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草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

ベーシック・インカムかワーク・シェアリングか?-ケインズ「孫たちの世代の経済的可能性」から考える3

 前回記事の最後で、ケインズが「孫たちの世代の経済的可能性」で示している処方箋(皆が1日に3時間ずつ働く)は、ベーシック・インカムがいいのかワークシェアリングがいいのか問題に行き着く、という話をしました。その続き。

 

ケインズ 説得論集

ケインズ 説得論集

  

 よく指摘されるように、ベーシック・インカムの本質は「労働と所得の切り離し」にあります。経済成長が停滞し、終身雇用や年功序列などの制度が崩壊した現在、「労働と所得の結びつき」を前提とした社会設計そのものに限界があるのではないか、ということが言われるようになりました。失業率や非正規雇用率が上昇し、働く意志のある人すべての職が行き渡る時代ではなくなってきた。すると雇用を前提として組み立てられていた様々な社会制度(例えば年金制度など)がうまく機能しなくなってきます。 

 

 そこでいっそ労働と収入を切り離し、生きていくために最低必要な収入を政府が保証するようにして、それ以上に労働するかどうかは各自の自由に任せることにしてはどうか、というのがベーシック・インカムの基本的なアイデアです。月7~10万程度の生活保障費が政府からすべての国民に対して振り込まれ、国民はそれを元手として一切働かずに好きなことをして遊んでいても良いし、引きこもっていても良いし、これまで通りに働いてプラスアルファのお金を稼いでも良い。ただし、政府は月々に振り込まれる生活保障費以外には(基本的に)一切の社会保障を行わないのであとは自己責任でよろしく、というわけです。

 

ベーシック・インカム入門 (光文社新書)

ベーシック・インカム入門 (光文社新書)

 

 ベーシック・インカム論者の主張の背景にあるのは、労働は人間にとって必須の営みではないし、成熟社会においてはもはや多くの人が働く必要はないという考えですベーシック・インカムが実現されれば「食うために働く」必要はなくなる。もしベーシック・インカムを貰ったうえでなお働くのであれば、それはその人がもっと豊かな暮らしをしたいために行なっているか、お金に関係なくその仕事が好きだから(趣味として)行なっているかのどちらかだということになります。逆にいえば、お金を貰わずに好きでやっている活動(例えば、趣味に没頭したり、その成果を無償で公開したり、身近な人々の手伝いをしたり、地元を盛り上げるためのイベントを行ったりするなど)も、広い意味での「労働」と捉えることができるようになるかもしれません*1

 

  このようなベーシック・インカムの構想は、経済問題が解決された社会においても一日3時間程度の労働は残されたほうが良いと主張するケインズの思想とは対立的なものです。前々回の記事でも書いたように、ケインズは、労働という義務から完全に解放された「自由」の状態に耐えられる人はさほど多くないであろうと考えていました。一部の特殊な才能や趣味をもった人以外にとっては、「完全な自由」の状態は耐えがたいものになるだろう。有史以来、人間は「生きるために働く」ことに多くの時間と努力を費やしてきたのであり、そのことを前提としてさまざまな社会制度や慣習、価値観などが作られてきたのであるから、突然短期間のうちにそのような前提から切り離された状況で生きろと言われても、多くの人はそれに対応できないだろうとケインズは考えたのです*2

 

 そこでケインズは次のように書いたのでした。 「パンをできるかぎり薄く切ってバターをたくさん塗れるように努力すべきである。つまり、残された職をできるかぎり多くの人が分け合えるようにするべきである」。 つまり、成熟社会において収縮していく雇用(仕事)ができるだけ多くの人に行き渡るように、それを薄く広く皆でシェアするべきである。そうすれば一人あたりの労働時間は少なくなるとともに、失業者も減り、為すべきことが何もないという不安感からも解放されるだろう。それによって、長時間労働や過労死などの問題も解決されるだろう。これがワークシェアリング的な解決方法です。

 

 

  皆さんは、ベーシック・インカムワークシェアリング、雇用が収縮する成熟社会において理想的な雇用-社会保障の仕組みはどちらだと思われるでしょうか?

 

  ちなみに、ベーシック・インカムへの代表的批判論者である萱野稔人さんも、ケインズの懸念に近い意見を表明することでベーシック・インカム賛成派に疑問を投げかけています。萱野氏は次のように言います。

 ベーシック・インカムの根本的な問題点は、「働きたいのに働けない」人たちの問題を解決することができないところにある。成熟社会では経済成長が停滞し、労働力が余剰になる傾向にある。つまり、働きたくても仕事がなくて働けない、という人が大量に生み出されてしまうのが成熟社会である。労働市場から排除されてしまうこれらの人びとに対してベーシック・インカムは現金を給付することで問題を解決しようとする。 しかし、働きたいのに働けない人たちが真に求めているのはお金ではなく仕事である

 確かに現金を給付することによって彼らの生活は保障されるかもしれないが、「労働市場からの排除」という状態は固定化されてしまう。言いかえれば、ベーシック・インカムは現金給付と引き換えに、労働をつうじた社会参加の回路を切断することになる。それゆえ、ベーシック・インカムは「働きたいのに働けない」人たちを労働市場の外に放置することで、新たな社会的排除を準備することに繋がる。多くの失業者たちが直面しているのは、もちろんお金がないという問題もあるが、同時に「自分は社会的に無能力で不必要な存在かもしれない」というプレッシャーである。そうした人たちに対して、ベーシック・インカムは「お金をあげるから、黙っておとなしく労働市場の外にいてくださいよ」というメッセージを与えることになるだろう。

