草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

「脱成長」は可能なのか?-「成長の限界」と幸福度調査

 前回まで「フリー」や「シェア」によって進められる脱所有・脱消費・脱貨幣の流れは、新しい経済-社会の可能性を開くと同時に、既存の経済市場の規模を縮小させてしまうかもしれない、という話をしてきました。これは言い換えれば、資本主義経済の規模が縮小する一方で非-資本主義経済の規模が拡大する可能性がある、ということです。

 

 ここで非-資本主義経済が何であるかを一言でいうことはできませんが、例えば、非-近代社会(未開社会)で広範に見られるような互酬性(贈与と返礼)の原理がひとつのヒントになるかもしれません。インターネットの普及を契機として、成熟社会の進行とともに互酬交換が何らかのかたちで回帰してくるのではないか。例えば、フリーやシェアの流行、ソーシャルメディアの普及に伴って現れてきた様々なアクティビティ(活動)、寄付・贈与・社会貢献への関心の高まり、お金をかけない余暇の過ごし方の増加、などがその兆候を示しているとは考えられないでしょうか。

 

 柄谷行人は『世界史の構造』のなかで、ポランニーに倣って、人類の交換様式を(A)互酬(贈与と返礼)、(B)略奪と再分配、(C)商品交換に分けたうえで、さらにそれらの交換様式を超える(D)アソシエーションを提示しています。柄谷によれば、(D)アソシエーションは(C)商品交換がドミナントな社会(自由社会)を経たうえで(A)互酬性を回復するかたちで現れてくる、自由と平等を両立するような理想社会です。柄谷はマルクスが構想した理想社会としてのアソシエーションを参照しつつ、それを包括的に理論化しているわけですが、現在、徐々に現れつつある非-資本主義的領域は柄谷が理想とするアソシエーション社会にも近いものがあるように思われます。

世界史の構造

世界史の構造

マルクスのアソシエーション論: 未来社会は資本主義のなかに見えている

マルクスのアソシエーション論: 未来社会は資本主義のなかに見えている

 

 これまでも繰り返し書いてきたように、だかといってすぐに資本主義経済が終わるとか、脱成長社会が到来すると言いたいわけではありません。近代以降、数百年間にわたって成長と発展を遂げてきた資本主義経済はそう簡単には終わらないでしょう。国民国家(主権国家)の仕組みと同様に、資本主義がドミナントな経済-社会はまだ当分の間、続いていくものと思われます。とはいえ、資本主義経済だけが唯一の経済のかたちではないことは強調しておきたいですし、資本主義経済もいつか終わりを迎える可能性は十分になります。ただし、それはまだ随分先のことになるでしょう。

 

 しかし、資本主義が終わらないとしても、資本主義経済がこれまでのような順調な成長と発展を続けられるかというと、そこには疑問が残ります。先進諸国の成長率が徐々に低下してきていること、新興国や途上国の人口爆発に伴って食糧や資源の枯渇が懸念されること、テクノロジーの進歩(イノベーション)に陰りが見えてきたこと、グローバリゼーションとIT革命によって必要雇用量が減少すること、などが世界経済の成長阻害要因となることが予想されます。

 

 経済成長の正当性を問う議論には、古くは1972年にローマクラブによって発表された「成長の限界」などがありますが、とりわけリーマン・ショック以降、再び経済成長至上主義を問いなおす議論が(一部で)高まりつつあります。例えば、近年国内外で発表されたものだけをざっと列挙すると以下のものがあります。佐伯啓思『大転換―脱成長社会へ』(2009年)、平川克美『経済成長という病』(2009年)、芹沢一也荻上チキ・飯田泰之ほか『経済成長ってなんで必要なんだろう』(2009年)、セルジュ・ラトゥーシュ『経済成長なき社会発展は可能か?』(邦訳2010年)、タイラー・コーエン『大停滞』(邦訳2011年)、アンドリュー.J・サター『経済成長神話の終わり』(邦訳2012年)など。

 

大転換―脱成長社会へ

大転換―脱成長社会へ

経済成長という病 (講談社現代新書)

経済成長という病 (講談社現代新書)

経済成長って何で必要なんだろう? (SYNODOS READINGS)

経済成長って何で必要なんだろう? (SYNODOS READINGS)

大停滞

大停滞

経済成長神話の終わり 減成長と日本の希望 (講談社現代新書)

経済成長神話の終わり 減成長と日本の希望 (講談社現代新書)

 

 また、国民総生産(GDP)に替わる指標として国民総幸福(GHP)を掲げたブータンや、サルコジ元大統領の方針のもと、スティグリッツアマルティア・センなどの経済学者を集めて、経済的指標に替わる幸福度指標を策定しようとしたフランスの事例などにもあるように、経済的豊かさとは異なる「幸福度」を新たな豊かさの指標として見出そうとする動きも見られます。日本でも民主党政権下で「幸福度」について研究する委員会などが立ち上がりましたが、民主党政権の不人気や東日本大震災の発生などとともに、そのような議論もどこかへ吹き飛んでしまった感があります。

参考リンク:内閣府 幸福度に関する研究会 

 

幸福立国ブータン 小さな国際国家の大きな挑戦

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暮らしの質を測る―経済成長率を超える幸福度指標の提案

暮らしの質を測る―経済成長率を超える幸福度指標の提案

日本の幸福度  格差・労働・家族

日本の幸福度  格差・労働・家族

 

 とはいえ、経済成長に替わる「豊かさ」を見つけだそうとする試みはまだ端緒についたばかりです。現実にはいまだ飽くなき経済成長を求める資本主義経済の威力に対抗する新しい経済-社会の理論は見つかっていないと言わねばなりません。しかしこのような動きが同時多発的にいろんな方面から出てきていること自体が、非-資本主義的領域へのニーズ/欲望の高まりを示しているように思われます。これからの社会では、経済成長から脱経済成長かという単純な二分法を超えて、どのような分野で経済成長を追求し、どのような分野では経済成長以外の価値を重視するのか、という判断を行なっていく必要があるのではないでしょうか。

 

 フリーやシェアの流行に伴う脱所有・脱消費・脱貨幣の流れと、リーマン・ショック以後の経済成長の問いなおしは、おそらくパラレルな関係にある問題です。さらにはこのブログを始めた頃に書いた「雇用の収縮」問題もまたこれらの傾向と深いかかわりがあるはずです。「経済成長はもはや必要ない」などと単純に言い切るつもりはありませんが、飽くなき経済成長を追求する資本主義的論理とは異なる経済-社会の領域を創りだしていく必要は確実に高まっているはずです。

 

 重要なのは、われわれが経済成長に替わる「豊かさ」をどのような価値に見出すのか、そしてそのような価値を実現する経済-社会をどうすれば拡張していけるのか、を考えることであるように思います。私見では、そこで重要になる価値は「贈与」「承認」「文化」「教養」「コミュニティ」などではないかと考えていますが、まだ僕も考えがまとまっているわけではありません。これから時間をかけて考えていくつもりです。

 

成長の限界―ローマ・クラブ「人類の危機」レポート

成長の限界―ローマ・クラブ「人類の危機」レポート

 

「脱お金」はわれわれの経済を「豊か」にするか?

