草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

ベーシック・インカムかワーク・シェアリングか?-ケインズ「孫たちの世代の経済的可能性」から考える3

 前回記事の最後で、ケインズが「孫たちの世代の経済的可能性」で示している処方箋(皆が1日に3時間ずつ働く)は、ベーシック・インカムがいいのかワークシェアリングがいいのか問題に行き着く、という話をしました。その続き。

 

ケインズ 説得論集

ケインズ 説得論集

  

 よく指摘されるように、ベーシック・インカムの本質は「労働と所得の切り離し」にあります。経済成長が停滞し、終身雇用や年功序列などの制度が崩壊した現在、「労働と所得の結びつき」を前提とした社会設計そのものに限界があるのではないか、ということが言われるようになりました。失業率や非正規雇用率が上昇し、働く意志のある人すべての職が行き渡る時代ではなくなってきた。すると雇用を前提として組み立てられていた様々な社会制度(例えば年金制度など)がうまく機能しなくなってきます。 

 

 そこでいっそ労働と収入を切り離し、生きていくために最低必要な収入を政府が保証するようにして、それ以上に労働するかどうかは各自の自由に任せることにしてはどうか、というのがベーシック・インカムの基本的なアイデアです。月7~10万程度の生活保障費が政府からすべての国民に対して振り込まれ、国民はそれを元手として一切働かずに好きなことをして遊んでいても良いし、引きこもっていても良いし、これまで通りに働いてプラスアルファのお金を稼いでも良い。ただし、政府は月々に振り込まれる生活保障費以外には(基本的に)一切の社会保障を行わないのであとは自己責任でよろしく、というわけです。

 

ベーシック・インカム入門 (光文社新書)

ベーシック・インカム入門 (光文社新書)

 

 ベーシック・インカム論者の主張の背景にあるのは、労働は人間にとって必須の営みではないし、成熟社会においてはもはや多くの人が働く必要はないという考えですベーシック・インカムが実現されれば「食うために働く」必要はなくなる。もしベーシック・インカムを貰ったうえでなお働くのであれば、それはその人がもっと豊かな暮らしをしたいために行なっているか、お金に関係なくその仕事が好きだから(趣味として)行なっているかのどちらかだということになります。逆にいえば、お金を貰わずに好きでやっている活動(例えば、趣味に没頭したり、その成果を無償で公開したり、身近な人々の手伝いをしたり、地元を盛り上げるためのイベントを行ったりするなど)も、広い意味での「労働」と捉えることができるようになるかもしれません*1

 

  このようなベーシック・インカムの構想は、経済問題が解決された社会においても一日3時間程度の労働は残されたほうが良いと主張するケインズの思想とは対立的なものです。前々回の記事でも書いたように、ケインズは、労働という義務から完全に解放された「自由」の状態に耐えられる人はさほど多くないであろうと考えていました。一部の特殊な才能や趣味をもった人以外にとっては、「完全な自由」の状態は耐えがたいものになるだろう。有史以来、人間は「生きるために働く」ことに多くの時間と努力を費やしてきたのであり、そのことを前提としてさまざまな社会制度や慣習、価値観などが作られてきたのであるから、突然短期間のうちにそのような前提から切り離された状況で生きろと言われても、多くの人はそれに対応できないだろうとケインズは考えたのです*2

 

 そこでケインズは次のように書いたのでした。 「パンをできるかぎり薄く切ってバターをたくさん塗れるように努力すべきである。つまり、残された職をできるかぎり多くの人が分け合えるようにするべきである」。 つまり、成熟社会において収縮していく雇用(仕事)ができるだけ多くの人に行き渡るように、それを薄く広く皆でシェアするべきである。そうすれば一人あたりの労働時間は少なくなるとともに、失業者も減り、為すべきことが何もないという不安感からも解放されるだろう。それによって、長時間労働や過労死などの問題も解決されるだろう。これがワークシェアリング的な解決方法です。

 

 

  皆さんは、ベーシック・インカムワークシェアリング、雇用が収縮する成熟社会において理想的な雇用-社会保障の仕組みはどちらだと思われるでしょうか?

 

  ちなみに、ベーシック・インカムへの代表的批判論者である萱野稔人さんも、ケインズの懸念に近い意見を表明することでベーシック・インカム賛成派に疑問を投げかけています。萱野氏は次のように言います。

 ベーシック・インカムの根本的な問題点は、「働きたいのに働けない」人たちの問題を解決することができないところにある。成熟社会では経済成長が停滞し、労働力が余剰になる傾向にある。つまり、働きたくても仕事がなくて働けない、という人が大量に生み出されてしまうのが成熟社会である。労働市場から排除されてしまうこれらの人びとに対してベーシック・インカムは現金を給付することで問題を解決しようとする。 しかし、働きたいのに働けない人たちが真に求めているのはお金ではなく仕事である

 確かに現金を給付することによって彼らの生活は保障されるかもしれないが、「労働市場からの排除」という状態は固定化されてしまう。言いかえれば、ベーシック・インカムは現金給付と引き換えに、労働をつうじた社会参加の回路を切断することになる。それゆえ、ベーシック・インカムは「働きたいのに働けない」人たちを労働市場の外に放置することで、新たな社会的排除を準備することに繋がる。多くの失業者たちが直面しているのは、もちろんお金がないという問題もあるが、同時に「自分は社会的に無能力で不必要な存在かもしれない」というプレッシャーである。そうした人たちに対して、ベーシック・インカムは「お金をあげるから、黙っておとなしく労働市場の外にいてくださいよ」というメッセージを与えることになるだろう。

 これは決して社会的に望ましい事態ではない、というのが萱野氏の主張です。

 

ベーシックインカムは究極の社会保障か: 「競争」と「平等」のセーフティネット

ベーシックインカムは究極の社会保障か: 「競争」と「平等」のセーフティネット

 

 さらに悪いことに、ベーシック・インカムによる「労働からの解放」は、雇用や労働にたいして国家がもつべき責任を免除することにもなるだろう。事実、ベーシック・インカムの推進者はこれまで個別的になされてきた社会保障を一律の現金給付に一本化しろという主張をしている。例えばこれまで失業保険とセットで運用されてきた、再就職のための職業訓練や雇用対策から政府は手を引くべきだ、と彼らはいう。しかしこのようにして、雇用や労働に対する責任から政府を解放することは果たして望ましいことであろうか。これまで労働市場への参入を阻まれていた人びとはこれによっていっそう労働市場に参入しにくくなるであろう。最低水準の生活を満たすための現金を与えられたとしても、その結果として労働をつうじた社会参加から排除されてしまうのであれば、そのような状況に多くの人びとは満足するであろうか。おそらくしないであろう。

 たとえ最低限の生活水準が保障されたとしても、多くの人びとは「労働をつうじた社会参加」を求めているはずである。もし完全に「労働から解放」され、「労働市場から排除」されてしまえば、多くの人びとはその状況に耐えられず、社会的にも望ましくない状況が生まれるであろう。それゆえ、政府はまず公共事業によって雇用をつくりだし、より多くの人びとが雇用に就けるように努力をすべきである。あくまで労働・雇用を基調とした社会制度・経済市場の設計が望ましい、と萱野氏は主張します。

 

