草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

「時間の経済学」あるいは「自由の王国」-マルクスの未来社会論から考える3

 前回はマルクスの両義的な労働観について書きました。

 未来社会において、労働はそれ自体を目的とするような遊戯的営み/活動となる一方で、あくまで厳しい緊張を必要とするような勤勉的営みでもあり続ける、というのがマルクスの労働未来論でした。

 今回は、マルクスの主著『資本論』における未来社会論を見てみましょう。

 

資本論 (8) (国民文庫 (25))

資本論 (8) (国民文庫 (25))

 

 マルクスは『資本論』のなかではほとんど未来社会について語っていません。

 しかし僅かに記された重要な構想として、『資本論』第3巻第48章における「必然性の王国と自由の王国」に関する記述があります。

 

 「自由はこの領域のなかではただ次のことにありうるだけである。すなわち、社会的になった人間、アソシエイトした生産者たちが、盲目的な力によって制御されるように自分たちと自然との物質代謝によって制御されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し、自分たちの共同的制御のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した諸条件のもとで物質代謝を行うということである。この王国〔領域〕のかなたで,自己目的として認められる人間の力の発展が,真の自由の王国〔領域〕が始まるのであるが,しかし,それはただかの必然性の王国〔領域〕をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである。労働日の短縮が土台である。

(『資本論』第3部第1稿。MEGAⅡ/42,S,838;MEW,Bd25,S.828.)

 

  ここでは最後に「労働日の短縮が土台である」と書かれていることからも、一見、労働がネガティブに捉えられているかのような印象を抱いてしまいそうになりますが、よく読めばそうではないことが分かるはずです。「社会的になった人間、アソシエイトした生産者たち」der vergesellschaftete Mensch, die associirten Producenten)が、「自然の物質代謝」を自らの手で管理し統御できるようになったとき、自己目的的な「人間の力の発展」が、すなわち「自由の王国」が始まる。

 つまり、未来社会において生産力が十分に向上し、人間が自然の物質代謝をコントロールし、人間に適合したかたちで利用できるようになったときに、前回記事で述べた「自己目的的な〈労働=活動〉」が開始される、ということです。

 

 ですから、この記述の最後にある「労働日の短縮が土台である」は、生命維持の必要性〔必然性〕necessityのために行われる「労働」のほうであって、理想的な「活動」としての「労働」ではありません。このように、マルクスの「労働Arbeit」概念は、それが肯定的な意味合い(活動/遊戯としての労働)で用いられているのか、否定的な意味合い(生命維持のための労働)で用いられているのか、を判断しながら読み解く必要があります。繰り返しになりますが、マルクスの労働観は常に両義的なものなのです。

 

 『資本論』の「利潤率の傾向的低下の法則」などの箇所で述べられているように、マルクスは、資本/産業の生産力が向上するに伴って人間の必要労働時間は減少し、人間の自由時間が増加すると考えていました。人間が自然の物質代謝をコントロールできるようになり、労働日を短縮させることによって、自己目的的な「人間の力の発展」、「自由の王国」が開始されるという記述も、その思考に沿ったものです。またこれは、『経済学批判要綱』における「資本の偉大な文明化作用」テーゼにも沿ったものだと言えるでしょう。

 

 確認しておけば、「資本の偉大な文明化作用」テーゼとは、資本が最高度の発展段階にまで進めば、産業の生産力向上に伴って、必要労働時間が短縮し、自由時間が増加する、これによって逆説的に資本主義が揚棄される条件が準備されるのだ、というものでした。いわば、資本主義がその発展によって自らの墓掘り人となるのです。とはいえ、『資本論』段階でのマルクスは、資本主義の発展が一直線にその限界=揚棄に繋がるとは考えていないのですが、この点についてはまた別の機会に書きます。

 

 この点に関連して、マルクスは『経済学批判要綱』のなかで「時間の経済学」という独創的かつ魅力的なアイデアを提出しています。

「個々の人間の場合のように、社会が全面的に発展し・享受し・活動するかどうかは時間の節約(Zeitersparung)にかかっている。時間の経済=節約(Okonomie der Zeit)、すべての経済は結局、そこに帰着する