 前回まで、「フリー」や「シェア」の流行が脱所有・脱消費・脱貨幣に繋がっていくのではないか、というやや希望観測的な記事を書いてきました。こういった主張は、近年のネット論壇では珍しいものでは決してなく、むしろありふれていると言ってもいいくらいのものです。例えば、ブロガーとして有名なイケダハヤトさんの書かれた『年収150万円で僕らは自由に生きていく』では「脱お金」がキーワードになっていましたし、「日本一のニートを目指す」と宣言してユニークなニート生活を送っておられるphaさんの『ニートの歩き方』でも、インターネットを活用した「できるだけお金に頼らない生き方」が提唱されていました。

参考記事:【ニュースレター】脱所有化・脱物質化・脱貨幣化――今日の"3脱"世代へのメッセージ(TEDxTOKYO 2011でのスピーチより) 

 

年収150万円で僕らは自由に生きていく (星海社新書)

年収150万円で僕らは自由に生きていく (星海社新書)

ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法

ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法

 

 例えば、朝起きてまずパソコンでGmailをチェックし返信、その後LINEを使って友達とやりとり、ヤフーニュースでその日のニュース記事をチェック、はてなで面白そうなネット記事を散策、YouTubeで動画を見たり、iPhoneの無料アプリでゲームしたりして午後の時間をつぶし、夜は遠距離にいる友人とスカイプでおしゃべりしたり、twitterfacebookに書き込みをしたり、なんていう風に一日を過ごしていれば、その娯楽やコミュニケーションにほとんどお金はかかりません(毎月のネット代や携帯代を除けば)。

  

 現代の若者は過去のどの世代の若者よりも幸せだ(生活満足度が高い)、という主張を行なって物議を醸した古市憲寿さんの『絶望の国の幸せな若者たち』のなかでもこんな風に書かれていました。

「もう日本に経済成長は期待できないかも知れない。だけど、この国には日々の生活を彩り、楽しませてくれるものがたくさん揃っている。それほどお金がなくても、工夫次第で僕たちは、それなりの日々を送ることができる。

 たとえば、ユニクロとZARAでベーシックなアイテムを揃え、H&Mで流行を押さえた服を着て、マクドナルドでランチとコーヒー、友達とくだらない話を三時間、家ではYouTubeを見ながらSkypeで友達とおしゃべり。家具はニトリとIKEA。夜は友達の家に集まって鍋。お金をあまりかけなくても、そこそこ楽しい日常を送ることができる。」

(古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』講談社、7頁)

 

絶望の国の幸福な若者たち

絶望の国の幸福な若者たち

 

三浦展さんの『シンプル族の反乱』でもほぼ同じことが書かれていました。

シンプル族の反乱

シンプル族の反乱

 

 しかしこのような脱所有・脱消費・脱貨幣の流れが、われわれの経済-社会にとって本当に望ましいものであるかどうかは微妙なところです。なぜなら、これらの流れは必然的に既存の経済市場を縮小させ、消費や雇用を減らしてくことに繋がると考えられるからです。どの経済学の教科書にも書いてあるように、一般に「経済市場」としてカウントされるのは、あくまで「お金に還元できる活動(モノやサービスのやりとり)」だけです。

 

 例えば、わたしが家で掃除したり料理をしたりするのは「経済市場」上の数字にはカウントされないけれども、その家事仕事を外部のサービス会社に委託してお金を払えば、それは「経済市場」上の数字としてカウントされることになります。お金とモノ・サービスの交換があって初めて、その活動は「経済活動」として(お金を単位として)カウントされるのであって、そのようなお金を介した交換がなければ、それは経済活動として数字上はカウントされません。お金を介さない物々交換も同様です。例えば、近所どうしでお米と洋服を交換することによって、お互いに効用が増したとしても、それは経済市場の数値としてはカウントされません。*1

 

 そうであるとすれば、「フリー」や「シェア」の流行によってもたらされる「脱お金(脱貨幣)」の傾向は、必然的に既存の「経済市場(貨幣市場)」の規模を縮小させていくことに繋がるはずです。前回の記事で紹介したジモティLivlissayonara saleなどのサイトで、見知らぬ二人がお互いに「いらなくなったもの」と「ほしいもの」を交換したり譲り受けたりしても、やはりその物の移動は「経済活動」に含まれません。旅行をした際にカウチサーフィンを使って、見知らぬ人の家に泊めてもらった場合も同様です。そこでは、従来の経済市場では支払われていたであろう企業・業者の仲介料やホテルの宿泊料金などがスキップされたままで、わたしたちの活動が完結してしまいます。

 

 もちろんそのことが悪いというわけではありません。このようにお金を介さずに行動することで、わたしたちはお金を節約することができますし、モノやサービスのムダ使いを減らすことができるので環境にも優しい。お金に頼らずコミュニケーションによって経済活動が代替されることで、そこに新しい人間関係が生まれ、社会(コミュニティ)の繋がりが強化されるかもしれません。

  しかしその一方で、既存の経済市場が縮小し、これまでわれわれの経済活動を媒介することでお金を稼いできた人たち(会社)の商売が成り立たなくなるかもしれません。その結果として経済活動が停滞し、雇用が縮小し、賃金が下がり、デフレ化が進んでしまうかもしれません。実際に、インターネット上の「フリー」サービスや「シェア」サービスによって商売が成り立たなくなってしまったビジネスはたくさんあるでしょう。(有料のメールサービス、動画閲覧サービス、通話サービス、報道サービスなど)

  また、アマゾンや楽天などのインターネットを利用した流通サービスはわれわれの消費活動を劇的に便利にしてくれましたが、その一方で地元の小さな商店・本屋が潰れてしまい、結果的に地域のコミュニティや景観が破壊されてしまった、などという例も枚挙にいとまがないでしょう。

 