  このような萱野氏の主張は、経済問題から解放された社会状況を必ずしも望ましいものと見ないケインズの思想に極めて近いものです。ケインズは「労働をつうじた社会参加」を賛美していたわけではないし、労働という営みに積極的な価値を見出していたわけでもありませんが、あくまで消極的な意味合いにおいて、労働をつうじた社会参加や他者からの承認獲得、人間関係の形成などが確保されると考えていたように思われます。

 労働を積極的に評価するせよ、消極的に認めるにせよ、ケインズも萱野氏も「労働」が現代社会を構成するうえで重要な意義を持っており、現代人が生きていくうえで重要な役割をもつと考えていました。たしかに労働には生活のために強制的に働かねばならないという苦痛の側面が少なからず存在する。しかし労働がもつ意味はそれだけではなく、人びとを社会に結びつけ、人間関係を形成し、各人が他者や社会から必要とされていることを確認させる機能をもつと彼らは考えています。

 これは、現代社会における「労働」の機能・意義をどのように捉えるか、人間にとって根源的に労働は必要な営みであるかどうか、という大きな問いにつながる問題です。ケインズ主義者とベーシック・インカム論者をわけるのは、この労働観の差だと僕は考えています。

 

貧困を救うのは、社会保障改革か、ベーシック・インカムか

貧困を救うのは、社会保障改革か、ベーシック・インカムか

成長なき時代の「国家」を構想する ―経済政策のオルタナティヴ・ヴィジョン―

成長なき時代の「国家」を構想する ―経済政策のオルタナティヴ・ヴィジョン―

  • 作者: 中野剛志,佐藤方宣,柴山桂太,施光恒,五野井郁夫,安高啓朗,松永和夫,松永明,久米功一,安藤馨,浦山聖子,大屋雄裕,谷口功一,河野有理,黒籔誠,山中優,萱野稔人
  • 出版社/メーカー: ナカニシヤ出版
  • 発売日: 2010/12/10
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*1: ベーシック・インカム論者は、労働を基軸とした社会のあり方じたいを脱構築しようとします。働くか働かないかは各個人の自由であり、また「働く」といっても賃労働という枠組みにとらわれる必要はないはずだ、と。例えば、趣味やボランティア活動、社会運動、政治・言論活動なども広い意味での労働=活動であると捉えるべきではないか。このような発想は、近年アクティベーションという新しい政策によって一部に実現化が目指されています。

 労働によってお金を稼ぐことがアイデンティティを確立するうえで必要だという考えは、近代的な生産至上主義、賃労働中心主義にとらわれているからではないか。これに対しベーシック・インカムは、賃労働しなくても生きていける条件をつくることで、賃労働以外の場面で社会参加する可能性を広げ、そうした生産至上主義的な価値観を克服しようとします。その背景には「人びとは賃労働から解放されれば、その時間を豊かな社会生活の構築にむけるはずだ」というマルクス主義にも近い想定があるようにも思われます。この点についてはまた別の記事で言及できればと思います

*2: おそらくケインズは未来永劫、人間が労働に縛り付けられるべきだと考えていたわけではありません。もし十分な時間がたって、経済問題から解放された状況に適合した社会制度や慣習や価値観が発達したならば、誰もが「完全な自由」を豊かに享受できる時代がやってくるかもしれない。その点についてはケインズ明言を避けています。

 ケインズが述べたのは、少なくとも当分の間、人間は突然に労働(生活維持の必然性)から完全に解放されるという状況は危険であるし、最低限の「必要性/必然性necessity」に結びつけられておいたほうが人間にとっても社会にとっても健全であろうということでした。ここからは、人間は伝統的な習慣や価値観から簡単に自由になれるものではない、新しい社会体制へと移行する際には従来の慣習や制度を一定程度保ちつつ、徐々に新しい社会段階へ移行していくべきだ、というケインズの漸進主義的・保守主義的な性格が伺えます。

「労働からの解放」は可能か?-ケインズ「孫の世代の経済的可能性」から考える 2

 前回からの続き。

 前回に書いたようなケインズの予言は、現代社会において半分当たったとも言えるし、半分外れだったとも言えるでしょう。おそらくケインズが予想していた通りに、あるいはそれ以上に、ケインズの時代から経済は目ざましい成長を遂げ、物質的な面からすれば社会は驚くほど豊かになりました。しかし他方で、われわれはいまだ生存/生活のための労働の必要性から解放されてはいません。長時間労働や過労死・過労自殺、不安定な雇用、正規労働と非正規労働の格差、就職難、雇用の縮小などはいまだ多くの先進国が抱える問題です。それどころか、これらの労働・雇用をめぐる諸問題は、近年になってよりいっそう深刻度を増してきていると言うべきでしょう。

 

ケインズ 説得論集

ケインズ 説得論集

 

 その背景にはさまざまな要因がありますが、おおまかに述べるならば、グローバル化の進行や通信技術の発展に伴って、先進国から新興国・途上国へと雇用が流出するようになり、また技術革新や生産力の工場に伴って省人化が進み、先進国内の雇用縮小が進むようになったことが挙げられます。また社会-経済の流動化に伴い、雇用が不安定化し、非正規雇用の割合が増加し、一国内の経済格差が拡大するようになりました。その結果として、とりわけ若者の就職難が社会問題化し、先進国の経済成長も停滞しがちになります。経済的・物質的には豊かになった先進諸国においても、労働-雇用に関わる諸問題をどのように解決していくかはいまだに大きな課題となっています。

 

参考過去記事:

「雇用収縮の時代」を生きる。

どうして先進諸国の失業率が上昇しているのか?

 

 これらの状況をみれば、ケインズの予測は大きく外れたようにも思えます。実際のところ、経済規模では大きく成長しても、労働時間の推移を見ればここ数十年ではさほど大きく減少していません(むしろここ数年で労働時間の減少傾向が反転した先進国もあります)。いまだ先進諸国においても、経済格差や貧困問題は解決されたとはとても言えないし、途上国に目を向ければ状況はいっそう悲惨です。グローバル化が進んだ結果、得られた恩恵も大きいが、その反面、雇用の縮小や不安定化など失ったものも決して少なくはないように思えます。ケインズが予測した「経済問題から解放された社会状態」は、いまだどの国家においても実現されてはいないし、今後も当分実現される見込みはないのではないか。このような疑念が起こってくることもまた確かです。

 

 

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※参照:社会実情データ図録http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/3100.html

 

 経済問題からの解放、とりわけ「労働からの解放」についてのケインズの予測をめぐる、現在の両義的状況をわれわれはいかに受け止めるべきでしょうか。これは一筋縄ではいかない大きな問題、とくに社会-経済が成熟期を迎えつつある先進諸国にとって重大な問題です。このような問いに簡単に結論を与えることはもちろんできませんが、前回記事の最後に述べた「余暇と退屈」問題について、ケインズが暫定的に与えている処方箋がとても興味深いものなので、この点から思考を先に進めてみたいと思います。

 

 経済問題から解放された人間の多くは、自由な余暇をどうすごして良いかが分からず、ノイローゼに陥るのではないかという懸念に対して、ケインズは次のように述べています。

 

