草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

「コモディティ化」の果てに… -野口悠紀雄『資本開国論』より part2

 前回の続きです。前回の記事は、21世紀型グローバリゼーション(モノだけでなく、ヒト・モノ・カネすべてがグローバル化する現象)によってオフショアリング(海外アウトソーシング)が進み、先進諸国内の雇用が流出・縮小していく状況にある、というお話でした。これを受けて、野口悠紀雄さんが日本経済に対する処方箋として提示するのはコモディティ生産からの脱却」という方向性です。コモディティcommodity」とは、もともとは「商品」という意味ですが、近年では「生産に特殊な技術が必要とされないため、差別化特性がなく、価格が主たる判断基準になる製品」という意味で使われています。

 

 

 グローバル化が進むと、製品のコモディティ化が起きやすくなり、これまで優位を保っていた先進国の製造業が急速にその価値を失っていきます。この10年ほどで中国をはじめとする新興国の製造業が飛躍的な成長を遂げ、先進国に追いついてきたことは誰もが知るところでしょう。かつては「ものづくり大国」と言われた日本ですが、ここ数年はパナソニック・ソニー・シャープなど名だたる電機メーカーが軒並み不振に喘ぎ、大型リストラ・工場の海外移転を行うようになっています。

 

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 コモディティ化した製品は誰でも作れるため、供給が過剰になり、激しい値下げ競争が起きる。したがって、そうした製品の生産を続けても、利益はあがらない。液晶テレビの価格競争などが典型的ですね。かつてブランド力をもっていた製品がコモディティ化することも多くなっています。おそらく今後は、自動車や光学・医療機器など日本がまだ優位を保っているものづくり分野でも同じ現象が生じると考えられます。

 

 今後、日本が世界経済で勝ち残っていくためには、「コモディティの大量生産」を脱却し「付加価値の高い生産」へ移行していかなければならない。コモディティの大量生産」は中国などの低賃金国に移譲し、「付加価値の高い生産」のみをコア・コンピタンスとして自国内で追究すべきである。さらに日本は、製造業(第2次産業)中心の経済構造を脱却し、IT・金融・サービスなど第3次産業中心の経済構造へと移行していかなければならない。つまり、「産業構造の高度化」を進めていく必要がある。

 

 以上が野口さんのおもな主張です。このような主張は、経済学者の 示すグローバル化への処方箋としては典型的なものです。しかしこういった処方箋は「言うは易し行うは難し」です。たしかに経済合理的にいけば、日本企業は付加価値の低い産業を捨て、付加価値の高い製造業や新興国に真似できない第3次産業を追求すべきだ、ということになるでしょう。

 でも実際には、これまでの優位産業を捨てて別の産業へ移行することなど簡単にはできません。日本がこれからITや金融などで世界に伍するようになっていけるかというと、それはなかなか難しい。これまで長年日本企業が製造業を中心に培ってきた技術や組織形態、国内向けにガラパゴス的に発達してきたサービス業の構造などを、グローバルな経済競争に適応・転換させていくのは並大抵の努力でできることはないからです。

 

 とはいえ、日本企業の多くはそのような挑戦に乗り出さざるをえなくなっていますし、実際に海外進出・グローバル化対応に多くの企業が取り組んでいます。しかし、繰り返しになりますが、これが多くの日本人にとって厳しい道・大変な努力を要する道であることは間違いありません。

 青年時代に必死になって働いた結果、裕福になった先進国日本で、悠々自適な老後生活が待っているかと思ったら、若い新興国の追い上げをくらってなかなか引退できず、老身に鞭うちながら働いている。高度成長期に働いてきた年長世代の方々には「何を甘いこと言っとるんだ」とお叱りを受けてしまうかもしれませんが、昨今の日本を取り巻く経済情勢を見ているとどうしてもそのような印象を持ってしまいます。

 

 ますます厳しくなるグローバル競争、停滞する世界経済のなかで、日本は今後も必死に働き続けていかなければならないのか。なんとしてでも経済成長を続けていかねばならないのか。経済学的な解答はYesであっても、「本当にそうなのか?」「何か経済や社会の仕組みがおかしいのではないか?」「いつになったら我々は本当の意味で『豊か』になれるのか。いつまでこのような厳しい競争を続けなければならないのか」といった疑問を多くの人が抱き始めているように思えます。それは若者の甘えた考えなのでしょうか。僕にはどうしてもそう思えません。その違和感の原因を次回以降、探っていきたいと思います。