草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

ポランニーの「倫理的社会主義」――オーウェンとマルクスの協同組合主義を引き継ぐもの

 『大転換』で有名なカール・ポランニーもまた、オーウェンの協同組合運動を高く評価していた知識人の一人です。ポランニーは、オーウェニズムをチャーチィズムと並んで、「市場から人間を守る」対抗運動のひとつであると捉えました。

 

[新訳]大転換

[新訳]大転換

 

 ポランニーによれば、オーウェニズムの特長は、それが社会的観点を主張したというところにあり、社会を政治領域と経済領域に分割することを拒否した点にあります。これは、協同組合における「活動」が経済的なものであると同時に政治的なものでもあるという、以前の記事で書いた指摘に繋がります。純粋な政治行動や経済行動を拒否し、むしろそれらが一体化した「社会的活動」をこそオーウェンは重視していました。ポランニーは次のように書いています。

 

 「労働者の生活において賃金というものは、自然、家庭環境、商品の質と価格、雇用の安定性、財産保有の安全性といった多くの要素のうちのただひとつにすぎない、と。(ニュー・ラナークの工場では、従来のいくつかの企業と同様に、なすべき仕事がないときでさえ被雇用者には労賃が支払われていた。)しかし、考慮された項目のなかには、これよりずっと多くのことが含まれていた。児童・成人教育、娯楽・ダンス・音楽の施設、老人や若者が高い道徳や人格規範を広く身につけるという一般的前提、これらによって、産業労働者全体が、新しい地位を獲得したと感じられる雰囲気が生まれた。」(『大転換』旧訳、232頁)

 

 協同組合工場では、労働(生産)だけでなく、教育・娯楽・芸術などさまざまな活動が実践されていたことが述べられています。それだけでなく、協同組合では、共同購入による物品の割引販売や、医療・食事・住居・保険・その他生活に必要な物資の提供などの取り組みが行なわれていたことも以前の記事で述べました。「政治」と「経済」を分離しない、これらの「社会的実践」こそ、オーウェンが重視したものであり、ポランニーが自由主義経済への有効な対抗運動として認めたものでした。

 

 「オーウェニズムの力は、その着想がすぐれて現実的であり、しかも、方法が全体としての人間の評価にもとづいているという点にあった。それは、食糧・住居・教育の質、賃金水準、失業防止、疾病時の扶助などのような、本質的には、日常生活的な問題ではあったが、それが関わっているところは、運動が訴えかけた道徳的諸力がそうであったように、幅広いものであった。」(同書、229頁)

 

 ポランニーが評価するオーウェニズムのもうひとつの特長は、産業資本主義が開発・発展させた生産力(具体的には機械)を否定するのではなく、むしろ最大限に活用した点にあります。ただし、「人間を機械の主人にするような仕方」で。「彼の天賦の才は、新しい社会においてのみ機械を有機的に組織することが可能であるということを認識していた点にある」(232頁)。これはマルクスが構想していた未来社会論と同じ考えです。

 

 この点に関して、若森みどりさんは『カール・ポランニー: 市場社会・民主主義・人間の自由』のなかで次のように書いています。

 「ポランニーの解釈によれば、オーウェンが想定する個人の自由は、個人の私的な幸福だけを追求することを意味しない。自由な個人とは、見知らぬ他者(貧民や犯罪人を含む)や前世代および将来世代の人びとと、社会におけるさまざまな問題や苦しみを共有する「社会的存在」でもある。自由な個人は、失業・貧困・過労などの苦しみや、産業化の激しい変化に晒されて伝統的職業や文化や居住環境を喪失した人びとの苦しみに深く共鳴することができる。そのような個人は、狭い自己の利己的な枠を超え、宗派やセクト的な制約を超えて、さらには『福音書』の説く慈善の域を超えて、真の隣人愛を創出する人間存在なのであった。」(147頁)*1

 

  「社会の市場化」への対抗策として、ポランニーが希望を見出そうとしたのは「社会の再発見」であり、「複合社会」という社会のあり方でした。ここでいう「複合社会」とは、「古い自由と市民の権利とに、産業社会が万人に与える余暇と安全とから生み出された新しい自由という財産が加えられ」た社会を意味します。つまり、近代以前に存在していた「自由と市民の権利」を取り戻しつつ、近代以降の「産業社会が万人に与える余暇と安全とから生み出された新しい自由という財産」を組み合わせた社会のあり方こそが、我々の希望である、と。