 すべての経済は最終的に「時間の経済=節約」に帰着する。これは非常に重要な主張です。なぜなら、このブログで考え続けてきた問題、「なぜこれほど豊かな社会で我々はこんなに必死で働いているのか?」という問いを解くための大きな手がかりを提供してくれると考えられるからです。

 

  昨年、邦訳されたモイシュ・ポストンの『時間・労働・支配』でも、この「時間の経済学」が重要な論点として取り上げられています。ポストンの独創性は、「時間の経済」と「時間の支配」を概念的に区別したうえで、資本主義システムが「労働の支配」だけでなく「時間の支配」に基づくものであることを明らかにした点にあります。それゆえ、資本主義システムを超克しようとするならば、「労働の支配」とともに「時間の支配」をも超克せねばならない。資本主義は近代独自の「抽象的時間」に基づいた複雑な社会システムを形成しているのだとポストンは言います。

 

時間・労働・支配: マルクス理論の新地平

時間・労働・支配: マルクス理論の新地平

 

 また、『経済学批判要項』の記述を丹念に研究した内田弘も、「資本の偉大な文明化作用」がもたらす「自由時間の増大論」こそが『要項』を貫くテーマであり、初期マルクスと後期マルクスをつなぐ役割を果たしていると述べています。

 

新版 『経済学批判要綱』の研究

新版 『経済学批判要綱』の研究

 

 ポストンの主張に従えば、もし資本主義を超克した(あるいは資本主義とは異なる)経済-社会のあり方を構想しようとするならば、資本主義的な「時間の支配」とは異なる「時間の経済」のあり方をも併せて構想しなければならないことになります。つまり、非-資本主義的領域を構想するためには、非-資本主義的な「労働」と「時間」についての思索が必要とされるのです。たとえ断片的にであれ、この点に言及していたマルクスの思想はやはり偉大なものです。

 

 では、非-資本主義的な「労働」と「時間」についてどのような構想が可能か。私見では、「資本の偉大な文明化作用」によってもたらされた「自由時間の増大」に対して、我々がどのようにその自由時間を活用するのか、という点が重要なポイントになるように思います。もし資本の生産力増大に伴って、我々の社会が少しずつ「労働から解放」される方向に向かっているのであれば、我々はそこで「労働から解放」された時間に何をするのか。資本主義的な消費/贅沢を謳歌するのか、好きなことをして遊ぶのか、特に何もせずダラダラと過ごすのか、積極的に政治活動に取り組むのか、芸術活動や学問教養などに勤しむのか、etc。

 

 お気づきのとおり、これは少し前まで書いていた、ケインズの「労働から解放されたとき、人類は幸福になれるのか?いかに生きるべきなのか?」という問いと通ずる問題です。あるいは、國分功一郎さんが『暇と退屈の倫理学』のなかで、「消費」と「浪費」の区別を用いて論じようとした問題でもあります。共産主義革命を夢見たマルクスもまた、この問題について独自の構想を展開していました。

 

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

 

 我々が問うていたのは「なぜこれほど豊かな社会で我々はこんなに必死で働いているのか?」という問題、つまり「なぜ我々は何時まで経っても労働から解放されないのか?」という問題であったのに、「労働から解放されたときに我々はどのように生きるべきか?」という問いを発することは、思考が逆転しまっているように感じられるかもしれません。しかし、おそらくそうではないのです。この二つの問いは、コインの裏表のような関係にあります。

 いわば、我々は「自由時間」(余暇、非ー労働時間)の有効な使い道を見つけられていないがゆえに、何時まで経っても「労働時間」(時間の支配)から解放されないのではないか。言いかえれば、我々が正しい「自由時間」の活用方法(時間の経済)を発見したときに、「労働時間」(時間の支配)から真に解放されることが可能になるのではないか。つまり、「労働からの解放」を実現するためには、迂遠なように見えて、「余暇の活用」について考察することが必要なのではないか。この点について、次回以降も引き続き考えていきたいと思います。