 「今後もかなりの時代にわたって、人間の弱さはきわめて根強いので、何らかの仕事をしなければ満足できないだろう。いまの金持ちが通常行なっているよりたくさんの仕事をして、小さな義務や仕事や日課があるのをありがたく思うだろう。しかしそれ以外の点では、パンをできるかぎり薄く切ってバターをたくさん塗れるように努力すべきである。つまり、残された職をできるかぎり多くの人が分け合えるようにするべきである。一日三時間勤務、週十五時間勤務にすれば、問題をかなりの期間、先延ばしできるとも思える。一日三時間働けば、人間の弱さを満足させるのに十分ではないだろうか。」

 

  ここでケインズは、特別な才能をもたない多くの平凡な人びとは、一日に3時間程度の仕事に取り組むべきではないかという提案をしています。たとえ生存/生活の問題から解放されていたとしても、人びとは半強制的に働くようにしたほうが個人にとっても社会にとっても健全ではないか。そのほうが、多くの人びとにとっては社会参加や承認の機会を得、人間関係を形成し、生きている意義を見出しやすいのではないか。一日3時間の仕事が終われば、残りの21時間はそれぞれ好きに楽しめばよい。娯楽に身を任せても、趣味に没頭しても、無為に時間をすごしても、あるいはさらに多くの時間を仕事に費やしても、それは各人の自由である。ただし、一定程度の強制があったほうが多くの人間にとっては健全な社会生活を営むことができるし、社会-経済も滞りなく回るようになるのではないか。これがケインズの与えた暫定的処方箋でした。  

 

 つまるところ、完全に労働から解放されるのではなく、むしろ一定程度は労働に生活を結びつけておいたほうが、かえって豊かな人生を送ることができるのではないかというのがケインズの考えだったのです。皆さんはケインズが与えるこの処方箋をどう思われるでしょうか。消極的でつまらない提案だと思われるか、正当性のある真っ当な提案だと思われるか、どちらでしょうか。

 私見では、ケインズが行っているこの提案は、成熟社会における理想の雇用制度-社会保障の仕組みは、ベーシック・インカムが良いのかワーク・シェアリングが良いのか、という昨今広くなされている議論につながります。この点について、次回の記事で考えていこうと思います。

「労働からの解放」は可能か? -ケインズ「孫の世代の経済的可能性」から考える

 このブログを始めた頃の記事で「なぜこんなに豊かな社会で我々はこんなにも働いているのか?」という問いを出したことがあります。その問いについて考えるための重要なヒントを与えてくれる短いエッセイがあります。ケインズが1930年に発表した「孫の世代の経済的可能性」というエッセイです。今回はそのエッセイについて紹介してみます。

 

 ケインズはこのエッセイのなかでなんと、およそ100年後にはほとんどの経済的問題は解決されてしまっているだろうと述べています。世界恐慌(1929年)が起こった直後に、このようなエッセイを発表していること自体驚くべきことであり、ケインズの先見性をよく示していると言えますが、このエッセイのなかでケインズが行なっている予言は現代社会にとってさまざまな示唆に富んでいます。

 

ケインズ 説得論集

ケインズ 説得論集

 

 ケインズは当時の世界経済が悲観論に陥っていると述べたうえで、人類史の経済的・技術的な発展の歩みをおおまかに振り返り、紀元前2000年から18世紀初めまでは、世界の文明の生活水準はさほど大きく変わってなかったであろうと述べます。たしかに様々な社会変動はあったが、これらの時代において本当に重要な技術はすでに有史の黎明期においてほとんど揃っていた(言語、火、農業、牧畜、宗教、政治など)、と。

 

 近代が幕を明けたのは、16世紀に資本の蓄積が始まってからであり、その後、科学技術が飛躍的な勢いで進歩し、19世紀以降には蒸気機関、電気、化学工業、大量生産方式など、列挙に暇がないほどの発明がなされました。その結果、世界の人口が大幅に増加し、生産力が飛躍的に向上します。このような技術進歩と資本蓄積の勢いは、一時的な不況によって停滞することがあるとしても、長期的な目でみれば伸び続けることは間違いがなく、100年後の2030年には先進国の生活水準は1930年時点のものより4倍から8倍の間になっているであろうとケインズは予測しています

 ちなみに1930年時点のアメリカ合衆国GDPは7692.2億ドルで、2012年時点のそれは135,950.8億ドルですから、この82年間だけでもGDPは単純計算で17倍以上になっています。その意味では、アメリカ経済の成長はケインズの予測をはるかに上回っていたと言えるでしょう。

 

 このような前提に立ったうえで、ケインズは次のように述べます。「結論として、大きな戦争がなく、人口の極端な増加がなければ、百年以内に経済的な問題が解決するか、少なくとも近く解決するとみられるようになるといえる。これは将来を見通すなら、経済的な問題が人類にとって永遠の問題ではないことを意味する。」

 

 現実にはこの後、第二次世界大戦が勃発し、戦後世界において人口は爆発的に増加したので、今のところケインズの予測が外れたことを批判するのは的外れなのかもしれません。しかし経済成長の進歩度合いについて言うならば、それらの障害にもかかわらず(あるいはそれらの要素が結果的に長期的な経済成長につながった側面もあるのかもしれないが)、ケインズの予測は見事に当たったと言うべきでしょう。

 ここで見過ごすことができないのは、この引用文に続く以下のような記述です。

 

「経済的な問題、すなわちいかにして生存(日々の生活)を確保するかという問題は、これまでの人類にとっての最重要問題であった。だが、もし百年後にこの問題が解決されたとすれば、人類は誕生来の目的を奪われることになるだろう。」

 

 「 これは良いことなのだろうか。人生の真の価値を信じているのであれば、少なくともこの見通しから良い結果が生まれる可能性がある。しかしごく普通の庶民は、数え切れないほどの世代にわたって教えこまれてきた習慣と本能を、わずか数十年の間に放棄することを求められることになりうるのだから、この再調整はとんでもなく困難だと思える。」

 

  つまりこれは、生存/生活のために働くという目的を奪われてしまった人間が、果たしてその後にどのような生き方をすれば良いのか、という大きな問いになる。生存のための労働から解放された人間は果たして幸福なのだろうか?あるいは、どのように生きれば未来の彼らは幸福に生きられるのだろうか?

 

 この点に関してケインズは少々悲観的な見通しをしています。すなわち、労働から解放された人びとの一部は、一種の「ノイローゼ」に陥ってしまうのではないだろうか、というのです。その例としてケインズは、先進国での裕福な階級の夫人が「豊かさのために伝統的な仕事や職を奪われ」「経済的な必要という刺激がなくなって、料理や掃除、縫い物には興味がもてないし、かといってもっと興味がもてるものを見つけ出すこともできない」でいる状態を挙げています。

 

 経済的問題から解放されたとして、一部の豊かな才能をもつ人びとはそのようなノイローゼに陥ることなく、人生を謳歌することができるのかもしれない。彼らは「好きなこと」に没頭することで人生を豊かにすごすことができるだろう。しかしそのような恵まれた才能や趣味をもつことができるのはごく一部の人びとに限られるのではないか。圧倒的に多くの人びとは、「何もすることがない」状態に堪えきれず、精神を病んでしまうのではないか。ケインズはこのような心配をしています。

 

 「したがって、天地創造以来はじめて、人類はまともな問題、永遠の問題に直面することになる。切迫した経済的な必要から自由になった状態をいかに使い、科学と複利の力で今後に獲得できるはずの余暇をいかに使って、賢明に、快適に、裕福に暮らしていくべきなのかという問題である。」

 