 

 「社会の発見は、かくして、自由の終焉でもありうるし、あるいはその再生でもある。ファシストが自由を停年し、社会の現実である権力を賛美するのに対し、社会主義者はそうした現実を諦念しているにもかかわらず、自由への要求を支持している。人間は複合社会において成熟し、人間的実在として存在することができるようになっている。」(347頁)

  

 また若森みどりさんが紹介されているように、ポランニーは「社会主義経済計算」という論文の中で、コミューン、生産者アソシエーション、消費者アソシエーションという三つの機能的組織から構成される「機能的社会主義」を提唱していました。第一の機能的組織であるコミューンは、市民の利害を代表する政治的機関(市民代表会議)であり、社会的公正という共同体のより高い目標を追究する役割を担う。第二の機能的組織である生産者アソシエーションは、工場・事務所・官公庁で働く労働者の民主的代表として産業部門を管理し、最大の生産性を追求する役割を担う。第三にの機能的組織である消費者アソシエーションは、さまざまな消費者協同組合の形態をとって個人的消費者を代表し、財やサービスの品質を追求する。

 

 政治・生産・消費という三つの機能にわかれたアソシエーションおよびコミューンが組み合わさり、それぞれの立場から利害を主張して対決と交渉を行うならば、システム全体のレベルで社会的合意が作り出されるであろう、というのがポランニーの目論見でした。ポランニーは、最大生産性と社会的公正という二つの要請を両立させる新しい社会主義の構想を提起したのであり、各人が自由に共同体の選択と決定に参加できるとともに、その選択と決定の結果についての責任を負うような社会のあり方(倫理的社会主義)を理想としたのでした。

 

 例えば、より短い労働時間を要求する生産者のアソシエーションとより安い商品を求める消費協同組合が経済計画について交渉し、社会全体でどのような労働時間と価格が最も望ましいかを話し合いのうえで決定する。そしてその結果については社会全体で責任を取る。その交渉における対決と合意がなされやすいように、社会の透明性を高め、生産・分配・消費などの各段階でどれほどのコストと便益があがるかを計算する「見通し能力」を高める必要がある。もちろんそのような理想的社会が簡単に実現されるはずはないであろうが、この機能的社会主義および倫理的社会主義は人類が絶えまなく目指すべき統制的理念である、とポランニーは考えていたのであった。

 

  以上のようなポランニーの「倫理的社会主義」構想は、まさにオーウェンやマルクスの社会主義および協同組合主義の系譜を引き継ぎ、理論的に鍛え上げたものだと言うことができるでしょう。ここでも重要なのは、やはりアソシエーションそして協同組合であり、産業社会の生産力と社会的公正、そして自由と責任を両立させるというアイデアなのです。

 最後に少し長いですが、ポランニーの文章を引用しておきます。

 

「われわれが社会的自由の最高の段階に到達したといえるのは、人間相互の社会的関連が、家族や共産主義的共同体において実際にそうであるように明瞭で透明なものになったときである。この認識に基づいてわれわれの生存の動きの反作用を直接に追跡できること――これが社会的自由の最後の言葉である。社会的諸問題へのわれわれ自身の関与を自分自身で処理すること、作用と反作用とを自分自身のなかで均衡させること、そして社会的存在の避けられない道徳的な負債残高を自由にわが身に引き受け、英雄的にあるいは謙虚に、いずれにしても意識的に担うこと、それが人間に期待できる最大のことである。」

 

 

 

 

*1:この点に関して、ポランニー自身は次のように書いています。

 

[asin:4757122853:detail]

 

 「ロバート・オーウェンは、キリストの福音が、社会の現実を無視していることを認識した最初の人物であった。彼は、これをキリスト教における人間の「個別化」とよび、協同的共和国においてのみ、「キリスト教における真に価値あるものすべて」が人間から切り離された状況を停止することができると確信していたように思われる。オーウェンは、われわれがイエスの教えを通して獲得した自由が、複合社会に適合できないことを認識していた。彼の社会主義は、そうした社会における人間の自由の要求を支持するものであった。」(347頁)