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草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

成熟社会における「暇と退屈」の問題――國分功一郎『暇と退屈の倫理学』から考える Part2

 前回の記事では、國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』を手がかりとして、成熟社会における「暇と退屈」の問題について考えてみました。國分さんの最終的な提案は、「暇と退屈」を豊かに「浪費」(「消費」ではなく)するための「訓練」を積むこと、それによって動物のように「とりさらわれる」瞬間を創りだすことが重要だ、というものでした。僕自身もこの提案には基本的に賛成なのですが、それと同時に、もう少し別の方向から、成熟社会における「暇と退屈」へ向き合うことも可能なのではないか、と考えています。

 

 それが「仕事と活動」からのアプローチです。通常、「余暇時間」は「労働時間」と正反対のもの(余暇は一日のうち労働時間以外の時間)だと考えられているので、「余暇」と「労働」は一見結びつきにくいように思えます。しかし、以前の記事で述べたマルクスケインズ未来社会論を思い返せば、また別の可能性が見えてくるはずです。

 

 以前の記事でも書いたように、ケインズは「孫たちの経済的可能性」のなかで次のように述べました。今から100年後(ケインズがこのエッセイを発表したのが1930年なので、おおよそ2030年ごろ)には主要な経済問題は解決され、人々は生命維持のための必要から解放されているであろう。しかしそのような社会では、一部の才能に恵まれた以外の多くの人々は、ノイローゼに陥ってしまうに違いない。なぜなら、人類の長い歴史では、日々の糧を得るための働くことが人々の主要な関心を占めていたのであって、突然その問題から解放されてしまったとき、多くの人々は生きる目標を失ってしまうだろうからである。

 

 それゆえ、未来社会における人類の課題はいかにしてこの「暇と退屈」をやり過ごすかという問題になるはずである。この問題に対してケインズは、人々に1日2~3時間程度の労働を課すことがその解決に繋がるのではないかという提案を行っています。それによって、人々は社会との繋がりを保つことができ、生きる意義を見出すことができるだろう。残りの時間には各自が好きなことをして過ごせば良い。そして未来の人類にとって真に重要なのは、お金に代わる価値を見出すことである、と。

 

ケインズ 説得論集

ケインズ 説得論集

 

 

 これに対して、マルクスの未来社会像はより積極的(あるいはユートピア的)です。マルクスは次のように述べています。「資本の偉大な文明化作用」によって生産力が向上すれば、社会の必要労働時間は減少し、自由時間(余暇時間)が増大していくであろう。その自由時間において、必要のための「労働」は自己目的的な「活動」へと転化し、その活動によって人々は新しい主体としての「社会的個体」へと生まれ変わる(『経済学批判要綱』)。そのときに「朝には狩りをし、昼には漁をし、夕食後には批評をする」ような理想社会(『ドイツ・イデオロギー』)、あるいは「能力に応じて働き、必要に応じて取る」ような理想社会(『ゴータ綱領批判』)が実現されるだろう、と。

 

 

ドイツ・イデオロギー(抄)/哲学の貧困/コミュニスト宣言 (マルクス・コレクション)

ドイツ・イデオロギー(抄)/哲学の貧困/コミュニスト宣言 (マルクス・コレクション)

 

 

 

マルクス・コレクション VI フランスの内乱・ゴータ網領批判・時局論 (上)

マルクス・コレクション VI フランスの内乱・ゴータ網領批判・時局論 (上)

 

 

  以前の記事では、ケインズ未来社会を「ワークシェア的」、マルクス未来社会を「ベーシックインカム的」と表現して対比させましたが、皆さんにはどちらの社会(労働スタイル)がより望ましいものだと思われるでしょうか。

 どちらの未来社会像も、2013年の現在を生きる我々にとっては、まだまだ道のり遠いもの、あるいはユートピア的なもののように感じられるかもしれません。確かにマルクスケインズの生きていた時代から比べればずいぶん豊かになったとしても、まだまだ我々の暮らす社会は、生命維持のための労働や貧困や格差などの問題から解放されていません。社会全体で見れば、物質的にはとても豊かな社会に暮らしていても、個々の生活を見れば、様々な経済問題が残っていると言わねばならないでしょう。

 

 しかしそれと同時に、マルクスケインズが論じた事柄が、現在の成熟社会においてよりいっそう重要な問題となってきていることもまた確かです。繰り返しになりますが、それが成熟社会における「暇と退屈」の問題であり「労働と活動」の問題です。長期的に見れば、社会全体の労働時間は昔に比べて確かに短くなってきている(ように見える)。そのときに増大してくる余暇(自由時間)をいかにして過ごすのか。そこから生まれてくる「退屈」と我々はいかに向き合うのか。

 

