草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

「労働からの解放」はなぜ実現されないのか?

 かつての偉大な経済学者たちは、将来経済が発展し、生産力が向上して生活が豊かになれば、労働時間は減少し、人びとは余暇を謳歌するようになるであろうと考えていました。スミスしかり、マルクスしかり、ケインズしかり。しかし彼らの生きた時代からみて驚くほど経済が豊かになり生産力が向上した現代社会においても、我々はまだまだ労働から「解放」されてなどいません。我々はいまだに失業や長時間労働や低賃金労働などに苦しめられています。これはどうしてなのか。一方には使い切れないほどの巨大な富があり、他方にはいまだ古典的な貧しさがあります。「豊かさのなかの貧しさ」とでも言うべきものが、我々の社会にはれっきとして存在しています。

 

 例えばケインズは1930年に発表した「わが孫たちの経済的可能性」というエッセイのなかで、おおよそ100年後には経済的課題はほとんど解決されているであろう、と書いています。福利と科学の発展によって生産力が順調に向上していけば、100年後にはどれほどの物質的富がもたらされるか。そうすれば、人間はほとんど労働をする必要はなくなり、余暇をどのように豊かに過ごすかということが人類にとっての最重要課題となるであろう。言いかえれば、余暇における退屈をいかにやり過ごすか、という問題が真の経済問題として立ち現れてくるであろう。このようにケインズは予言していました。

 

ケインズ 説得論集

ケインズ 説得論集

 

 またマルクス『経済学批判要綱』のなかで、有名な「資本の文明化作用」について述べています。資本主義が発展すればするほど「万人にとって利用可能な自由時間」が増大し、人びとはこの自由時間を「豊かな個性」を成長させるために使うことができ、これが「諸個人の高度な発展」をもたらすであろう。それによって資本主義が止揚(廃棄)されるための物質的・精神的諸条件が整えられ、資本家と労働者の対立が終わりをつげ、「労働」が「活動」へと転化し、理想的な社会が実現されるであろう、と。

 

 

 このようなケインズマルクスの予言は、現代において半分は当たり、半分は外れたと言えると思います。確かに彼らが予言したように、彼らの時代から比べて資本主義は飛躍的な発展を遂げ、労働生産力は驚くほど向上し、その結果として非常に「豊かな社会」がもたらされました(もちろん世界にはまだまだそのような豊かさの恩恵に与っていない途上国・貧困国が多数存在します。これもまた「豊かさのなかの貧しさ」のひとつですね)。しかし、彼らが理想的に描いたほど、我々は「労働から解放」されてはおらず、「余暇(自由時間)を謳歌」してもいないようです。

 

 これは我々の社会がまだ十分な生産力を持っていないからなのでしょうか。もっと資本主義が発展し、もっと生産力が向上すれば、やがて我々は労働から解放され、より豊かな生活が送ることができるようになるでしょうか。おそらくそうではない。なぜなら、現在、世界経済は変調に陥り、これまでのような右肩上がりの経済成長が危ぶまれるような状況に突入しつつあるからです。少なくとも、現在先進国と呼ばれる国の多くは成熟社会に突入し、ここ数年で明らかに経済成長が鈍化しています。そのトップを走るのは我らが日本国です。

 

 もう少し異なった観点からこの状況を考え直すことが我々には求められています。それが前回の記事で書いた「資本主義のオルタナティブを構想する」こと、つまり資本主義とは別の<経済>のあり方が存在するのを知ること、だと僕は考えています。繰り返しになりますが、これは資本主義を放棄することを意味しているのではなく、資本主義と同時に、資本主義とは別の原理にもとづく<経済>を併存させることを意味しています。資本主義経済と非-資本主義経済を複層的に併存させること。それによってより広い意味での<経済>を再構成すること。これが僕の構想です。また次の記事でそのことを詳しく書いてみたいと思います。