「普遍経済学」あるいは「過剰性の経済学」の試み――バタイユ『有用性の限界 呪われた部分』から考える1
ジョルジュ・バタイユが通常の経済学の領域にとどまらない、人類学などの知見を取り入れた「普遍経済学」を構想したことはよく知られています。普遍経済学という言葉に表れているように、バタイユのいう経済学は、いわゆる「経済」の枠を超えて、より広い社会-経済の領域をその範疇に捉えています。
この「普遍経済学」の試みこそが、現在の経済成長を前提とした経済学の限界を乗り越えるオルタナティブをわれわれに示してくれるのではないでしょうか。ここでは吉田裕『バタイユ-聖なるものから現在へ』を参考にしながら、その構想の概要を見てみたいと思います。
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バタイユの普遍経済学は、「稀少性」を前提とした通常の経済学とは異なり、「過剰性」を前提とした経済学を構想しています。「過剰excés」あるいは「余剰surabandance」という言葉がバタイユのテキストには頻出します。「過剰とは、世界が至高なありようをしているときにはどのようであるかを示す徴(しるし)、突然強調されて現れる徴なのだ」(『内的経験』)。
まずバタイユが「過剰」「余剰」の原初に見出すのは太陽エネルギーです。太陽は見返りを求めることなく、自らを破壊することによって光と熱を生み出し、一方的にその過剰なエネルギーを「贈与」している。つまり太陽から降り注ぐ光と熱は、地球上に暮らすわれわれに向けられた「純粋贈与」である。こうして与えられた太陽エネルギーをもとにして、地球上に生命体が生み出され、生態系が育まれる。
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個人的には、以下の谷川俊太郎の詩がこのイメージをよく表していると思います。
「陽は豪奢に捨てている
われわれはそれを拾うのにいそがしい
われわれはいやしい生まれなので
樹のようにゆたかに休むことがない」
(谷川俊太郎『62のソネット』より)
そして、生命体が太陽の「過剰」なエネルギーによって生み出されたものであるならば、その生命体の本質もまた「過剰さ」にあるということになる。本質としてのこの過剰さは、生命体を完結した循環の中に安住することがない。生命体は、その過剰によってつねに、元の数以上の生命体を生み出していく。それゆえ、この地球上の生命体は(とりわけ食物連鎖の頂点に立つ人間は)太陽エネルギーに由来する「過剰さ」に原初的に取り憑かれているということができる。
「まず自由なエネルギーが放出される。これは太陽エネルギーである(地球のエネルギーでもある)。この自由なエネルギーは、一つまたは複数のシステムで獲得できる。このシステムは最後にはエネルギーを再び放出する。こうして、植物は太陽エネルギーを吸収し、動物に食べられ、動物は人間のための仕事をし、やがて人間に食べられる。エネルギーと同じように、人間の糧は労働のうちでもたらされる。」
(バタイユ「1941年から1943年の構想と断章」)
このようにバタイユは「純粋贈与」としての太陽エネルギーから出発した「過剰な」エネルギーが連鎖的に放出・吸収されていく過程を「普遍経済学」の根本として捉える。人間の社会的な営みもまた、このような過剰なエネルギーの連鎖の元にあるのであり、それゆえにその営みは本質的に「過剰性」によって性格づけられている、というのがバタイユの考えであった。
バタイユによれば、未開社会においては、その過剰なエネルギーは「栄誉」の観念として、「祝祭」あるいは「供犠」のような儀礼のなかで吸収され、発出(生産・贈与)され直していました。
「栄誉とは、有用性への配慮とは独立してエネルギーそのものとして浪費すること、あるいはある側では過剰に浪費することによって発生する効果である。その意味では太陽の光はまさしく栄誉ある消費とみなすべきだ。そして民衆の意識においては、太陽の光が潤沢さ、比類のない勇気、供犠、詩的な転載など、いくつかの人間の生活の形式と似たものと考えられているのも、まさにこのためである…。」
(バタイユ『呪われた部分 有用性の限界』中山元訳、ちくま学芸文庫、39頁)
「未開の民族に共通する意識では、太陽は栄誉のイメージを示すものである。太陽は光を発散する。栄誉は太陽のように光輝くもの、光を発散するものと考えられている。素朴な人間にとって光は、神的な存在のシンボルである。光は壮麗さを備えている。この輝きは有用なものではないが、開放感を与えてくれるものである。」
(前掲書、41頁)
バタイユは、アステカ族の「栄誉ある浪費」としての祝祭-供犠を例に出すことでこれを説明しています。アステカ族では、毎年の供犠において「若く、非の打ちどころのない美しい若者」が犠牲に捧げられた。犠牲となる若者は一年前に戦の俘虜のうちから選び出され、それから一年間、その俘虜は王侯のように贅沢な暮らしを与えられる。生贄の祝祭の20日前には「みめよい四人の娘」が彼に与えられ、若者はこの20日の間、娘たちと交わる。そして生贄に捧げられる祭りの5日前に、若者は神の栄誉を与えられる。涼しく、心地良い場所で祝宴が開かれたのち、若者は神殿の階段を登る。最上段に登ると、死を与えようと待ち構えていた神官たちが若者に襲いかかり、石造りの板の上に投げ倒す。黒曜石の刀をもつ神官が若者の胸をぐさりと刺し、その刀で開けた傷口に手を差し込んで心臓を抉りとり、それをすぐに太陽に捧げる…。この饗の儀礼は休みなしに続けられ、聖なる供犠のために毎年、2万人以上の生贄が必要とされたといいます。
現代の感覚からすれば、野蛮・残酷としか思えないこの儀礼も、「純粋贈与」として与えられた生命エネルギーを栄誉の名のもとに「浪費」し、生贄を神に捧げることによって、神/太陽からの「純粋贈与」に対するささやかな「返礼」を行う意義を有していたのです。
戦場における戦士の死もまた、供犠における生贄と同様の意味をもっていました。
「戦士は自分の身体で、貪欲な神々に食べ物を奉じることになるのである。」
「戦士たちが戦の場で果てることを神々が望むのは、まことにもっともなことです。神々が戦士をこの世に送り出したのは、戦士の血と肉を、太陽と大地の糧とされんがためですから。」
(前掲書、63-64頁)
このように未開社会においては、過剰エネルギーの贈与と吸収は、祝祭-供犠における栄誉の観念とともに、それが「死」と密接に結びついていることが分かります。それはおそらく、「死」が訪れる際にその人のうちに蓄えられていた生命エネルギーが外に向かって放出される、と考えられているからでしょう。それゆえに、ふだん過剰なエネルギーを贈与してくれている神/太陽にたいして、人間の側からささやかな贈与/返礼を行う際には、健康的で美しい若者を生贄にささげることによって、その生命エネルギーを放出=贈与させる必要があるのです。
バタイユは、このような生命エネルギーのやりとり(生産・交換・消費)こそが「普遍経済学」の本質を成すと考えていました。そして繰り返しておけば、そのような生命エネルギーは原初的に「過剰なもの」です。この「過剰さ」を豊かに「交換」し、「消費」または「浪費」し、また同時にそれを「(再)生産」するという営みこそが、広い意味での社会-経済(さらには世界や宇宙)を駆動している。これがバタイユの構想した「普遍経済学」の基本的なアイデアでした。しかし、このような前近代的な〈経済〉のあり方は、西欧近代社会では大きく変質していくこととなります。次回はその変質について書いてみたいと思います。(続)