問いでした。

 

 かつてマルクスは、資本主義的生産様式が発展し、生産力が十分に向上したならば、必要労働時間は減少し、人類は少しずつ労働から解放されるであろう、と論じていました。その過程において、資本家による労働者の搾取という矛盾を抱える資本主義というシステムは克服され、人類は豊かで自由になり、個々人の才能と個性が全面開花するであろう、という理想像(ユートピア)をマルクスは描いていたのでした。

 

 いかにも共産主義的なユートピアの夢想だと笑われるでしょうか。しかし僕は、なぜマルクスのこの予言が外れた(或いはまだ実現されていない)のか、を問うてみたいのです。素朴な疑問として、なぜ資本主義の生産力がこれだけ向上しているにもかかわらず、我々はなお労働に縛りつけられ、苦しめられているのか。なぜ現代社会において「労働」をめぐる問題が頻発し、なかなか解決されないのか。なぜ「働くこと」に関してこれだけ不満を感じている人が多いのか。

 

 その答えを端的に言うならば、確かに資本主義の発展および生産力の向上とともに社会の必要労働時間量は減少しているのだけれども、その恩恵が万人にとっての労働時間の減少としてもたらされるのではなく、むしろ収縮した雇用のパイを皆が奪い合うという結果としてもたらされているために、労働時間の不均衡が生じ、社会全体に閉塞感を与えているからだ、ということになるのではないか。 

 

  もしこの状況を変えたいのであれば、「収縮した雇用のパイを皆で奪い合う」という仕組み自体を変える必要がある。それに代えて、「収縮した雇用のパイを皆で分け合う」そして「そのぶん増加した自由時間=余暇を有意義な活動につかう」仕組みを社会全体で創っていかねばならない。分かりやすいスローガンでいえば「ワークシェアリング社会の実現」こそ、成熟社会の目指すべき道ではないか、と僕は考えています。

 

 我々はもう一度、マルクスの次の言葉を噛み締めてみるべきではないか。

 「真実の経済(die wirkliche Ökonomie)――節約(Ersparung)――は労働時間の節約にある。」

 「時間の経済=節約(economy of time)、すべての経済は結局のところそこに帰着する。」

 

『労働のメタモルフォーズ』を著した社会学者のアンドレ・ゴルツや、『労働社会の終焉』を著した政治経済学者のドミニク・メーダも、マルクスの「自由の王国」論および自由時間論を参照しながら、「労働からの解放」と「自由時間の活用」こそが成熟社会/理想社会の目指すべき道であることを主張しています。

 

労働のメタモルフォーズ 働くことの意味を求めて―経済的理性批判

労働のメタモルフォーズ 働くことの意味を求めて―経済的理性批判

 

労働社会の終焉―経済学に挑む政治哲学 (叢書・ウニベルシタス)

労働社会の終焉―経済学に挑む政治哲学 (叢書・ウニベルシタス)

 

 アンドレ・ゴルツは次のように書いています。

「社会主義ユートピアの倫理的内容を成していたものを保持していくために、新しいユートピア、時間解放社会のユートピアが今日必要になっているのだ。人間の解放、人間の自由な開花、社会の再編は、労働からの解放を通して行われるのだ。労働時間の短縮によってこそ、人間は新たなやすらぎや「生活の必要」からの隔たり、実存的自律性を獲得することができるのであり、それが労働のなかでの自律性を拡大し、人間の目的を政治的にコントロールし、自発的で自主的に組織された活動を広げることのできる社会的場をつくることを要求するよう、人間を導くのである。」

(アンドレ・ゴルツ『労働社会のメタモルフォーズ:働くことの意味を求めて・経済理的理性批判』真下俊樹訳、174頁)

 

  ここで「労働からの解放」と「自由時間の活用」とともに求められているのは、「労働のなかでの自律性を拡大すること」そして「自発的で自主的に組織された活動を広げることのできる社会的場をつくること」です。つまり、自発的で自立的な労働/活動の場を広げていくことが成熟社会の目指すべきもうひとつの方向性である。これはマルクスポランニーが理想社会におけるアクターとしてアソシエーションおよび協同組合を重視していたことと繋がります。

 

 とはいえ、現代の日本社会でいきなり「アソシエーション」や「協同組合」を通じた自律的な労働/活動が大事だ、と言っても多くの人にはピンと来ないし、そのような社会を実現することも難しいでしょう。ワーカーズ・コレクティブや合同会社や社会的起業などの試みも注目されていますが、今後どこまでメジャーなものになるかは分からない。そこで僕が代案として最近考えているのが「自営業の見直し」という選択肢です*1「会社に雇われて働く」ことが前提となっている現在の日本で、もうひとつ「自営業という形態で働く」という選択肢を持つことが、社会の閉塞感を和らげることに繋がるのではないか。*2(あるいは「自営業的な働き方をしている人の元で働く」ということでも良いのですが。)

 

 サラリーマンという働き方や就職活動という職探しに馴染めない・疲れてしまった人たちにとってのもうひとつの選択肢を用意しておくこと。そのことによって、「働き方」の多様性が増し、社会-経済の豊かさの幅が広がれば素晴らしい。もちろんそのような選択肢を増やすことは容易いことではないし、仮に実現してもそれだけですべての問題が解決するわけではないし、マルクスが構想したような理想社会がやってくるわけでもない。でも、まずはそこから始めるしかないんじゃないか。そのことによって、少しでも我々の労働と余暇が充実したものになるのであれば。そんな風に最近の僕は考えています。

 

 

 

*1:最近、新雅史さんの『商店街はなぜ滅びるのか-社会・政治・経済史から探る再生の道-』(光文社新書)という本を読み、大変面白かったです。従来の「自営業」を支えていたひとつの大きな要素は「商店街」でした。それゆえ「商店街のシャッター通り化」は自営業の存続に大きな影響を与えました。この本の中で新さんは、戦後日本の成長と安定は、「日本型雇用制度」と「安定した自営業」という両翼に支えられてきたことを指摘し、現在ではその両方が危機にさらされていることが、日本社会-経済の不安定化に繋がっているのではないかと指摘しています。

*2:少し前に流行した「ノマド」という「新しい働き方」もネット時代に適応した「新しい自営業」の試みとして捉えるのが適切ではないか、と最近は考えるようになりました。伊藤洋志さんの『ナリワイをつくる:人生を盗まれない働き方』という本などはその典型ではないかと思います。