  つまり、ここで問題になっているのは「余暇と退屈」の問題です。資本蓄積と科学技術の発展によって増加した余暇をいかに豊かにすごすことが可能か。「退屈」状態に陥ることなく、精神を病むこともなく、さらには社会を豊かで快適な状態に保ったままで、いかに余暇を自由にすごすのか。こういった生き方をめぐる問いが、経済問題が解決した成熟社会においてわれわれが抱えるべき問題なのだと言えるでしょう。これは國分功一郎さんが『暇と退屈の倫理学』で論じた問題でもあります。 

 

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

 

 ではケインズはこの「余暇と退屈」の問題にたいしてどのような処方箋を与えたのか。次回の記事ではそのことを見ていきたいと思います。

なぜ「仕事で自己実現」は人気がなくなったのか?-マズローの5段階欲求説から考える

 前回は社会的企業について書きました。起業の目的が「お金儲け」から「社会貢献」に変化してきているのではないか、という話でした。これと同じような変化が個人の働く意識レベルでも起きているのではないか、というのが今回の話です。

 

 最近の若者は働くことに「自己実現」を求める傾向がある、なんて言われたりします。自己実現幻想、というやつですね。『グローバル時代の人的資源論―モティベーション・エンパワーメント・仕事の未来』という本でも渡辺聰子さんが、ポスト近代社会では「仕事における自己実現至上主義」傾向が進む、という話をされていたりします。

グローバル時代の人的資源論―モティベーション・エンパワーメント・仕事の未来

グローバル時代の人的資源論―モティベーション・エンパワーメント・仕事の未来

 

 渡辺さんは有名なマズローの「欲求5段階説」に依りながらこれを説明しています。マズローの「欲求5段階説」とは、心理学者のマズローさんが提唱したもので、人間の欲求を以下の5つに分類し、人間の欲求は(1)から順に低次の段階が満たされると高次の段階へ移行していくようになる、という仮説です。

(1) 生存欲求(生理的欲求)

(2) 安全欲求(安全に対する欲求)

(3) 所属欲求(愛情と帰属に対する欲求)

(4) 承認欲求(自尊心に対する欲求および社会的地位や評判に対する欲求)

(5) 自己実現欲求

少々単純すぎる気もしますが、同時になんとなくうまく人間の欲求を説明してくれている気もするので、企業のキャリア研修なんかでよく使われていたりします。

 

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〔図〕マズローの5段階欲求説

 

 渡辺聰子さんによれば、ポスト近代社会では (1)~(4)の欲求はすでにそれなりに満たされてしまっているので、今後重要になっていくのは(5)自己実現欲求の段階だろう、とされています。「労働」の場面においてもその傾向は認められ、「労働人口のかなりの部分が、仕事に対して物質的報酬以上のものを期待しており、彼らにとって仕事は自負心を満足し、人生に意義を与える重要なものとなっている」(『グローバル時代の人的資源論』74頁)のだそうです。

 

 産業構造の中心が第二次産業(製造業)から第三次産業(サービス・情報業)へと移行するなかで、徐々に生活水準が向上し、生理的欲求や物質的欲求が一定程度満たされるようになると、人間の欲求は「所属」「愛情」や「承認」「自己実現」などの精神的次元へと移行するだろう、というのがマズロー欲求5段階説から導かれる推定です。渡辺さんのいう「仕事における自己実現至上主義」とは「仕事の第一義的意味は自己実現であるとする仕事観であり、仕事は何よりもまず生きがいを与え、自己発展のプロセスとなるものでなければならないという考え方」だそうです。渡辺さんは独自のインタビュー調査や理論考察に基づきつつ、この仮説を裏付けています。

人間性の心理学―モチベーションとパーソナリティ

人間性の心理学―モチベーションとパーソナリティ

 

 しかし昨今では、むしろこのような「仕事における自己実現至上主義」を批判する風潮のほうが強くなっているように思われます。曰く、「仕事に自己実現なんて求めるほうが間違っている」「そういった甘っちょろい考え方で仕事に臨まれても困る」「そもそも実現すべき"本当の自己"なんてあるのか」「これだから最近の若者は…」といった感じで、年長者による若者批判のバリエーションの1つとして否定的に言及されることが多い。実際に最近の就活では志望動機などで「自己実現」という単語を使わないほうがよい、といった指導もなされているようです。

自分探しが止まらない (ソフトバンク新書)

自分探しが止まらない (ソフトバンク新書)

やりがい論―「自分探し症候群」から抜け出すために

やりがい論―「自分探し症候群」から抜け出すために

 

  豊田義博『就活エリートの迷走』(ちくま新書)では、自己実現ストーリーに基いたES対策、面接対策に長けた「就活エリート」 たちが、実際に入社してみると仕事面でいかに使えない人材であることが分かり、採用マッチングに重大な問題をきたしていることが書かれていました。自己実現幻想をもって有名企業に入社してきた「就活エリート」たちは、実際に働き始めてちょっとした壁にぶつかるとすぐに「これは俺のやりたい仕事じゃない」「この職場では俺の夢は実現できない」という風に考えてしまい、挫折してしまうのだそうです。

就活エリートの迷走 (ちくま新書)

就活エリートの迷走 (ちくま新書)

 

 また若者の雇用問題に詳しい教育社会学者の本田由紀さんが提唱した「やりがいの搾取」問題も、「仕事における自己実現主義」を後退させた要因のひとつであると考えられます。「やりがいの搾取」とは、仕事に「やりがい」を求める若者たちを利用する企業が、低賃金や劣悪な環境のもとで長時間働かせるという「搾取」的な事態が生じていることを問題として提起された概念です。もともとは阿部真大さんが自身のバイク便ライダー経験を元にして書かれた『搾取される若者たち ―バイク便ライダーは見た!』 (集英社新書)の中で提唱されている「自己実現ワーカホリック」に本田さんが触発されて、その事態をさらに精緻に理論化し考察を深めたものです。

軋む社会---教育・仕事・若者の現在 (河出文庫)

軋む社会---教育・仕事・若者の現在 (河出文庫)

搾取される若者たち ―バイク便ライダーは見た! (集英社新書)

搾取される若者たち ―バイク便ライダーは見た! (集英社新書)

 

 

 このように、ここ10年くらいの間に「仕事における自己実現主義」は不人気になってしまいました(もちろん一部には、現在でも「仕事で自己実現」を煽る就活本や自己啓発本などがあり、それを実践している人たちもいるのですが)。そこで「自己実現」の代わりに重視されるようになってきたのが「承認」や「社会貢献」というキーワードです(このことは前回の記事の最後でも少し触れました)。就活などで「御社で自己実現したいです!」というよりも「御社で社会貢献がしたいです!」というほうが何となくイメージが良いのでは、という風潮が高まっているように思われます*1。実際に僕の後輩でも「何か社会の役に立つ仕事がしたい」という発言をする割合が増えているような印象があります。(もちろんそのこと自体は何ら悪いことではないと思います)

 

 なぜこのような変化が起きているのでしょうか。詳しい原因はわかりません。しかし世論調査などの傾向を見ても、この変化を裏づける結果が出ているように見えます。内閣府が毎年行っている世論調査のなかに「働く目的は何か」を訊いている項目があります。

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参考:内閣府「国民生活に関する世論調査」(平成24年6月)

 

 

