読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

ハイパー・メリトクラシー社会における「宿命的なもの」

 前回記事の最後に「ポスト工業社会において必然的に生じてくる格差(労働の二極化)は、努力によってはどうしようも変えようのない「宿命的なもの」に思えてきてしまうことすらある」と書きました。このことを、若者の雇用問題に詳しい教育社会学者の本田由紀さんは「ハイパー・メリトクラシーという概念によって説明しています。

 

 メリトクラシー」とは通常、能力主義・業績主義を意味します。能力や業績に応じて、その人に与えられる役職・責任などが定められる仕組みのことです。もっと分かりやすく「成果主義」と言い換えても構いません。本田氏によれば、メリトクラシー社会では一定の型にしたがって努力を積み、経験と訓練を重ねれば一定の能力を身につけ、ある程度の地位・役職に就くことが期待できたといいます。例えば、経済成長期の日本では、企業の正社員として入社すれば、その後さまざまな苦労があろうとも、基本的には定年までその会社で安定的に働き、年次にしたがって給料や役職が上がっていくことが期待できました。(実際にはこれほど理想的な終身雇用・年功序列の日本型雇用モデルが普及していたのかについては議論があるところのようですが)

 

 これに対し、本田氏の提唱する「ハイパー・メリトクラシー」は「能力主義を超えた能力主義」を意味します。「能力主義を超えた能力主義」とはどういう意味か。それは、コミュニケーション能力や独創力、問題解決力、さらには「感じの良さ」「人間力」などの数値化・測定化できない曖昧な能力にもとづく「超能力主義」を指します。ポスト工業社会で重視されるこれらの能力は、努力量や経験量などに応じて身につくものではなく、先天的な性格や才能、あるいは育ちの良さや家庭環境などによって決定される可能性が高い。

 

 それゆえ、ハイパー・メリトクラシー社会では、「努力すれば報われる」というメリトクラシー社会で多くの人が持つことができた期待が成立しにくくなってしまう。努力をしようがしまいが、そういったレベルとは関係ないところで地位や評価が決まってしまう。ならば努力をしても無駄だ、という考えをもつ人が出てきても不思議はありません。このような感覚が冒頭に述べた「宿命的なもの」の回帰に繋がっていくと考えられます。

 

 コミュニケーション能力や社交能力、独創力、問題解決能力などに秀でた「できるヤツ」は、特別な努力や経験を積まなくとも、一定の年齢に達した時点ですでにそういう能力を身につけてしまっているように見える。そうしてついてしまった「格差」は、大人になってからではもはや逆転不可能な「宿命」であるかのように思えてしまう。安易に結びつけることは危険かもしれませんが、いわゆる「リア充」と「非モテ」の格差にもこれに通ずるところがあるように思われます。

 

  この実感を裏付けるような統計結果も出ています。2005年の「世界価値観調査」によれば、「人生での成功を決めるのは、勤勉が重要か、それとも幸運やコネが重要か」という質問に対して、日本では運やコネが大事だと答える人の比率は41%で先進国の中ではかなり高いほうでした。これに対し、フィンランドでは運やコネが大事だと答えた人は15.8%しかいませんでした。アメリカ、ニュージランド、台湾、中国、スペイン、カナダ、韓国などの諸国でも、勤勉が大事だと考える人の割合が7割以上でした。

 

f:id:windupbird:20130216032547j:plain

 

  これまで日本人は勤勉な国民で、それが高い生産性の原動力になってきたとされてきましたた。しかし2005年時点ではそのような認識はずいぶん薄れてしまい、運やコネが大事だと考える人が増えています大竹文雄氏によれば、日本人がこのような価値観をもつようになったのは最近である可能性が高いといいます。世界価値観調査で過去に日本について同じ質問を行った際には、日本人で運やコネが大事だと答えた人は、1990年時点で25%、95年時点で20%と少数派であったものが、2005年には41%と急増しているからです。つまり、2000年代に入ってから日本人の価値観が勤勉から、運やコネを重視するように変化してきたと考えられます。

競争と公平感―市場経済の本当のメリット (中公新書)

競争と公平感―市場経済の本当のメリット (中公新書)

 

 実際、2005年調査を年齢階層別に集計してみると、運やコネが大事と答える人の割合は、15-29歳で44.6%、30-39歳で44.1%、50歳以上で37.6%となっており、若い人ほどその割合が高い。この理由について大竹氏は、若い時期に不況を経験した人は「人生の成功は努力よりも運による」と考える傾向が強くなるのではないか、と推測しています。(景気が良くて完全雇用であれば、努力をすれば仕事に就けるはずなので、仕事が見つからないというのは、本人が努力をしていないためだと多くの人が考えることになる。これに対し、不況時には、失業が発生して、どれだけ努力をしても、その努力と無関係に仕事に就けない人が出てくる。このような不公平が、成功には勤勉よりも運やコネが大事だと考える人の割合を増やすことに繋がったのではないか、というのである。)

 

 確かにこのような大竹氏の仮説には説得力があります。しかし、本田氏の「ハイパー・メリトクラシー」論をも併せて考えてみるとき、日本の長期不況という要因に加えて、ここ20年ほどで日本経済の脱工業化(情報化)が進み、ハイパー・メリトクラシー的能力が重視されるようになったことも、その一つの要因になっているのではないかという仮説を立てることができるでしょう。先に述べたように、ハイパー・メリトクラシー社会では、勤勉な努力を積み重ねることよりも、たまたまそのような能力を身につけているかどうかという運や生まれ育った家庭環境などのほうが、成功要因として大きな影響力をもつように感じられるからである。

 

 以前の記事でも書いたように、アメリカの経済学者ロバート・ライシュは『勝者の代償』という本の中で、これからの経済(ニューエコノミー)において活躍するのは「変人」か「精神分析家」である、という興味深い発言をしています。独創的な発想力や創造力をもつ「変人」や時代の流れを敏感に読み取る「精神分析家」の能力やセンスは、努力をしたところで誰もが身につけられるものではない。そのような能力やセンスを発揮して市場の中で活躍できるのはごく一部の人々に限られてしまい、残りの人々はその「変人」や「精神分析家」が考案したアイデアを実現・実行するための取り替え可能なスタッフとして働くほかない…。このような格差構造が出来上がりやすいのがポスト工業社会、あるいはハイパー・メリトクラシー社会だと言えます。

勝者の代償―ニューエコノミーの深淵と未来

勝者の代償―ニューエコノミーの深淵と未来

 

 

 たまたま運良く「勝ち組」の側に入れれば良いが、運悪く(といってもそちらのほうが可能性としてはずっと高いのだが…)「負け組」の側に入ってしまうと、もう一生その関係性を逆転することは不可能であるように思えてしまう。このような構造が「後期近代社会における宿命論」を紡ぎだしているのだと考えられます。

 ではこのような宿命論的後期近代社会において、われわれはいかに生きていけば良いのか。コモディティ化が進む社会の中であくまで自由競争と自己啓発によって枠の少ない椅子取りゲームに参加する他ないのか。それはおそらく多くの人々にとってあまり幸せではない結果をもたらすでしょう。ではどうすれば良いのか。そのことを次回以降の記事で考えていきたいと思います。

 

世界60カ国 価値観データブック

世界60カ国 価値観データブック