 しかしここで少し立ち止まって次のように考えてみたいのです。もし「フリー」や「シェア」の流行とともに「経済市場」の規模が縮小し、その「豊かさ」が損なわれてしまうというのであれば、そもそもそのような「経済」や「豊かさ」の測り方じたいが間違っているのではないか?たとえお金の尺度で測ったさいの「経済規模」が縮小していたとしても、「フリー」や「シェア」の広がりとともにわたしたちの実生活が「便利」で「豊か」なものになっているとすれば、それは広い視野で見たさいの「経済」や「社会」をやはり良き方向へ導いてくれていると捉えるべきではないか。

 

 ここで問われているのは「経済」や「豊かさ」の尺度や定義そのものです。お金の媒介を伴うモノ・サービスの交換を経済活動と捉え、お金を尺度として経済の規模や豊かさを測るという従来の経済学の仕組みそのものの妥当性が問われる時代にわれわれは突入しつつあります。たとえお金の媒介がなかったとしても、個人どうしの間でモノやサービスの交換が行われ、それがわたしたちの生活を「豊か」にしてくれるのであれば、それは広い意味での「経済活動」として認められるべきではないのか。*2

 

 かつてカール・ポランニーは『大転換』のなかで、人間の交換(経済活動)を、1)互酬、2)再分配、3)商品交換、の三つに分類しましたが、現在、われわれが「経済活動」としてカウントしているのは、3)商品交換と2)再分配のみです(しかもそれらのうちの貨幣を介した交換のみ)。残された交換形式である1)互酬(贈与と返礼)は、われわれの社会では「経済活動」としてカウントされていません。それはあくまで経済市場の外部にある個人的なやりとりであると考えられています。

[新訳]大転換

[新訳]大転換

 

  しかし、インターネットの発達とともに「フリー」や「シェア」が広がりを見せるなかでは、われわれの経済-社会活動のうちに1)互酬と返礼(贈与)の要素が不可避的に入り込んできます。その結果として、3)商品交換の規模は縮小するかもしれないが、その代わりに1)互酬と返礼(贈与)の規模が拡大するかもしれない。そして三つの交換形式すべてを含めた経済-社会全体の規模や「豊かさ」でみれば、われわれの経済-社会は良い方向にむかっているのかもしれない。*3

 

  以上は、あくまで「経済」の捉え方を転換するための大まかなラフスケッチにすぎません。さらに議論を進めるためにはより詳細な検討・考察が必要とされることでしょう。しかし、せめて以上のように大きな流れで現代の経済-社会が置かれた状況を見つめ直してみることが、今後の経済-社会の行く末を考えるうえでも重要になってくるのでしょう。繰り返せば、ここで問われているのは、新しい「経済」の捉え方であり、新しい「豊かさ」の尺度なのです。それは決して簡単に見つかるものではないだろうけれども、現在の経済的豊かさに替わるオルタナティブを見つける努力をわたしたちは行っていく必要があるのではないでしょうか。

 

 

*1:伝統的に女性の仕事であるとされてきた家事労働(シャドウ・ワーク)に対しても賃金が支払われるべきだ、という主張が一部のフェミニストからなされた背景にもこのような事情があります(彼女たちの家事労働には対価として賃金が払われないために、経済-社会的にその存在意義が認められていない、とする考え方)。

*2:現在、話題になっているアベノミクスでは、大型金融緩和とともに大規模な公共事業を復活させ、脱デフレを目指すことが宣言されていますが、これだけグローバル化・IT化が進展してきた時代にあって、日銀がお金を大量に刷りまくることで経済成長を取り戻そうとする政策が、果たして長期的に成功するのかどうか。一時的な金融経済の盛り上がりに惑わされず、それが実体経済(雇用や賃金)にまで回ってくるかどうかを慎重に見守る必要があるように思います。

*3:ポランニーによれば、「経済市場」は近代以前には「社会」のなかに埋め込まれたものであったのが、近代以降に「経済市場」が「社会」から浮き上がり、逆に「経済市場」が「社会」を包摂してしまうという転倒が起こったとされる。それゆえ、近代に適したかたちで再び「経済市場」を「社会」に再-埋め込みするための方途を考えることがポランニー派の課題となる。

なにが「シェア」への欲望をもたらしているのか?-脱所有・脱消費・脱貨幣にむけて

 前回は「フリー経済」について書いたので、今回は「シェア経済」について書きます。「シェア」はネット業界に限らず、ここ数年の流行キーワードのひとつです。シェアハウス、カーシェアリング、ワークシェアリングなど。facebookにも「イイネ!」機能とともに「シェア」機能がありますね。なぜ近年「シェア」概念が注目されるようになったのでしょうか?

 

 その背景にはやはり、インターネットの普及が大きな影響を及ぼしていると考えられます。インターネット上では「ロングテール」的にマイナーな嗜好・利害をもつ人々どうしが結びつきやすい。例えば、マニアックな趣味を持つ人やマイナーなアーティストを応援する人などは、ネット普及以前には同好の士を見つけるのが難しかったでしょうが、今ではネット上のコミュニティやファンサイトなどで、マイナーな嗜好や関心をもつ共有することが昔よりもずっと容易になりました。

 

 これと同様に、ネット上ではマイナーな利害を持つ人どうしのマッチングもしやすくなりました。例えば、カウチサーフィンというサイトでは、世界中の人々が自分の家のスペースを旅行者に無償で貸し出すというサービスが行われています。部屋の貸し手は、宿泊者(借り手)とのコミュニケーションを楽しむことを目的として、無償で家の空きスペースを提供しているというわけです。カウチサーフィンは現在、207ヶ国480万人に使われている、無料の国際的な宿泊プラットフォームに成長しています。また、無償ではないけれども、自宅の空いている部屋を旅行者に貸し出すルームスティというサイトもあります。

 

 物のシェアや交換のためのネットサービスも発達してきています。ジモティというサイトは「もういらなくなったもの」(中古品)を無償または格安で譲りたいという人のための、フリーマーケット的スペースとして機能しています。Livlisというサイトでは、「ほしいもの」と「いらなくなったもの」をユーザーどうしが譲りあったり交換しあったりしています。また、ヤフーオークションなどのオークションサイトでも「いらなくなったもの」がオークション形式で取引されていますね。アマゾンのマーケットプレイスでは多くの中古品が安価に売られています(1円で売られている中古美品なども珍しくない)。海外では、世界最大のオークションサイトであるeBayが有名ですね。

※参考記事: 安価に家具・家電が欲しいなら「Sayonara Sale」をチェックすると良いかも(ihayato.書店)

 