 こういう世論調査では質問項目の用意の仕方などによって出てくる結果がずいぶん違うのであまり断定的なことを言うのは難しいのですが、あまり細かいことを気にせずにこの調査結果を分析してみます。この12年間で「働く目的」がどのように変化したのかをまとめると以下のようになります。(前者が平成13年(2001)、後者が平成24年(2012年)の数字。)

1位:「お金を稼ぐために働く」 49.5%→51.1%(+1.6%)

2位:「生きがいを見つけるために働く」 24.4%→20.8%(-3.6%) 

3位:「社会の一員として、務めを果たすために働く」 10.0%→14.8%(+4.8%)   

4位:「自分の才能や能力を発揮するために働く」 9.0%→8.8%(-0.2%) 

 

 これらの回答を思い切ってマズローの5段階欲求に対応させてみるならば、次のようになるのではないでしょうか。(適当)

「お金を稼ぐために働く」⇒ (1) 生存欲求 & (2) 安全欲求

「生きがいを見つけるために働く」 ⇒ (5) 自己実現欲求

「社会の一員として、務めを果たすために働く」 ⇒ (3) 所属欲求 & (4) 承認欲求   

「自分の才能や能力を発揮するために働く」 ⇒ (5) 自己実現欲求

 

  細かい説明をし始めると長くなるので省きますが、上記の対応づけが正しいとするならば、この12年間で回答割合に変化が認められるのは、「生きがいを見つけるために働く」 (自己実現欲求)と、「社会の一員として、務めを果たすために働く」(所属欲求&承認欲求) の二つです。「お金を稼ぐために働く」と「自分の才能や能力を発揮するために働く」 は年ごとに微妙な変化はあるものの、大きな変化はありません。

 そうするとこの12年間では、「生きがいを見つけるために働く」 (自己実現欲求)の割合が3.6ポイント減少し、「社会の一員として、務めを果たすために働く」(所属欲求&承認欲求)  の割合が4.8ポイント増加したことになります。すなわち、この12年間で「仕事に自己実現を求める割合」が4ポイント弱低下したのに対して、「仕事に所属や承認を求める割合」は5ポイント近く上昇し、この二つの「働く目的」が逆方向の変化を示していることが分かります。

 つまり「働く目的」として「自己実現」を重視する人の割合がやや低下し、「社会貢献」(あるいは「所属」と「承認」)を重視する人の割合がやや増加しているのではないか、という結論をこの世論調査から導くことができます。*2

 

  また、NHK放送文化研究所が5年毎に行っている「日本人の意識」調査には、「理想の仕事の条件」に関する質問項目がありますが、この調査結果も興味深いものです。

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〔図〕NHK放送文化研究所編『現代日本人の意識構造』(第7版、2010年)より筆者作成

現代日本人の意識構造 (NHKブックス)

現代日本人の意識構造 (NHKブックス)

 

  この調査では先の世論調査とはまた質問項目などが異なるので比較するには難しいところがあるのですが、とりあえずこの調査についても時系列の変化をまとめてみると以下のようになります。(前者が1973年の数字、後者が2008年の数字)

《健康》 健康をそこなう心配がない仕事:28%→17%(-11%)

《専門》 専門知識や特技が生かせる仕事:15%→18%(+3%)

《仲間》 仲間と楽しく働ける仕事:15%→21%(+6%)

 

 ここでも主要な回答項目をあえてマズローの5段階欲求に対応させてみると次のようになるでしょう。(やや強引ですが…)

《健康》 健康をそこなう心配がない仕事 ⇒ (1) 生存欲求 & (2) 安全欲求

《専門》 専門知識や特技が生かせる仕事 ⇒ (5) 自己実現欲求

《仲間》 仲間と楽しく働ける仕事 ⇒ (3) 所属欲求 & (4) 承認欲求

 

 するとこの調査では、《仲間》=所属欲求&承認欲求 を重視する割合がこの35年間で最も増加しており(+6ポイント)2008年調査では1位、次に《専門》=自己実現欲求を重視する割合の増加が大きく(+3ポイント)2008年調査では2位、《健康》=生存欲求&安全欲求を重視する割合は大きく減って(ー11%)2008年調査では3位、となりました。

 先ほどの世論調査とはいろんな点でレベルが違うので単純に一般化することはできませんが、しかしこの調査でも働くなかで「専門知識や特技を生かす」ことよりも「仲間と楽しく働く」ことを重視する傾向が強まっていることが分かります。ここからもやはり「自己実現よりも社会貢献や承認・所属」という労働観の変化を読み取ることができるのではないでしょうか。

 

※繰り返しになりますが、ここで行った考察は社会学的分析としてはかなり大ざっぱなものなのでおそらくツッコミどころ満載です。そもそもこれらの回答項目をマズローの5段階欲求に対応づけていいのか、という大きな問題点があります。あくまで近年の「労働観の変化」をざっくり読み解くための第一次近似的な考察、とお考えください。何かご批判・アドバイスなどあれば歓迎いたします。

 

 

参考記事:

就活:NPO目指す動き活発…狭き門でも「社会貢献を」(毎日新聞)

お金より社会貢献 変わる幸せの価値観(中日新聞 學生之新聞)

 

 

*1:他方で最近ではこの風潮もすでに廃れ始め、就活では安易に「社会貢献」と言わないほうがいい、とアドバイスする人たちもいますが。事ほど左様に、就活対策の流行は移ろいやすいのです

*2:といっても、わずか4~5ポイントの変化でしかなく、全体の順位も変化していないので、この結果からどれだけ「人々の働く目的の変化」を読み取っていいかどうかは微妙なところなのですが。このあたり、僕はあまり統計調査の読み方に詳しくないので、もし詳しい人がおられましたら何かアドバイスください。

なぜ社会的企業が注目されるのか? -「社会貢献」への欲望

 前回はオープンソース運動を例にとって、ネット上でどのような利他的行為が発現するのか、ということについて書きました。利他的行為といっても、それは「純粋な利他的行為」ではなく、利他的であると同時に「承認への欲望」や「コミュニティへの欲望」に支えられたものなのではないか、と。つまり利己性と利他性は必ずしも矛盾するものではなく、利他的であると同時に行為者の利己的な欲望を満たす場合もありうるのではないか。

 

 それに少し似たケースとして、近年注目されている社会現象として社会的企業」(Social Enterprise)があります。社会的企業とは、ビジネスの手法を通じて社会問題の解決を目指す企業のことをいいます。ソーシャル・ビジネスと呼ばれることもあります。従来は、貧困問題や教育問題、町おこしなどの社会問題はボランティア活動を通じた解決が図られることが多かったのですが、社会的企業は社会問題の解決に取り組みながらきちんと収益もあげていこうというアプローチをとっています。

ソーシャル・エンタープライズ―社会的企業の台頭

ソーシャル・エンタープライズ―社会的企業の台頭

 

社会起業家―社会責任ビジネスの新しい潮流 (岩波新書)

社会起業家―社会責任ビジネスの新しい潮流 (岩波新書)

 

 社会的企業が有名になったきっかけのひとつは、2006年にノーベル賞を受賞したムハマド・ユヌスのグラミン銀行の取り組みです。グラミン銀行はバングラデシュでマイクロクレジットという手法を用いて貧困層への低金利融資を行っており、バングラデシュの貧困問題解決に寄与したとされています。5人一組でグループを組ませて連帯責任を負わせる(連帯保証ではない)というユニークな方法をとり、利用者の97%が女性で、貸し倒れ率は2%を切っているとのこと。貧困の連鎖を断ち切り、貧困層(とりわけ女性)の働く意欲を高め、経済的・社会的自立を高めたと言われています。