 これは決して社会的に望ましい事態ではない、というのが萱野氏の主張です。

 

ベーシックインカムは究極の社会保障か: 「競争」と「平等」のセーフティネット

ベーシックインカムは究極の社会保障か: 「競争」と「平等」のセーフティネット

 

 さらに悪いことに、ベーシック・インカムによる「労働からの解放」は、雇用や労働にたいして国家がもつべき責任を免除することにもなるだろう。事実、ベーシック・インカムの推進者はこれまで個別的になされてきた社会保障を一律の現金給付に一本化しろという主張をしている。例えばこれまで失業保険とセットで運用されてきた、再就職のための職業訓練や雇用対策から政府は手を引くべきだ、と彼らはいう。しかしこのようにして、雇用や労働に対する責任から政府を解放することは果たして望ましいことであろうか。これまで労働市場への参入を阻まれていた人びとはこれによっていっそう労働市場に参入しにくくなるであろう。最低水準の生活を満たすための現金を与えられたとしても、その結果として労働をつうじた社会参加から排除されてしまうのであれば、そのような状況に多くの人びとは満足するであろうか。おそらくしないであろう。

 たとえ最低限の生活水準が保障されたとしても、多くの人びとは「労働をつうじた社会参加」を求めているはずである。もし完全に「労働から解放」され、「労働市場から排除」されてしまえば、多くの人びとはその状況に耐えられず、社会的にも望ましくない状況が生まれるであろう。それゆえ、政府はまず公共事業によって雇用をつくりだし、より多くの人びとが雇用に就けるように努力をすべきである。あくまで労働・雇用を基調とした社会制度・経済市場の設計が望ましい、と萱野氏は主張します。

 

  このような萱野氏の主張は、経済問題から解放された社会状況を必ずしも望ましいものと見ないケインズの思想に極めて近いものです。ケインズは「労働をつうじた社会参加」を賛美していたわけではないし、労働という営みに積極的な価値を見出していたわけでもありませんが、あくまで消極的な意味合いにおいて、労働をつうじた社会参加や他者からの承認獲得、人間関係の形成などが確保されると考えていたように思われます。

 労働を積極的に評価するせよ、消極的に認めるにせよ、ケインズも萱野氏も「労働」が現代社会を構成するうえで重要な意義を持っており、現代人が生きていくうえで重要な役割をもつと考えていました。たしかに労働には生活のために強制的に働かねばならないという苦痛の側面が少なからず存在する。しかし労働がもつ意味はそれだけではなく、人びとを社会に結びつけ、人間関係を形成し、各人が他者や社会から必要とされていることを確認させる機能をもつと彼らは考えています。

 これは、現代社会における「労働」の機能・意義をどのように捉えるか、人間にとって根源的に労働は必要な営みであるかどうか、という大きな問いにつながる問題です。ケインズ主義者とベーシック・インカム論者をわけるのは、この労働観の差だと僕は考えています。

 

貧困を救うのは、社会保障改革か、ベーシック・インカムか

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成長なき時代の「国家」を構想する ―経済政策のオルタナティヴ・ヴィジョン―

成長なき時代の「国家」を構想する ―経済政策のオルタナティヴ・ヴィジョン―

  • 作者: 中野剛志,佐藤方宣,柴山桂太,施光恒,五野井郁夫,安高啓朗,松永和夫,松永明,久米功一,安藤馨,浦山聖子,大屋雄裕,谷口功一,河野有理,黒籔誠,山中優,萱野稔人
  • 出版社/メーカー: ナカニシヤ出版
  • 発売日: 2010/12/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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*1: ベーシック・インカム論者は、労働を基軸とした社会のあり方じたいを脱構築しようとします。働くか働かないかは各個人の自由であり、また「働く」といっても賃労働という枠組みにとらわれる必要はないはずだ、と。例えば、趣味やボランティア活動、社会運動、政治・言論活動なども広い意味での労働=活動であると捉えるべきではないか。このような発想は、近年アクティベーションという新しい政策によって一部に実現化が目指されています。

 労働によってお金を稼ぐことがアイデンティティを確立するうえで必要だという考えは、近代的な生産至上主義、賃労働中心主義にとらわれているからではないか。これに対しベーシック・インカムは、賃労働しなくても生きていける条件をつくることで、賃労働以外の場面で社会参加する可能性を広げ、そうした生産至上主義的な価値観を克服しようとします。その背景には「人びとは賃労働から解放されれば、その時間を豊かな社会生活の構築にむけるはずだ」というマルクス主義にも近い想定があるようにも思われます。この点についてはまた別の記事で言及できればと思います

*2: おそらくケインズは未来永劫、人間が労働に縛り付けられるべきだと考えていたわけではありません。もし十分な時間がたって、経済問題から解放された状況に適合した社会制度や慣習や価値観が発達したならば、誰もが「完全な自由」を豊かに享受できる時代がやってくるかもしれない。その点についてはケインズ明言を避けています。

 ケインズが述べたのは、少なくとも当分の間、人間は突然に労働(生活維持の必然性)から完全に解放されるという状況は危険であるし、最低限の「必要性/必然性necessity」に結びつけられておいたほうが人間にとっても社会にとっても健全であろうということでした。ここからは、人間は伝統的な習慣や価値観から簡単に自由になれるものではない、新しい社会体制へと移行する際には従来の慣習や制度を一定程度保ちつつ、徐々に新しい社会段階へ移行していくべきだ、というケインズの漸進主義的・保守主義的な性格が伺えます。