「余暇と退屈」の問題-ケインズ「孫の世代の経済的可能性」から考える 4
前回からの続き。
ここまでに論じてきた問題は、つまるところ、労働が人間にとってどこまで本質的な営みであるのか、人間が労働から完全に解放されることは果たしてありうるのか、という大きな問いに行き着きます。この問いに簡単に答えることはもちろんできません。ただ、ケインズのエッセイを手がかりとしつつ、少なくとも次のように考えることはできるのではないか。
「生きるために働く」ことは人間にとって有史以来の大きな課題だった。多くの場合、そこに選り好みの余地はなかった。何万年、何千年もの間、人類はこの課題と格闘してきた。しかし近代以降、人類の生産性は飛躍的に向上し、社会全体としてみれば人類が最低限生きていく以上に余裕のある富が生産・蓄積されるようになった。ここに人類史において初めて「労働からの解放」という夢が実現される可能性が現れてきた。
もちろん、人類の多くはまだまだ労働から解放されてなどいない。むしろ、現在多くの国で問題となっているのは、多くの人々がそれぞれの希望する労働にありつこうとして、実際にはそうできずにいるという状況である。我々は労働から解放されるどころか、むしろますます労働に束縛されているのではないか。近現代社会において労働は単なる生計を立てるための手段ではなく、それによって「一人前の大人」と見なされるための判定基準となっている。
働いていればどのような労働であっても良い、ということではない。安定した収入と地位が保障されるような仕事・職業でないと「一人前の大人/社会人」であるとは見なされない。例えば、企業の正社員として就職した人間は「一人前の大人」だが、フリーターや日雇い労働者などは「一人前の大人」として認められないことがしばしばある。それゆえ、雇用の枠からこぼれ落ちた人々は日々の収入を確保するためと同時に、社会の一員として認められんがために、なんとか労働・雇用の枠組の中に入ろうとして必死にもがくのである。
マルクス風にいえば、我々が今日抱えている困難は「労働における疎外」ではなく「労働からの疎外」なのではないか。つまり、そもそもきちんとした職に就くことができないので「労働における疎外」にすらたどり着けない人々が出てきているのではないか。 そうであるとすれば我々は「労働からの解放」どころか、むしろ「労働からの疎外」に苦しんでいるのであり、まずは労働にありついて最低の収入を得るところから始める必要があるのではないか?
ハンナ・アーレントが述べたように、近代社会とは「労働」を中心とする社会である。近代社会において「労働」は収入を得る手段であるとともに、社会の一員として認められるための印であり、他者から承認を獲得するための契機であり、自分の夢や目標をかなえるための営みでもある。「生きるために働く」ことが人間にとっての最大の課題であった時代に比べれば、労働の役割や意味合いが多義化していることに気がつくであろう。近代社会において「労働」が我々にとって持つ意味はかつてなく大きく、さまざまな社会構造が「労働」を前提として設計・運営されている。
そうであるとすれば、我々はどれだけ技術革新がなされ生産力が向上したとしても、簡単に「労働」から解放されることはないであろう。良かれ悪しかれ、我々は長期的に「労働」と付き合っていかねばならないし、これからも当分の間、社会は「労働」を前提として設計され運営されていくだろう。人間の価値観や行動様式、習慣、社会の構造や組織形態、政策方針などは一朝一夕に変えることはできない。生産力や技術力が向上したからといって、いきなり労働と収入を切り離したり、労働を手段から目的に反転させたり、人間を完全に労働から解放させたりすることはできない。たとえ長期的にそのような方向へと社会を向かわせるにしても、短期的にそのような理想を実現させようとすることはおそらく危険である。労働中心社会から脱却するためには十分な移行期間を設ける必要があるだろう。
ケインズは、労働が単に生計を得るための手段ではなく、それが社会参加や他者からの承認の契機となっていることを理解しており、最低限の必要性〔必然性〕necessityに人間を結びつけておくことによって、人々が生きる意味を喪失しないような社会を構想する必要を感じていたのではないか。それゆえ、雇用のパイが縮小する時代において「パンをできるかぎり薄く切ってバターをたくさん塗れるように努力する」ような政策をケインズは提案していたのである。
ケインズのこのような提言に従えば、成熟期を迎えつつある我々の社会は、一足とびにベーシックインカムのような政策に向かうよりも、まず段階的に雇用を広く薄く人々に行き渡らせるワークシェアリングのような政策を我々は検討すべきではないか。そのようにして漸進的に労働から人々を解放させるような社会を目指していくのが望ましいだろう。