参考サイト:グラミン銀行のマイクロファイナンス制度

貧困のない世界を創る

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グラミン銀行を知っていますか―貧困女性の開発と自立支援

グラミン銀行を知っていますか―貧困女性の開発と自立支援

 

 日本での社会的企業の例としては病児保育に取り組んでいるNPO法人フローレンスが有名です。フローレンスは社会起業家である駒崎弘樹さんが現在の日本では病児保育サービスが圧倒的に不足しているという問題意識から始められたものです。フローレンスは、一般的な「病児保育施設」の仕組みとは異なり、「非・施設型」という仕組みを取っています。病児保育スタッフとしての研修を受けた子育て経験者が「レスキュー隊」として在宅で病気の子どもを看るというシステムになっているとのこと。これによって病児を預けて働きたい親と、在宅で働きたい子育て経験者との双方のニーズを満たすことができます。起業家の駒崎弘樹さんとしては、単に病児保育問題を解決するだけでなく、そのことを通じて日本人の「働き方改革」をしたいという想いがあるようです。

参考サイト:病児保育の新しいかたち「フローレンス」

「社会を変える」を仕事にする 社会起業家という生き方

「社会を変える」を仕事にする 社会起業家という生き方

働き方革命―あなたが今日から日本を変える方法 (ちくま新書)

働き方革命―あなたが今日から日本を変える方法 (ちくま新書)

 

 

 また株式会社マザーハウスでは、バングラデシュの貧困問題を解決するために現地に革製品をつくる工場をつくり、そこで雇用を生み出すとともに、デザイン的にも優れた革製品(バッグ、財布など)を生産し日本で販売するというソーシャル・ビジネスを行っています。この会社を起業された山口絵理子さんの活動は情熱大陸でも取り上げられました。また会社ホームページのマザーハウス・ストーリーにもまとめられています。

 


情熱大陸 マザーハウス 山口絵理子 1 of 2 - YouTube


情熱大陸 マザーハウス 山口絵理子 2 of 2 - YouTube 

 

 さらには、 先進国の食事代に数十円上乗せした金額分を途上国への寄付に回すことで途上国の食事状態改善を目指すTABLE  FOR TWOプロジェクトなど、現在では日本でもさまざまな社会的企業が存在します。

 ここで考えてみたのは、なぜ近年の日本で社会的企業(起業)が注目されるようになったのか?ということです。社会的企業への批判のひとつとして、どのような企業であれ何らかの社会的意義を持っているからこそ存在しているのであり、ことさらに「社会問題をビジネスで解決する」ことを前面に押し出した「社会的企業」などと名乗る必要があるのか?というものがあります。確かにその批判には一理ありますが、ここで考えるべきは、それにもかかわらず、なぜ「社会問題の解決」を前面に押し出すことがそれほど注目を集めるようになったのか、ということではないでしょうか。

“想い”と“頭脳”で稼ぐ 社会起業・実戦ガイド 「20円」で世界をつなぐ仕事

“想い”と“頭脳”で稼ぐ 社会起業・実戦ガイド 「20円」で世界をつなぐ仕事

 

 言いかえれば、なぜ近年の優秀な起業家は「社会問題の解決」を目的とした起業を行うようになっているのでしょうか?もちろんそれとは異なるタイプの起業をする人たちもたくさんいます。しかし、2000年代前半のホリエモンのように「ベンチャーで一発あてて大儲け」的な起業スタイルは以前に比べて明らかに減っているように思われます(あるいは数としてはそれほど変わらず、注目されなくなっただけかもしれませんが)。ホリエモン村上世彰氏が逮捕された年とムハマド・ユヌスノーベル賞を受賞した年がどちらも2006年だというのは興味深い一致です。(もちろん偶然にすぎませんが)

 

 ホリエモン村上世彰氏の逮捕劇をきっかけとして、浮ついたITベンチャーブームは一気に萎んでいくことになりました。その代わりに登場してきたのが、社会問題の解決を前面に押し出した社会的起業であったわけです。ここには明らかに「起業」イメージの変化があります。おそらくその変化が意味しているのは、「お金儲け」から「社会貢献」へという転換です。もちろんすべての起業家のスタイルががらっと「お金儲け」から「社会貢献」へ転換したわけではなく、あくまで社会的に注目を集める起業のスタイルがそのように変化したということにすぎないのですが。

 

 余談ですが、ここ数年の就職活動では「社会貢献をしたい」「社会の役に立つ仕事がしたい」という志望動機を述べる学生が増えているそうです。一時期は「自己実現をしたい」「自分の夢をかなえたい」「自分の好きなことを仕事にしたい」という旨の志望動機を述べる学生が多かったそうですが、最近では「社会貢献」がトレンドだそう。(しかし、いま「就職活動 社会貢献」でググってみたところ、「就職活動で社会貢献はNGワード」という記事がたくさんあがってきました。就活生の皆さんは気をつけましょう)ここにも「起業」イメージの変化と同様の変化が起こっているように思われます。

 

 実際に内閣府が毎年行なっている世論調査でも「社会の役に立つことがしたい」と答える人の割合は毎年増えています。

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参考:内閣府「社会意識に関する世論調査」平成23年度

 

 社会的企業の出現に象徴的に見られる「社会貢献への欲望」の理由は一体何なのでしょうか。前回の議論と結びつけてみるならば、ここで強調されているのは、「お金持ちになりたい」「会社を大きくして有名になりたい」といった利己的欲望ではなく、「社会の役に立つ仕事がしたい」「社会問題を解決したい」といった利他的動機です。もちろんオープンソース運動と同じく、ここでも無私的な利他性が主張されているわけではなく、きちんと収益も稼ぎながら、同時に社会問題の解決も図るという「利己的欲望と利他的行為の両立」が図られているわけです。

 

 問題は、なぜ「社会貢献」という利他的行為の側面が近年の日本でひとつの欲望の対象となっているのかということです。そう、昨今の日本では「社会貢献」は単に利他的行為(他人のため)であるだけでなく、それ自体が利己的な欲望(自分のため)の対象にもなっているのです。社会的企業/起業家が注目され、就職活動の志望動機に社会貢献が増え、社会の役に立つことをしたいと答える人の割合が増えていることなどがその証左です。

 僕の研究テーマ(労働の思想史)からいえば、この変化は同時に日本人の労働観の変化の兆しを表しているのかもしれません。ではなぜこのような変化が生じてきたのか?それを次回の記事で考えてみたいと想います。

 


「NPO法人について知ろう」ゲスト・駒崎弘樹 - YouTube
ニコ生シノドス「若者よ立ち上がれ!社会的起業とは何か?」 - YouTube

利他的な振る舞いはどこからやってくるのか?-オープンソース運動から考える

 前回は生産的消費者について書いたので、今回はそれに関連してオープンソースのことについて書いてみます。

 

 オープンソースとは字義通りの意味でいえばソースコードを公開すること。すなわち、プログラムの開発者がそのプログラムのソースコードを無償で公開することによって、万人に開かれたかたちで理想的なプログラムの開発・利用を目指すことをいいます。オープンソースの成果として有名なのは、リナックスのOSやFirefoxのブラウザなどでしょうか。リナックスはともかく、Firefoxをブラウザとして使用している人は多いのではないでしょうか。(僕はChrome派ですが。)