 言いかえれば問題はこうです。成熟社会では物質的豊かさはすでに一定水準以上に満たされている(あくまで社会全体で見た際には、ということです。個々には当然、貧困や格差の問題がありうる)。そこで問題となってくるのは精神的充足(心の豊かさ)のほうである。もはや右肩上がりに経済が成長を続ける時代は終わり、一生懸命働いた分だけ見返りがある(経済成長する)という期待を多くの人が持てなくなっている。そのような時代において、人々はいかにして精神的充足を得ることができるのか。「終わりなき日常」においていかに心を病まず、楽しい・充実した生を送ることができるのか。

 

 ここで國分功一郎さんが古市憲寿さんとの対談のなかで面白いことを言っています。朝には狩りを、昼には漁を、夕べには家畜の世話をし、夕食後には批評をするというマルクスが『ドイツ・イデオロギー』で描いたユートピアは、現代の日本社会ではすでに一定程度、実現されているのではないか、と。

 これを受けて古市憲寿さんも次のように言います。確かにいまの日本では実はそのユートピアを部分的に実現することはそれほど難しくないのかもしれない。例えば、仕事を持ちながらブログを書いたり、NPOの活動をしたり、ボランティアをしたりしている人ならたくさんいる。もちろん誰もができるわけではないかれども、毎日やることを変えるというハードルは確実に下がっている、と。

社会の抜け道

社会の抜け道

 

 

 『ナリワイをつくる』という本を書かれた伊藤洋志さんも、ひとつの固定した仕事だけでお金を稼ぐのではなく、複数の「ナリワイ」を組み合わせることによって生計を立てていくワーク/ライフスタイルを提案されています。ここでいう「ナリワイ」とは、会社に勤めてお給料を貰うといった一般的な仕事だけでなく、畑で野菜を育てて部分的に自給自足の生活をしたり、近隣の地域社会や身近なNPO団体などの手伝いをしたり、短期的に頼まれた仕事を請け負ったり、ブログやSNSを通じた情報発信をしたり、といった多様な仕事/活動が含まれます。

ナリワイをつくる:人生を盗まれない働き方

ナリワイをつくる:人生を盗まれない働き方

 

 

 実際に伊藤洋志さん自身が、年に二回だけの「モンゴル武者修行ツアー」京都の一棟貸し宿、木造校舎ウェディング、ブロック塀ハンマー解体協会、全国床張り協会、といった多数のユニークな仕事/活動を実践しておられます。伊藤さんのブログを見ていると、本当に様々なことに取り組んでおられて、見ているだけで楽しいです。『ナリワイをつくる』には、実際に「ナリワイ」を組み立てて生きていきたい人のための実践的なアドバイスもたくさん書かれています。

 

 このように複数の「ナリワイ」を組み合わせて自由なワーク/ライフスタイルを実現するという方法は、まさに『ドイツ・イデオロギー』のマルクスが理想としたそれに近いものだと言えるでしょう。もちろんここで言いたいのは、誰もがそのような生き方/働き方をするべきだということではありません。人にはそれぞれ向き不向きがあり、世間には多種多様な価値観が存在します。ひとつの仕事を長く続けるほうに向く人はそのような働き方をすれば良い、いっぽうで複数の仕事を掛け持ちして働くほうが向いている人はそうすれば良い、という程度に緩やかに捉えてもらえればいいと思います。

 

 伊藤さんはこう言います。大正9年国勢調査で国民から申告された職業は約3万5000種だったのに対し、厚生労働省の「日本標準職業分類」によれば、現在の職業は2167職にまで減少している。わずか100年ぐらい前には仕事の種類にはかなりの多様性があって、日本人はそれぞれの適性に合わせて生計を立てていた。季節ごとに3つぐらい仕事をしていた人は珍しくなかったはずだ。

 しかし、戦後の数十年間で日本人はその職業の多様性を手放して「専業化」を進めてきた。その結果として、日本は大きな経済成長を遂げたけれども、その反面、生活と仕事が乖離し、固定した働き方に心を病んでしまう人もたくさん出てきた。そろそろ我々は、多様な働き方・生活と一体化した働き方を取り戻すべき時期に来ているのではないか。それを実践するのが「ナリワイ」プロジェクトなのである、と。

 

 ノマドワーカーとして有名なイケダハヤトさんや、 「月3万円ビジネス」藤村靖之さん、「半農半X」の塩見直紀さんなども、同様の主張をされています。これからの時代は仕事をひとつに固定するほうがむしろハイリスクであり、複数の小さな仕事を掛け持ちするほうがリスクヘッジとしても健全だし、そちらのほうが時間的にも融通がきくし、自由な生き方/働き方ができる、と。

 

年収150万円で僕らは自由に生きていく (星海社新書)

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月3万円ビジネス

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半農半Xという生き方

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 仮にこのようなナリワイ的働き方が広がっていくとすれば、それは成熟社会における余暇の有意義な過ごし方は何か、という問いに対するひとつの有効な答えになりうるのではないでしょうか。それはケインズの提案するワークシェアリング的な答えとも、國分功一郎さんの提案する「浪費の洗練」という答えとも異なる、マルクスからの「積極的な労働」という新しい余暇(自由時間)の過ごし方を示しているのです。