 近年、これらの様々なシェアサービスが発達・普及してきた理由としては、)インターネット上で「ロングテール」的にニッチなニーズを持ったものどうしが出会いやすくなったこと、2)「P2P」的に公的機関や民間企業などの媒介を経ずともユーザーどうしが直接に結びつきやすくなったこと、3)情報の交換だけであればほとんどコストがかからないためにボランティア的行為がなされやすいこと、などが挙げられるでしょう。

 

 『シェア』の著者であるレイチェル・ボッツマンとルー・ロジャースは「シェア」に伴う概念として「コラボ消費」を提唱しています。従来の成長経済における個人単位の「むだづかい消費」に替わって、仲間どうしで、あるいはコミュニティ内で、「つながり」を作りつつ「共同で」消費することによって、より魅力的な経済活動を行おう、というわけです。

シェア <共有>からビジネスを生みだす新戦略

シェア <共有>からビジネスを生みだす新戦略

 

「人々は、日々コラボ消費を実践している――昔ながらの共有、物々交換、貸し出し、売買、借り入れ、贈与、そしてスワップは、テクノロジーとP2Pのコミュニティをとおして新たな形に生まれ変わった。コラボ消費によって、人々はモノやサービスを所有せずに利用することの莫大なメリットに気づいただけでなく、同時にお金や空間、時間を節約できることも、新しい友人を作れることも、活発な市民に戻ることができることにも気がついた。SNSスマートグリッド、そしてリアルタイム技術のおかげで、時代にそぐわない過剰消費の習慣から抜け出して、自動車や自転車のシェアといった共同利用にもとづく革新的なシステムをつくることが可能になっている。これらのシステムは、利用効率を上げ、ムダを減らし、よりよい商品の開発を促し、過剰生産と過剰消費によって生まれた余剰を吸収することで、環境に大きく貢献する。」(『シェア-〈共有〉からビジネスを生みだす新戦略』)

 

  このようにボッツマン=ロジャースは、最新のITテクノロジーを用いてモノやサービスを「シェア」することによって、過剰生産と過剰消費のサイクルから抜け出し、現存のモデルとは異なる経済-社会のあり方を目指すことを提唱している。ここに、現代社会のなかで非-資本主義的な領域を見出すひとつのヒントがあるのではないでしょうか。

 

 さらにボッツマン=ロジャースはコラボ消費*1を介して「脱所有」「脱消費」「脱貨幣」などのアイデアを提唱しています。これだけ物質的に豊かで、モノやサービスの交換が容易になっている社会では、従来のように個々人が必死にお金を稼いで個別に商品を買わずとも、みんなでそれをシェアすることによって、より豊かにゆとりをもって暮らしていくことができるのではないか、というのが彼らの提案なのです。

 

 もし「シェア」が広がることによって、本当に「脱所有」「脱消費」「脱貨幣」を実現できれば、過剰生産-過剰消費のサイクルから抜け出し、非-資本主義的領域を拡張することができるかもしれない。少なくとも、インターネットを介して経済-社会の一部にそのような動きが生まれ始めていることは間違いがないでしょう。

 

 重要なのはこれらの動きが、「正義(理想的社会)を実現するために欲望を我慢しよう」というかたちでネガティブになされるのではなく、「シェア」「コラボ消費」などを介した「つながり」を求める欲望に沿って(あるいは単純にムダを節約し経済的効率性を求めようとする欲望に沿って)ポジティブになされているということです。往々にして、正義や理想の実現のために欲望を断念する、という努力は長続きせず、結果的にその正義や理想は達成されません。あくまで欲望を断念しないかたちで、これまでの欲望とは別のかたちの欲望を育て上げ、その欲望を前向きに追求していくことによってこそ、その運動は長期的に持続し、目指すべき状態が達成されやすくなるでしょう。

 

つながり 社会的ネットワークの驚くべき力

つながり 社会的ネットワークの驚くべき力

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 近年、ネット界隈で流行している「フリー」や「シェア」の概念は、これまでの資本主義経済システムに替わる(あるいは補完する)、新しい経済-社会への理想と欲望を喚起し、欲望を断念しないかたちで、人々をその新しい理想へ向かわせるテクノロジーが発達してきたからこそ、可能になったものだと言ってよいでしょう。

 もちろんこれらの動きは数百年をかけて形成されてきた巨大な資本主義経済市場の規模には及ぶべくもありませんが、ITテクノロジーの今後の発展とともに、さらに「フリー経済」や「シェア経済」の規模も拡大し、資本主義とは異なる経済領域(脱所有・脱消費・脱貨幣)が創られていくこともまた確かでしょう。資本主義的領域と非-資本主義的領域の双方が今後どのような発展や変容をみせ、どのような関係性を取り結んでいくかに注目していく必要があると思われます。

 

これからの日本のために 「シェア」の話をしよう

これからの日本のために 「シェア」の話をしよう

*1:ボッツマン=ロジャースは、コラボ消費の事例として、プロダクト=サービス・システム、再分配市場、コラボ的ライフスタイルの三つを挙げ、それらの成功事例に共通する四つの原則として、クリティカル・マス、余剰キャパシティ、共有資源の尊重、他者への信頼、を挙げています。

「フリー経済」は資本主義社会をどのように変えるか?

 以前の記事で、雇用が収縮する低成長社会においては、非-資本主義的領域を拡張していくことが重要になるのではないか、と書きました。では具体的には、非-資本主義的領域とはどのような領域なのでしょうか?

  現代社会における非資本主義的領域を考える際にまず思いつくのは、インターネットに関連する諸分野でしょう。例えば、「フリー」や「シェア」「ソーシャル」などのキーワードについて考えてみます。これらのキーワードは、無限に自己増殖する資本主義モデルとは異なる性格を指し示しているように思われます。

 まず、クリス・アンダーソンの著作によって有名になった「フリー」の概念について。アンダーソンによれば「情報はフリーになりたがる」という性質を持っている。ここでいう「フリー」には「自由」と「無料」という二つの意味があるが、この両方の意味で情報は「フリー」になろうとする傾向があるということです。

フリー~〈無料〉からお金を生みだす新戦略

フリー~〈無料〉からお金を生みだす新戦略

 

 例えば、いまネット社会で最も強い影響力をもつ企業であるグーグルは、これまで有料だった様々なサービスを無料で提供してきました。検索機能やメールサービス、ドキュメント機能、データ保存、グーグル日本語入力やグーグル・ストリートビューなどのサービスなど。それらのサービスがいずれも高性能で使いやすくスタイリッシュであるにもかかわらず、無料で提供されているためにグーグルは高い人気を獲得してきたのでした。