 リナックスは、1991年にフィンランドの大学生が開発し、インターネット上で無償で公開したOSソフトです。その直後から、世界中のプログラマーが次々と無償でリナックスの開発に参加しました。そのネットワークを使って、マイクロソフトのウィンドウズに匹敵するOSが誕生しました。ウィンドウズがそのソースコードをクローズドに独占することによって巨額の利益をあげているのに対し、リナックスがそのソースコードをオープンにすることで開発を進め、さらにそれを誰もが無償で利用できるようにしているのは非常に対照的です。

リナックスの革命 ― ハッカー倫理とネット社会の精神

リナックスの革命 ― ハッカー倫理とネット社会の精神

 

 エリック・レイモンドが1998年に書いた論文伽藍とバザールでは、ソフトウェアの開発の方法として、伽藍方式(Cathedral)とバザール方式(Bazaar)の二つをあげ、リナックスの開発を後者の例に当たるものとして位置づけました。伽藍(大聖堂、カセドラル)とは、設計者がすべての計画と体制を確立して開発する、企業などで一般的に行われている開発方式をいい、あたかも大聖堂の建築を行うがごとく厳かで大がかりであることを指します。これに対してバザール方式とは、知らない者同士がバザーで売買を行うようにアイディアや技術、またはソフトウェアそのものを持ち寄って互いに交換しながら作り上げていくことを指しています。

  レイモンドによれば、バザール方式では全体をとりまとめる責任者がいないにもかかわらず、それなりの秩序を保ったコミュニティが成立しています。バザール方式が有効であるためには幾つかの条件があり、まず開発の最初から始めることは難しく、とりあえず何か動くものが必要であること、最初はそうでなくても、将来よいものに発展していくであろうということを開発候補者たちに納得させられること、また参加者の意見やアイデアを受け入れることができることが必要であり、コーディネーターやリーダーの対人能力やコミュニケーション能力が優れていることが不可欠であるとしています。

伽藍とバザール―オープンソース・ソフトLinuxマニフェスト

伽藍とバザール―オープンソース・ソフトLinuxマニフェスト

 

 この論文に影響され、ネットスケープコミュニケーションズ社は同社のウェブブラウザ Netscape Navigatorオープンソース化に踏み切りました。このMozillaプロジェクトの成果として生まれたのがFirefoxというブラウザソフトです。また2000年頃より、IBMヒューレット・パッカードSGIインテルなどの企業のプログラマも開発に加わるようになり、開発スピードにはずみが付いたと言われています。営利企業もオープンソースソフトを敵とばかり見なすのではなく、ときには企業自身がオープンソース開発の手法を取り入れながら、その運動に力を貸すようにもなったのです。

 

 リナックスの開発では、限られたメンバーでソフトウェアをクローズドに開発していたときよりも、ソースコードをオープンにしてネット上の多数のプログラマーとともにソフト開発するようになったときのほうが、より効率的に多くのバグが見つけることができようになったと言います。これと同じことは、前回の記事でも触れたウィキペディアの編集にも当てはまるでしょう。リナックスの開発やウィキペディアの編集に参加者の多くは、いわゆるプロフェッショナルの専門家だけでなく、さまざまな「アマチュア」の人々です。『クラウドソーシング』を著したジェフ・ハウは、そのようにプロフェッショナルとアマチュアが交じり合った状態でプロジェクトに参加する人々のことを「クラウド(群衆)crowd」と呼んでいます。

 

「クラウドソーシングには、聡明で、技能を備えた群衆の働きが必要になる。そしてインターネット上に氾濫し、さらに増えつつある貴重な情報のおかげで、群衆はさらに賢くなり、腕を磨きつづけている。」(『クラウドソーシング』118ページ)

クラウドソーシング―みんなのパワーが世界を動かす (ハヤカワ新書juice)

クラウドソーシング―みんなのパワーが世界を動かす (ハヤカワ新書juice)

 

  ところで、このような「クラウド」な人々はどのような動機から無償でオープンソフトの開発に参加するのでしょうか?ジェフ・ハウは次のように書いています。「コミュニティ全体のためになろうとする気持ちを動機とするこのような労働が、余暇と、学ぶ意志とをもち、インターネットに接続できる環境にある人々のあいだに知識を広めてゆく」(同上、119ページ)。ジェフ・ハウが重視しているのは「オンライン上のコミュニティ」です。コミュニティへの所属(参加)欲望、またはそのコミュニティ内で承認されたいという欲望が、人々を無償の貢献行動へと突き動かしているのではないか。あるいは「価値のあることに参加している」という意識(優越感)が作用しているのかもしれません。

 

 サイエンス・ライターであるマット・リドレーが書いた『徳の起源』では、人間はお互いに顔の見える範囲内のコミュニティでは利他的に振る舞うこと(互恵的利他主義)が述べられています。ではインターネット上の顔が見えない状態でぼんやりと形成されているコミュニティ内ではどうしてオープンソース運動のような利他的な振る舞いが発現するのか。私見では、上に述べたように「承認への欲望」「コミュニティへの欲望」などが作用しているのではないかと思いますが、まだはっきりとしたことは言えません。

徳の起源―他人をおもいやる遺伝子

徳の起源―他人をおもいやる遺伝子

 

 無償の行為であるからといって、それが100パーセント利他的で道徳的な振る舞いであるとは限りません。利他性と利己性が両立する場合がありうるからです。近年の認知科学の知見によれば、社会的動物である人間には「他人のため」に何かをすること自体が快楽となるような脳の報酬体系が存在しているそうです。また「互恵的利他主義」と呼ばれるように、あとで見返りがあるという期待のもとに利他的な振る舞いをする場合もありえます。このような人間の利他的行動の類型については、脳科学や人類学などの分野において、今後の研究成果が待たれるところです。

 

 これまでにしてきた話と繋げるなら、オープンソース運動において発現した「利他性」と「生産性」は、非ー資本主義的領域における新しい「労働」と「生産」についてのヒントを与えてくれるものではないだろうか。資本主義の世界では人々の行動原理は基本的に「利己的」なものです。個々人が自己の利益を最大限に追求していれば、社会ー経済にとっての最適状態が導かれる、というのが(一般に信じられている)資本主義のルールです。

 しかし、非ー資本主義的領域ではこれとは異なる原理が働いているはずです。ここで「利他性」を持ち出すと、まるで個々人が自分の欲望を我慢して他人のために奉仕・贈与しているからのようなイメージを持たれてしまうかもしれません。しかしおそらくそうではない(そのような行動は長続きしない)。むしろ長期的に見れば、利他的に振る舞うことが自己の利益にもなるような原理で非ー資本主義的領域は動いているのではないか。これが現時点で僕の持っている仮説です。 

「生産的消費者」とは誰か?-アルビン・トフラー『富の未来』より

 もし仮に「脱成長社会」が実現したとすれば、そのとき「労働」はどのようなかたちを取ることになるのでしょうか?今回はこの問題を考えてみます。この問いに答えるためのひとつのヒントは、アルビン・トフラーが提唱した「生産的消費者prosumer(プロシューマー)」というアイデアです。