またケインズは、経済問題が解決された成熟社会において、余暇における「退屈」こそが人類にとって真の問題になると考えていた。非労働時間=余暇をいかに豊かに過ごすことができるかという問いは、人類が労働から解放されるうるかどうかという問いとコインの裏表の関係にある。さらにこの問いは、不必要な貨幣欲望を我々が捨て去ることができるか、という問いにもつながっている。
生産性が十分に向上し経済的問題が解決されて初めて、我々は「金銭動機の真の価値をようやくまともに評価できるようになる」だろうとケインズは述べている。闇雲に富/金銭を追求するのではなく、必要なものを所有するためだけのための富/金銭を我々は求めるようになるだろう。それは、我々が不必要な物質的欲望から解放されることを意味している。その代わりに我々は人生にとってもっと重要な事柄を、物質的欲望ではなく精神的な欲望を、我々は追求するようになるだろう。このような理想をケインズは抱いていたように思われる。
「したがって私たちは、宗教と伝統的な徳の原則のなかでとくに確実なものに戻る自由を手に入れられると思う。貪欲は悪徳だという原則、高利は悪だという原則、金銭愛は憎むべきものだという原則、明日のことはほとんど考えない人こそ徳と英知の道を確実に歩んでいるという原則に戻ることができるのである。昔に戻って、手段よりも目的を高く評価し、効用より善を選ぶようになる。一時間を、一日を高潔に、有意義に過ごす方法を教えてくれる人、ものごとを直接に楽しめる陽気な人、労せず紡がざる野の百合を尊敬するようになる。」
このような記述からは、金銭愛よりも徳が、効用よりも善こそが重要であり、将来的には人間社会がそのような理想に達することが望ましいとするケインズの理想主義的な側面が伺える。しかし、そのような時期はまだ訪れていないことに注意すべきだ、とケインズは警告を促す。「少なくとも今後百年は、自分自身に対しても他人に対しても、きれいは汚く、汚いはきれいであるかのように振舞わなければならない」と。このような警告は、今すぐに理想社会を実現させようとする理想主義者、とりわけ社会主義者に対して向けられたものであったと考えられる。
ケインズがこの原稿を発表したのは、世界が大恐慌に陥り、自由主義的な資本主義経済に対する懐疑の念が向けられていた時期であった。アメリカ発の恐慌が世界を不況に陥れるなかで、1917年の革命によって社会主義国家へと移行したソビエト連邦は五カ年計画によって順調な経済成長を成し遂げていた。もはや資本主義経済は限界を迎えているのではないか、アメリカやヨーロッパ諸国も社会主義体制へ移行するべき時期が来ているのではないか、という旨の発言をおこなう知識人が日に日に増加していた。このような状況のなかで、ケインズは反革命の立場を貫き、革命/計画経済などによらずとも、世界経済はこの不況を抜け出すことが可能であるという信念を持っていた。極端な理想主義、およびその理想を拙速に実現させようとする人々に対し、ケインズは常に懐疑的であった。
「そう遠くない将来に、人類全体にとって、生活の物質的な環境にかつてなかった大きな変化が起こると期待している。しかしもちろん、この変化は徐々に起こるのであって、突然起こるのではない。実のところ、変化はもう始まっている」。
変化は突然起こるのではなく、徐々に起こり、確実に社会を変えていくものなのだ。さらにこれに付け加えてケインズは次のようにも言う。「目的地に到着するまでの間、目的意識をもった活動に加えて、生活を楽しむ術を奨励し、実験することで、少しずつ準備を進めてもいいだろう」。
余暇において我々が無駄な金銭欲に溺れず、日々の営みそれ自体を目的とするような方法、我々自身を社会全体を豊かにするような術を、我々は今の時点から少しずつ洗練させておくべきである、と。おそらくそれは広い意味での「文化」の洗練を意味するものであろう。ここでいう「文化」には、芸術・学問・議論・社会活動などが含まれる。それ自体を目的としてなされ、我々の精神性を豊かにしてくれるような生活様式・行動様式のあり方。これを磨くことによって、我々はたとえ労働-消費サイクルから解放されてもノイローゼに陥らずに済むであろう。言い換えれば、文化の洗練は成熟社会において人々の精神が病むことを予防する薬のような役割を果たすのだ。
逆にいえば、そのような文化/生活様式の洗練がなされたような社会においてこそ、われわれは初めて金銭欲を捨て去り、労働-消費の無限サイクルから抜け出し、真に「労働からの解放」を成し遂げることができるのかもしれない。文化の洗練がなされない社会においては、人々はいつまでも金銭愛・物質欲にとり憑かれ、労働-消費の無限サイクル(資本の自己拡張運動)から抜け出すことができないであろうから。 そうであるとすれば、金銭愛・物質欲に依存せず、徳・善を実現しうるような「文化」を洗練させることこそが、豊かな成熟社会、真に「経済問題」から解放された社会を作り出すための条件となるのかもしれない。