 YouTubeニコニコ動画などの動画共有サービス、さらにはfacebooktwittermixiなどのソーシャルメディアも基本的なサービスは無料で利用できます。もちろん各企業はボランティアでこれらのサービスを提供しているわけではありません。例えば広告収入やプレミア会員収入、他の有料サービスへの誘導などによって収益を得ています。しかし多くのユーザーにとってはこれまで有料だったサービスが無料で使えるようになったことには違いありません。

 

 このように企業が多くのネットサービスを無償で提供できるのは、情報という商品の性質によります。情報は限界コスト(ある商品をもう1単位生産するために追加でかかるコスト)が限りなくゼロに近い。例えば自動車のような商品を生産する際には、どれだけ大量生産をしていても原材料や人権費、輸送費などの限界コストがかかる。これに対し、極端にいってしまえば、情報系サービスはいちどその商品やシステムを作り上げてさえしまえば、そのコピーにはほとんど限界コストはかからない(もちろん種類によりますが)。それゆえいちど完成した情報商品は、もしそうしようと思えば、ほとんど無償で提供することができる、という性質を持っています。

 

 さらにはネットワーク効果と呼ばれるものもあります。ネットワーク効果とは、ユーザ-が増えれば増えるほど消費者にとっての商品やサービスの価値が増大する現象のこと。例えば、OSや事務系ソフトとしてウィンドウズ製品がこれだけ普及しているのは、「皆がそれを使っているから」という理由によるところが大きい。つまり情報・ネットサービスでは「ひとり勝ち」状態が起こりやすい。それゆえ、企業は無償で多くのサービスを提供することによって多数のユーザーを獲得し、それを元にしてビジネスを行おうとする動機が働きやすくなるわけです。例えば、ニコニコ動画では多数のユーザーが無料会員でサービスを利用していても、少数のコアユーザーが有料会員になってくれれば採算をとることができる(フリーミアム)。なぜならそれだけユーザーの母体数が大きいから、というわけです。

 

 このように情報系サービスでは、1)限界コストがゼロに近いことと、2)ネットワーク効果という二つの性質をもつために「無料(フリー)」になりやすい。さらには情報は政府などの権力機関による管理・規制に馴染まず、それらから逃れたがるという意味で「自由(フリー)」になりがたる性質ももっている。これがアンダーソンのいう「情報はフリーになりたがる」の意味です。

 

  さて、インターネットの発達とともに、これまで有料であった(あるいはごく一部の限られた人にしか使えなかった)サービスが、多くのユーザーにとって無償で使えるようになった結果、どのようなことが起きたでしょうか。 

  もちろんグーグルもドワンゴニコニコ動画を提供している会社)もfacebooktwitterも営利企業ですから、そのビジネスは間違いなく資本主義経済の範疇にあり、実際にこれらの企業はきちんと収益をあげています。しかしそれとは別にして、これらの企業が提供しているサービスには非-資本主義的な要素が含まれているのではないか?もっといえば、インターネットの世界には本質的に非-資本主義的な要素があるのではないか?このように考えてみたいです。

 

 こんな風に言うと、まるで私がインターネット万能論者であるかのように聞こえてしまうかもしれません。しかしそうではありません。非-資本主義的な領域はいつの時代にもどんな社会にも必ず存在しているものです。ただし、その現れ方は時代や社会ごとに異なる。現代では、資本主義経済の力があまりに強くなってしまったために、非-資本主義的領域はかなり縮小してしまった。しかし現代においてもやはり、一定量の非-資本主義的領域は残されている。そのひとつの現れがインターネットの領域なのではないか、というのが私の考えです。そしてその非-資本主義的要素が具体的には「フリー」や「シェア」という形で現れてきているのではないか。

 

 もちろんインターネットの普及によって資本主義が滅びるなどという安直な資本主義終焉論を唱えたいわけではありません。おそらく資本主義経済はまだまだ続いていくでしょう。しかし、インターネットを介して出現した「フリー」や「シェア」などのトレンドが、これからの経済や社会のあり方を変えていく可能性は大いにあります。いや、すでにその変化は我々の身の周りで起こり始めていると言ってよいでしょう。

 企業がこれまで有料で提供していたサービスを無料で提供するようになり、ユーザーもまた自身が作ったもの(ブログ、twitterでのつぶやき、アプリ、動画、音源、その他各種の情報など)を無償で提供したりシェアしたりするようになったとき、経済や社会の仕組みはどのように変わっていくのでしょうか?そのことを引き続き考えていこうと思います。

ハイパー・メリトクラシー社会における「宿命的なもの」

 前回記事の最後に「ポスト工業社会において必然的に生じてくる格差(労働の二極化)は、努力によってはどうしようも変えようのない「宿命的なもの」に思えてきてしまうことすらある」と書きました。このことを、若者の雇用問題に詳しい教育社会学者の本田由紀さんは「ハイパー・メリトクラシーという概念によって説明しています。

 

 メリトクラシー」とは通常、能力主義・業績主義を意味します。能力や業績に応じて、その人に与えられる役職・責任などが定められる仕組みのことです。もっと分かりやすく「成果主義」と言い換えても構いません。本田氏によれば、メリトクラシー社会では一定の型にしたがって努力を積み、経験と訓練を重ねれば一定の能力を身につけ、ある程度の地位・役職に就くことが期待できたといいます。例えば、経済成長期の日本では、企業の正社員として入社すれば、その後さまざまな苦労があろうとも、基本的には定年までその会社で安定的に働き、年次にしたがって給料や役職が上がっていくことが期待できました。(実際にはこれほど理想的な終身雇用・年功序列の日本型雇用モデルが普及していたのかについては議論があるところのようですが)

 

 これに対し、本田氏の提唱する「ハイパー・メリトクラシー」は「能力主義を超えた能力主義」を意味します。「能力主義を超えた能力主義」とはどういう意味か。それは、コミュニケーション能力や独創力、問題解決力、さらには「感じの良さ」「人間力」などの数値化・測定化できない曖昧な能力にもとづく「超能力主義」を指します。ポスト工業社会で重視されるこれらの能力は、努力量や経験量などに応じて身につくものではなく、先天的な性格や才能、あるいは育ちの良さや家庭環境などによって決定される可能性が高い。

 