 トフラーは未来学者として文明論的な視点から大きな時代の変化を分析し、『第三の波』『パワーシフト』などの著作で情報化社会のゆくえについて様々な予言・提言を行った人物として知られています。そのトフラーが『富の未来』のなかで提唱した概念が「生産的消費者」です。「生産的消費者」とはなにか。

第三の波 (中公文庫 M 178-3)

第三の波 (中公文庫 M 178-3)

パワーシフト―21世紀へと変容する知識と富と暴力〈上〉 (中公文庫)

パワーシフト―21世紀へと変容する知識と富と暴力〈上〉 (中公文庫)

 

 それは「生産者producer」と「消費者consumer」を組み合わせた造語であり、生産的な消費を行う人々のことを指します。生産的な消費とはどのようなものか。例えば、近年のアメリカでは、日曜大工で家具や家をつくることが流行しており、DIY”(Do It Yourself)という言葉もよく聞かれるようになりました。このように販売や交換のためではなく、自分で使うもしくは満足を得るためにモノやサービスを作りだす人のことを、トフラーは「生産的消費者」と呼んでいるのです

 前回までの記事で、フリーやシェアの流行が脱所有・脱消費・脱貨幣をもたらすと書きましたが、トフラーもまた来るべき社会では「非貨幣経済」が重要な役割を担うようになる、と述べています。なかでも、消費者であるわたしたちひとりひとりが無償の労働を行い、自ら富を生み出すケースが拡大しています。今後、こうした生産的消費者が爆発的に増大し、社会で大きな役割をになう「英雄」になっていく、とまでトフラーは書いています。

富の未来 上巻

富の未来 上巻

アルビン・トフラー―「生産消費者」の時代 (NHK未来への提言)

アルビン・トフラー―「生産消費者」の時代 (NHK未来への提言)

 

  現在では、生産的消費者という考え方はインターネットなどのテクノロジーと結びつくことで、より大きな影響力を持ち始めています。例えば、オープンソースの試みとして有名になったリナックスの開発では、無償公開されたOSプログラムに対して、世界中のプログラマーが無償でその開発に取り組みました。その結果、マイクロソフトのウィンドウズに匹敵するOSが実現されたのです。

 また、インターネット上で作成・公開されている百科事典ウィキペディアも、生産消費の代表的な例です。ウィキペディアは、誰でも新しく記事を立ちあげたり、記事を編集したりできる参加型の百科事典であり、多くの人々が情報を書き加え、更新していくことで、最新の情報が反映された内容になっています。ウィキペディアの出現によって権威ある百科事典ブリタニカが発行の歴史に幕を閉じたことは有名ですが、これらは「生産的消費」の一例であるとともに「フリー」や「シェア」の一例でもあると言えるでしょう。

 

ウィキノミクス マスコラボレーションによる開発・生産の世紀へ

ウィキノミクス マスコラボレーションによる開発・生産の世紀へ

 

 リナックスやウィキペディアなどは、無償の奉仕活動によって生産されたモノやサービスが経済的に価値のある製品となり、既存の巨大企業を脅かす存在になった例だと言えます。いわば「非貨幣経済」が「貨幣経済」を凌駕する領域が生まれつつあるということです。これを「非資本主義経済」が「資本主義経済」を凌駕する領域が生まれてきていると言い換えてもいいかもしれません。もちろん貨幣経済/資本主義経済は簡単に消えることはありません。しかし、貨幣経済/資本主義経済とは異なる原理をもつ領域が出現しつつあること自体はよく認識しておいた方が良いように思います。

 

 また近年の日本でいえば、ニコニコ動画などに自作の曲をアップしたり、「踊ってみた」などの動画をアップしたりすることなども「生産的消費」のうちに含まれるでしょう。多くの場合、それらは金銭的な見返りを求めない無償の行為です。ただし、金銭的な見返りのかわりに彼らが得ているのは、ネット視聴者からの「承認」やさまざまなリアクション、あるいはそれを介して形成される「コミュニティ」や「つながり」だと考えられます。

 ブログを書いたり、twitterfacebookで役に立つ情報を広めたりする行為も、広い意味でそのような「生産的消費」の範疇に含めてもよいでしょう。「一億総表現社会」を提唱した『ウェブ進化論』における梅田望夫さんの主張が思い出されます。梅田さんは「ムーアの法則」に沿ってIT製品が3~4割ずつくらい安くなっていくことで「チープ革命」が実現され、「あらゆるものがタダ同然」になることで、誰もが表現者(情報の発信者)になれる「総表現社会」が実現されると言っていたのでした。

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

 

 今となっては梅田望夫さんの議論はあまりに楽観的にすぎたように見えますし、もはや古びてしまった感がありますが、『ウェブ進化論』が出版された当時はネット上で熱狂的な支持を集め、多くの人が「これから世界が変わる」と本気で思ったものです。

 参考記事:「ウェブ進化論」著者、梅田望夫さん(45)に聞く(上) チープ革命が総表現社会を実現する

 

 ともあれ、梅田さんが想像したほど理想的な「総表現社会」がやってきていないにしても、インターネットの普及やデジタル機器が手軽に手に入れやすくなった結果として、多くのネットユーザーが「プチ表現者」「プチアーティスト」として活躍するようになったことも確かです。ネット上に自作の曲をアップして人気になり、今ではももいろクローバーZのプロデューサーを務めているヒャダインさん(前山田健一さん)などはその良い例でしょう。他にも初音ミクをはじめとするボーカロイドの流行など、ネットユーザーの間から生まれ、今では大きなビジネスを形成するようにもなったサービスやキャラクターなども存在します。

 さらにいえば、最近のアイドルブーム(AKB、ももクロ、韓流、ジャニーズetc)では、ファンがアイドルを一方的に受容するのではなく、ファンがアイドルを支え、「一緒に盛り上げていく」という要素が強くなっています。この傾向はアイドル業界だけでなく、他のジャンルでも生じており、「アーティスト」と「ファン」、「プロフェッショナル」と「アマチュア」などの距離が近づき、両者の境界線が曖昧になっている傾向があるように思えます。この傾向もまた、ファンやアマチュアが「生産的消費者」化していると捉えることによって、うまく理解できるのではないでしょうか。

 

  このような「生産的消費者」の活動が、これからの「非貨幣経済」「非資本主義的領域」における新しい「労働」や「生産」のかたちを担っていく、ひとつの重要なファクターになるように思います。その活動は決して貨幣経済/資本主義的領域と断絶しているわけではなく、むしろ地続きで相互に影響を与えあっています。しかし、非貨幣経済における生産消費的行動が既存の資本主義経済のあり方を変化させていくことは間違いないでしょう。おそらくは、非貨幣経済における生産消費的行動が貨幣経済における生産―消費行動に取って代わっていくような事態が生じるのではないかと想像されます。まずは情報・知識サービスの分野でそれが起こっています。

 ポイントは先にも書いたように、生産的消費行動が金銭的な見返りを求めないかわりに、「他者からの承認」や「他者とのつながり」、「コミュニティの形成」などの価値を得ることにつながっているということ。これらの非貨幣的な価値こそが生産的消費者を動かす原理になっているように思われるのです。この点についてはより詳しい分析が必要ですが、ひとまず大きな見取り図で言っておくと以上のような「脱貨幣」と「生産的消費化」の傾向が、これからの「労働」や「生産」には生じてくると予想することができます。