草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

「労働力商品の無理」ー宇野弘蔵『恐慌論』とポランニー『大転換』より

  久々にブログ更新。

 前回の記事では、フーコー講義録『安全・領土・人口』を参照しながら、人間の自然性および生物性を認識することによってこそ、近代の資本主義運動が開始され、それを円滑に機能させるための生権力統治が成立したことを書きました。このことは、資本の無限増殖運動が「労働力」という特殊商品の成立によって可能になるというマルクスの洞察と深く結びついています。「労働力商品」は通常の商品とは異なり、有限な生命と身体をもつ「人間」の力能(ポテンシャル=潜在性)の一部が商品化されたものです。それは市場にもとから存在するものではありえず、政治的権力によって無理やりに創りだされるものでしかありえない(資本の本源的蓄積)。

 また、その労働力商品を良質な状態に保つために(すなわち、労働者を健康な状態に保つために)、権力は人々の健康状態に配慮し、都市の衛生状態を管理し、安定的な食糧確保・円滑な流通確保に努めなければならない(『安全・領土・人口』)。また勤勉で有能な労働力商品を揃えるために、学校・軍隊・病院などの公共施設において、人々の身体にミクロなレベルで働きかけ、従順な労働者/国民を創りあげる規律訓練型権力が登場する(『監獄の誕生』)。フーコーは近代社会に登場したこれらの新しい権力形態を「生権力」と名づけた。

監獄の誕生―監視と処罰

監獄の誕生―監視と処罰

 世界的にも有名な日本のマルクス経済学者である宇野弘蔵はかつて「労働力商品の無理」というテーゼを唱えたが、これは生物としての有限性をもつ人間(の力能)が商品化されたところに生じる「無理」について論じたものである。宇野によれば、労働力商品はその成立によって初めて産業資本主義が可能となるものであるが、同時に資本主義の限界を示すものでもある。なぜなら、労働力は唯一資本が自由に作り出したり廃棄したりすることができない商品であるからだ。他の物質的財であれば、需要と供給に応じてそれを増産したり処分したりすることが可能であろう。しかし、労働力商品に関してはそのような対処が不可能である。社会全体の働き手が不足している際にこれをすぐに追加生産することはできないし、また働き手が余っているからといってそれを邪魔だからといって処分することもできない。それは労働力商品の担い手が、生物学的限界と基本的人権を併せ持つ「人間」だからである。

 労働力人口が多少の差を孕みつつも市場の労働需要と釣り合っているうちは大きな問題は生じないであろう。問題が生じるのは、その両者の間に大きな乖離が生じたときである。宇野が『恐慌論』で問題としているのは、好況期に労働力不足ゆえに賃金の高騰が生じ、それが資本の利潤率低下をもたらし、恐慌を引き起こす原因となるという事態である。このような状況において企業は労働力商品を自在に調達することができないので、企業に出来るのは賃金を引き上げつつ限られた労働力を確保することだけである。しかしこれが企業の利潤を押し下げ、恐慌を勃発させる要因になると宇野はいう。

 資本主義の成立条件と限界の両方が「労働力」という特殊な商品にかかっているという宇野の考察は重要である。それはフーコーのいう「人間の時代」に成立した産業資本主義の本質を見事に言い当てている。これとほとんど同じことを、カール・ポランニーが『大転換』のなかで述べている。ポランニーは、もともと「社会」の中に埋め込まれていた「市場」が近代において浮き上がり、逆に「社会」が「市場」の中に埋め込まれる事態が生じたという。そのなかで、土地・貨幣・労働力という本来商品ではなかった要素が無理やりに商品化され、資本主義の生産要素とされた点に、ポランニーは近代社会の問題の本質を見て取った。ポランニーによれば、労働力だけでなく土地や貨幣などが「擬制商品化」されることが資本主義成立の条件であり、同時にそれが資本主義の限界を示してもいるのである。

[新訳]大転換

[新訳]大転換

 ただし、現代の資本主義市場において恐慌が発生するとすれば、それはおそらくマルクスー宇野が想定したような賃金の高騰によってではない。むしろ、労働者の賃金が下がりすぎ、相対的余剰人口が増大しすぎたことによって、現代の恐慌は発生するのではないか。以前の記事でも書いたように、現在世界中で起きているのは労働力の不足ではなく労働力の過剰である。グローバル化と IT化の進展によって世界中(とりわけ先進諸国)の雇用が収縮し、 雇用不足が発生している。その結果、一握りの「勝ち組」以外は労働者の賃金が引き下げられ、雇用条件も不安定なものとなる。とりわけ若者の雇用が不足し、失業率が上昇し、就職活動が厳しさを増す。

 このような状況は現在、世界各地で見られるものであるが、その中で生じているは、賃金の高騰による恐慌勃発でなく、むしろ賃金の引き下げによって市場全体の需要が低下し、世界経済全体が長期的停滞に陥るという事態である。もはや、好況→恐慌→不況→停滞→好況→…という景気循環が成立するかどうかは疑わしい。もちろん多少の好景気・不景気の波はあるだろうが、大きな目で見ればとくに先進国の経済は長期的な停滞期を経験することになるのではないか。そう推測する重要な根拠のひとつが人口動態である。これについてはまた別の機会に詳しく述べよう。

 さて、このような「雇用収縮の時代」にはマルクスー宇野が想定していたのとは別のかたちで「労働力商品の無理」が生じる。すなわち、労働力商品の不足ゆえに資本がこれを自由に増産できないという理由ではなく、逆に、労働力商品の過剰ゆえに資本がこれを自由に処分できないという理由において。雇用のパイからはみ出た人々は資本主義社会にとっては「邪魔者」である。雇用に就けない人々は経済の中で新たな価値を生み出すことができず、ほとんど納税もせず、社会保障費ばかりを必要とする存在であると権力の目には映る。権力側からすれば、その存在を抹消してしまいたいような人々が増えていく。ジグムント・バウマンはこの状況を指して、これを少々ショッキングな言い方で「人間廃棄物」と表現している。

廃棄された生―モダニティとその追放者

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 このような「人間廃棄物」を権力側は簡単に処分・排除することはできない。相手が生身の身体をもち、基本的人権を確保された人間である以上、不要であるからといってそういった人々を次々に「廃棄」していくことはできない。せいぜい、できるだけコストと手間のかからない方法で彼/彼女らを「生かし、そして死ぬにまかせる」ような政策を展開するしかない。そして、そのような統治に適するように権力形態もまた変容していく。しかし、巧みな統治を展開する生権力といえども、この問題を容易に解決することはできないだろう。資本主義が高度に発展するいっぽうで、余剰な人間たち=生産廃棄物が社会のなかに蓄積されていく。それは資本主義の発展自体の阻害要因となるだろう。処分したくてもできない(潜在的)労働力商品の山、すなわち生物としての「人間」たち。これが現代における「労働力商品の無理」なのである。