 それゆえ、ハイパー・メリトクラシー社会では、「努力すれば報われる」というメリトクラシー社会で多くの人が持つことができた期待が成立しにくくなってしまう。努力をしようがしまいが、そういったレベルとは関係ないところで地位や評価が決まってしまう。ならば努力をしても無駄だ、という考えをもつ人が出てきても不思議はありません。このような感覚が冒頭に述べた「宿命的なもの」の回帰に繋がっていくと考えられます。

 

 コミュニケーション能力や社交能力、独創力、問題解決能力などに秀でた「できるヤツ」は、特別な努力や経験を積まなくとも、一定の年齢に達した時点ですでにそういう能力を身につけてしまっているように見える。そうしてついてしまった「格差」は、大人になってからではもはや逆転不可能な「宿命」であるかのように思えてしまう。安易に結びつけることは危険かもしれませんが、いわゆる「リア充」と「非モテ」の格差にもこれに通ずるところがあるように思われます。

 

  この実感を裏付けるような統計結果も出ています。2005年の「世界価値観調査」によれば、「人生での成功を決めるのは、勤勉が重要か、それとも幸運やコネが重要か」という質問に対して、日本では運やコネが大事だと答える人の比率は41%で先進国の中ではかなり高いほうでした。これに対し、フィンランドでは運やコネが大事だと答えた人は15.8%しかいませんでした。アメリカ、ニュージランド、台湾、中国、スペイン、カナダ、韓国などの諸国でも、勤勉が大事だと考える人の割合が7割以上でした。

 

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  これまで日本人は勤勉な国民で、それが高い生産性の原動力になってきたとされてきましたた。しかし2005年時点ではそのような認識はずいぶん薄れてしまい、運やコネが大事だと考える人が増えています大竹文雄氏によれば、日本人がこのような価値観をもつようになったのは最近である可能性が高いといいます。世界価値観調査で過去に日本について同じ質問を行った際には、日本人で運やコネが大事だと答えた人は、1990年時点で25%、95年時点で20%と少数派であったものが、2005年には41%と急増しているからです。つまり、2000年代に入ってから日本人の価値観が勤勉から、運やコネを重視するように変化してきたと考えられます。

競争と公平感―市場経済の本当のメリット (中公新書)

競争と公平感―市場経済の本当のメリット (中公新書)

 

 実際、2005年調査を年齢階層別に集計してみると、運やコネが大事と答える人の割合は、15-29歳で44.6%、30-39歳で44.1%、50歳以上で37.6%となっており、若い人ほどその割合が高い。この理由について大竹氏は、若い時期に不況を経験した人は「人生の成功は努力よりも運による」と考える傾向が強くなるのではないか、と推測しています。(景気が良くて完全雇用であれば、努力をすれば仕事に就けるはずなので、仕事が見つからないというのは、本人が努力をしていないためだと多くの人が考えることになる。これに対し、不況時には、失業が発生して、どれだけ努力をしても、その努力と無関係に仕事に就けない人が出てくる。このような不公平が、成功には勤勉よりも運やコネが大事だと考える人の割合を増やすことに繋がったのではないか、というのである。)

 

 確かにこのような大竹氏の仮説には説得力があります。しかし、本田氏の「ハイパー・メリトクラシー」論をも併せて考えてみるとき、日本の長期不況という要因に加えて、ここ20年ほどで日本経済の脱工業化(情報化)が進み、ハイパー・メリトクラシー的能力が重視されるようになったことも、その一つの要因になっているのではないかという仮説を立てることができるでしょう。先に述べたように、ハイパー・メリトクラシー社会では、勤勉な努力を積み重ねることよりも、たまたまそのような能力を身につけているかどうかという運や生まれ育った家庭環境などのほうが、成功要因として大きな影響力をもつように感じられるからである。

 

 以前の記事でも書いたように、アメリカの経済学者ロバート・ライシュは『勝者の代償』という本の中で、これからの経済(ニューエコノミー)において活躍するのは「変人」か「精神分析家」である、という興味深い発言をしています。独創的な発想力や創造力をもつ「変人」や時代の流れを敏感に読み取る「精神分析家」の能力やセンスは、努力をしたところで誰もが身につけられるものではない。そのような能力やセンスを発揮して市場の中で活躍できるのはごく一部の人々に限られてしまい、残りの人々はその「変人」や「精神分析家」が考案したアイデアを実現・実行するための取り替え可能なスタッフとして働くほかない…。このような格差構造が出来上がりやすいのがポスト工業社会、あるいはハイパー・メリトクラシー社会だと言えます。

勝者の代償―ニューエコノミーの深淵と未来

勝者の代償―ニューエコノミーの深淵と未来

 

 

 たまたま運良く「勝ち組」の側に入れれば良いが、運悪く(といってもそちらのほうが可能性としてはずっと高いのだが…)「負け組」の側に入ってしまうと、もう一生その関係性を逆転することは不可能であるように思えてしまう。このような構造が「後期近代社会における宿命論」を紡ぎだしているのだと考えられます。

 ではこのような宿命論的後期近代社会において、われわれはいかに生きていけば良いのか。コモディティ化が進む社会の中であくまで自由競争と自己啓発によって枠の少ない椅子取りゲームに参加する他ないのか。それはおそらく多くの人々にとってあまり幸せではない結果をもたらすでしょう。ではどうすれば良いのか。そのことを次回以降の記事で考えていきたいと思います。

 

世界60カ国 価値観データブック

世界60カ国 価値観データブック

ポスト工業社会における「労働」のゆくえ

(だんだん思想史的な記事を書くのに飽きてきたので、突然ですが現代の労働について書きます。) 

 ポスト工業社会では労働が二極化しやすい、という話をあえて戯画化したイメージで語ってみると次のようになるでしょう。

 工業社会ではベルトコンベアの前でのマニュアル作業に象徴されるように、誰もが一定の訓練を受け年次を積めば同程度の仕事ができるようになる、というイメージが共有されていました。逆にいえば、ある程度の訓練と経験(年次)を積まなければ、仕事ができるようにはならなかった。それゆえ、年功序列制が意味をもって受け止められていました。

 これに対しポスト工業社会では、一定の訓練を受け年次を積んだとしても、誰もが同程度の成果を出せるとは限りません。ある種の天才的な能力や発想力をもつ人は、特に訓練を受けなくても年次を積まなくても、若くして大きな成功をおさめることになるかもしれない。一方で長い時間をかけて訓練を積み努力を重ねたとしても、大した成果を出せずに終わる人もたくさん出てくることになります。

 

 例えば、あるwebサービスを開発する場合のことを考えてみましょう。インターネット上のサービス機能やスマートフォンで使うアプリの開発などは、極端にいえば「アイデア一発」の世界です。ある程度のプログラミングの技術をもち、時代の流れにマッチした卓抜したアイデアを出せる人であれば、たとえその人がフリーターであっても、学生であっても、職歴のないニートであっても、大ヒットするサービスを開発し、大儲けすることは可能です。そこには年月をかけた訓練と経験などは特段必要とされていません。実際にネット業界にはその類の「成功事例」がごろごろ転がっています。

 

 そのような天才的発明が特殊な事例であるとしても、例えば民間企業で何らかの新しいサービスを開発することになった際に、最重要な要素のひとつは「どのようなサービスをつくるか」というアイデアの部分です。当たり前だと思われるかもしれませんが、これまでの日本が得意としてきた「ものづくり」において大きくものを言っていたのは、そのような「アイデア」の部分よりも、既にあるアイデアをいかに洗練させたかたちで効率的に作り上げるかという「作り込み」の部分でした。日本人はゼロから新しいアイデアを考えるのは苦手だが、すでにあるアイデアを改良させていくのは得意だ、というよくある日本人論にも当てはまる話でしょう。

 

 しかし、これもまたしばしば言われることですが、ポスト工業社会(情報化社会)においては「作り込み」の部分よりも「アイデア」の部分のほうがより大きな価値を持つことが多い(もちろん例外ケースは数多存在するが)。例えば、現在インターネットサービスとして大きな力を持っている、グーグル、アップル、アマゾン、フェスブック、ツイッターなどのサービスは、根幹のアイデアとそれを実現する最低限のシステムさえ構築してしまえば、あとはそのサービスを維持するための労力はマニュアル化&アウトソース化することが可能になります。

 

 もちろんこれらのサービスにおいても、日々サービスの質を向上させ進化させていく努力は必要とされています。webサービスにおいても「作り込み」の価値が失われるわけでは決してありません。しかし、根本的にwebサービスの価値を決めるのは、初発の「アイデア」とそれを実現する「システム」の構築です。その二つさえ出来上がってしまえば、あとはマニュアル化と省人化を進め、その単純労働を低賃金労働者に請け負わせることで安定的で膨大な利益を得ることが可能になります。

 もちろん大抵の場合はそんな風には上手くはいきません。グーグルやアップルのような企業にもその背後には、日々弛まぬ努力と改善の積み重ねがあることでしょう。しかし製造業と比べたときにその収益構造に力点の差があることはおそらく確かです。

 

 日本がこれまで得意としてきた自動車や電機製品の「ものづくり」では、すでに存在する「車」や「家電製品」などの商品を、大きな工場のもとで大人数の労働者が協力して働きながら作り上げていくものでした。その基本的な設計アイデアは他国企業にも共有されていたとしても、それを作りこむ過程や洗練された技術、大規模な機械・施設などの面で他国に優位を保ってきたのです。しかしそのような前提は次第に崩れつつあります。

 

 野口悠紀夫がいうように、現在ではグローバル化とIT化の進行によって、既存製品の「コモディティ化」が進みやすくなり日本の「ものづくり」産業がこれまで保っていた優位性が、新興国のキャッチアップによって失われつつある(半導体や液晶テレビなどの分野で日本がアジア新興国に追い上げられてきた歴史を振り返るとよい)。それに代わって、現在、世界で大きな収益構造を握っているのが、先にあげたグーグル、アップル、アマゾンなどの「アイデア」と「システム」で勝負するIT企業です(あるいはこれもグローバルな収益構造を作り上げることで巨額の富を稼ぎだしているエネルギー企業、金融企業など)。

 

 このような状況のなかで、日本もまた新しい「アイデア」の創出とそれを実現する「システム」の構築で勝負するような第3次産業中心の産業構造に転換すべきだ、という主張はこれまでにも盛んになされてきました。しかし、そのような主張はこれまでほとんど実現されてこなかった、というのが実際のところです。「日本初のITサービス」は現在に至るまでほとんど成功事例がありません。

 

 その原因が何であるのかはよくわからない、というのが正直なところです。先に述べたように、ゼロからアイデアを作りだすのは苦手だが既にあるアイデアを改良するのは得意、という日本人的特性によるものなのか、日本の企業風土や社会制度が古いもののままであるからなのか、日本政府の方針が悪いからなのか…。この点についは様々な論者が様々な意見を述べているが、今のところ決定的な説明は見つかっていないように思えます。今後、日本からもそのようなサービスを開発する企業・個人が出てくるのかこないのか、も現時点では不明であるとしか言いようがありません。

 

 話を本筋に戻して、ポスト工業社会では労働が二極化しやすい、という問題です。グーグル、アップル、アマゾンのように「アイデア」発想と「システム」構築が大きくものをいうような第3次産業が主流になるとどうなるか。優れた「アイデア」を発想しそれを実現する「システム」を構築できるのは、世間のなかでごく限られた一部の人々になっていくでしょう。当然の話であり、残酷な話でもあるのだが、誰もがスティーブ・ジョブズやザッカーバーグのようなカリスマになれるわけではありません。大多数の人間はジョブズやザッカーバーグの魅力に惹かれながらも、現実には彼らの「アイデア」と「システム」を保守・運営・改善する仕事に就くしかない。

 

 それらの産業においては「作り込み」の部分は比較的に付加価値を減退するので、従来のものづくり産業に比べれば、低い賃金でマニュアル的な労働に従事しなければならない人々が増えることが予想されます。しかもそのような仕事は効率化を経るにしたがって、一定のマニュアルさえあれば誰にでも従事可能なものとなっていく傾向が強いので、結果的にそれは「入れ替え可能」な仕事となり、低賃金でアウトソース化されるものになりやすい。するとその仕事に就く人々の身分は不安定なものとなり、「切り捨て」られるものとなっていく可能性が高い。

 

 他方で、卓抜な「アイデア」と「システム」を構想できる少数の優れた人々の立場はどうなるでしょうか。そのような人々は企業雇用に縛られずとも、自力で次々と独創的なアイデアを出し、新しいビジネスシステムを作っていくことが可能でしょう。企業側はこのような人々を引き留めるために多額の給料と快適な雇用環境を提供しようとします。またweb市場では「規模の経済」が働きやすいので、いちど広範に普及したサービスを構築することができれば、当分の間、そこから巨額の富を得ることが可能になります。また彼らの仕事は、独創的で刺激に富み、多くの人々からの名声と承認を得るものになるでしょう。これらの点で、彼らの仕事は待遇面と内容面、承認面などにおいていずれも満たされたものになる可能性が高いといえます。(あくまでこれがやや極端に理念化したケースを述べているにしても、そのような傾向があることは否めません)

 

 そうすると、「アイデア」と「システム」で勝負するポスト工業社会では、経験と年次に基づく「作り込み」「職人的技術」で勝負する工業社会に比べて、「勝ち組」と「負け組」の差が広がりやすい。それは単に収入面の格差だけでなく、雇用の安定性、仕事内容の面白さ、社会的に獲得される承認面などの点においてもそうなのです。さらには将来にむけたキャリアアップや、将来の状況が現在の状況よりもより良くなるという期待性などの面においても、その格差が広がりやすくなるだろう。これが山田昌弘のいう「希望格差」です。

希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く

希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く

 

 しかも、そのようにして生みだされる格差は、時間をかけて積まれた努力の度合いに応じて生じるものではありません。いわば、時代の流れにあった「アイデア」を思いつくかどうか、という天性の才能や発想力、あるいは単なる「偶然性」によって生じてくる格差です。何十年もの努力と苦労をかけて生みだされたサービスよりも、天才的な高校生がシンプルな技術で作ってみたサービスのほうが大きくヒットする、という事例はIT業界では決して珍しいものではありません。むしろありふれた話だとさえ言えます。しかしこれが自動車や電気製品などの「ものづくり」の分野ではそう簡単にはいかないでしょう。それらの製品を作り出すためには、一定規模の設備や一定期間の訓練・経験などが必要とされるからです。(とはいえ、そのような状況も既に変わりつつあることを、クリス・アンダーソンの著作『MAKERS』は指摘している)

MAKERS―21世紀の産業革命が始まる

MAKERS―21世紀の産業革命が始まる

 

 そうするとポスト工業社会において必然的に生じてくる格差(労働の二極化)は、努力によってはどうしようも変えようのない「宿命的なもの」に思えてきてしまうことすらあるだろう。(情報化社会の極限において、なぜか「宿命的なもの」が回帰してくるという現象は他の論者によっても指摘されている。例えば、鈴木謙介『ウェブ社会の思想』を参照。)労働の面において、このことを指摘したのが本田由紀による「ハイパー・メリトクラシー」現象です。この点について次回の記事で説明しましょう。

マルクスの唯物論はヘーゲルの労働観をどのように批判したのか -マルクス『経済学・哲学草稿』より

 前回までヘーゲルの労働観について書きました。

 ここでぐるっと一周してマルクスの労働観に戻ってくるのですが、若き日のマルクスヘーゲルの思想を批判することによって自身の労働観を形成していきました。『経済学・哲学草稿』のなかでマルクスは次のように書いています。

 

経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2)

経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2)

 

ヘーゲルの『精神現象学』とその最終成果とにおいて――運動し産出する原理としての否定性の弁証法において――偉大なるものは、なんといっても、ヘーゲルが人間の自己産出をひとつの過程としてとらえ、対象化を対象剥離として、外化として、およびこの外化の止揚としてとらえているということ、こうして彼が労働の本質をとらえ、対象的な人間を、現実的であるゆえに真なる人間を、人間自身の労働の成果として概念的に把握しているということである。」(『経済学・哲学草稿』岩波文庫版、199頁)

 

 ここでマルクスは、ヘーゲルが労働の本質をとらえていたこと、すなわちヘーゲルが労働をとしてとらえていたこと「自己産出」および「外化」の過程(労働とは、人間が自己〔の一部〕を生産物のうちに対象化〔外化〕する運動である)をマルクスは高く評価しています。しかしそれだけでは終わりません。マルクスヘーゲルを高く評価する一方で、同時にヘーゲルを厳しく批判してもおり、ヘーゲル思想を乗り越えたさらなる高次の思想を構築しようとするのです。

 

ヘーゲルは、労働を人間の本質として、自己を確証しつつある人間の本質としてとらえる。彼は労働の肯定的な側面を見るだけで、その否定的な側面を見ない。労働は、人間が外化の内部で、つまり外化された人間として、対自的になることである。ヘーゲルがそれだけを知り承認している労働というものは、抽象的に精神的な労働である。」(同上、200頁)

 

 ここでのマルクスは、ヘーゲルが労働を人間の本質としてとらえていることを評価しつつ、彼が「労働の肯定的な側面を見るだけで、その否定的な側面を見ない」点を批判しています。前回までの記事で書いたように、ヘーゲルは労働を人間を陶冶する手段としてとらえたり、あるいは労働を承認獲得のための契機としてとらえたりしていたのでした。これが労働の肯定的側面です。ではヘーゲルが見逃しているという労働の否定的側面とは何か?

 

 言うまでもなく、それは労働が資本制生産様式のもとで「疎外」され「搾取」されるということです。これこそは、マルクスが資本主義経済を批判した最大のポイントのひとつでした。とくに「労働の疎外」は、同じ『経済学・哲学草稿』のなかでマルクスが構想した非常に重要な概念のひとつです。この点についてはまた後ほど詳しく見ることにしましょう。

 

 もうひとつ、マルクスヘーゲルを批判しているポイントがありました。それは、ヘーゲルが考察している労働が非常に抽象的で精神的であるということでした。これは、マルクスの有名な観念論批判=唯物史観に関わります。前回の記事でも書いたように、ヘーゲルの『精神現象学』は人間の自己意識が展開して、最終的に絶対知の段階へと至る過程を描いたものでした。このように精神的なものや観念的なものに沿って体系的な思想を構築したヘーゲルに対し、マルクスはそこに物質的・現実的な基盤が欠けているとしてこれを批判しました。そうして形成されたのがマルクスの唯物論(唯物史観)です。

 

 抽象的な観念論を論ずるだけでなく、現実社会に起こっている貧困や不平等や搾取や不正義などの問題を見、それらの問題の物質的基盤を問わない限り、真の哲学を構想し、社会を良き方向に導くことはできない。そのためには政治や経済や社会で現実に起きている問題を直視し、それらの否定的側面や物質的構造について論じなければならない。若き日のマルクスが当時のドイツの政治・社会状況を睨んで当時の政府に批判的な新聞記事を書きつつ、イギリス由来の経済学やフランス由来の社会主義思想を学びながら、ヘーゲルを批判的に乗り越えようとしたのは、まさにこの唯物論的視点においてでした。この構想は、さらに後年の『ドイツ・イデオロギー』や『共産党宣言』、さらには『経済学批判要綱』や『資本論』にまで繋がっていきます。

 

 次回はマルクスの労働疎外論について書きたいと思います。