草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

〈労働〉の未来-マルクスの未来社会論から考える1

前回まで、ケインズの「我が孫たちの経済的可能性」というエッセイを手がかりに、(物質的に)「豊かな社会」において我々は「労働から解放」されうるのか?という問題を考えてきました。そもそも「なぜこれほど豊かな社会で我々はこれほど必死に働いているのか?」が我々の問いの出発点でした。今回から数回にわたって、マルクスの『ドイツ・イデオロギー』や『経済学批判要綱』を中心に改めてこの問いを考えなおしてみたいと思います。

 

結論を先取りして言ってしまえば、マルクスは生産性が十分に向上した未来社会では、人類は「生命維持のための労働」から解放され、「労働そのものを目的とするような労働=活動」に取り組むようになると考えていました。前回までに述べたケインズのワークシェア的な発想とは対照的ですね。そのことの意味を考えてみましょう。

マルクス未来社会についてまとまった論考を残しているわけではありませんが、様々な記述の断片からその構想を推し測ることができます。

 

 例えば、『ドイツ・イデオロギー』(1845-46)における以下の有名な一節。

「私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚とりを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に批評をすることが可能になり、しかも、けっして猟師、漁夫、牧夫、批評家にならなくてよい。」(MEW S.33)

 

ドイツ・イデオロギー 新編輯版 (岩波文庫)

ドイツ・イデオロギー 新編輯版 (岩波文庫)

 

ここでは、来るべき共産主義社会において「労働」が「したいと思うままにしたいことをする」ような「遊戯としての労働」がイメージされています。各人の職業も固定化されず、労働/活動や労働/遊戯が区別されない社会。さすがに若きマルクスが記したこの記述がいささかユートピア的なものであることは認めならないのですが、労働/活動や労働/遊戯の区別が廃棄されるというイメージは、洗練を重ねつつマルクス思想のなかで晩年に至るまで残り続けます。

 

また同じく『ドイツ・イデオロギー』には以下のような記述があります。

「この段階にいたってはじめて、自己活動(Selbstbetätigung)が物質的生活と一体化するのであり、それゆえにこそ個人が総体としての個人に発展し、いっさいの自生性をかなぐり捨てるのである。それによって労働が自己活動に変容し、これまでの限定された交流が個人としての個人たちの交流へと変容するのである」(MEW Bd.3 S.68)

 

資本主義を揚棄/超克した理想社会において、諸個人は「総体としての個人」に発展し、「これまでの限定された交流」が「個人としての個人たちの交流」(全方向的な交通)へと変容するマルクスはいいます。それゆえ、ここでいう「自己活動」は個々人が孤立して行う営みではなく、諸個人の「交通と協働」によって営まれるものです。マルクスによれば「労働による自らの生の生産」は必然的に「社会的関係gesellshaftliches Verhältnis」という性格を有しており、それは「多くの諸個人の協働Zusammenwirken」として現れるものです。

 

このような初期マルクスの主張は、中期マルクスの『経済学批判要綱』(1857-58)においていっそう洗練され、以下のように語り直されます。

「しかし資本は、富の一般的形態を飽くことなく追い求める努力として、その自然必然性の限界以上に労働を駆り立て、このようにして豊かな個性〔reiche Individualität〕を伸ばすための物質的諸要素を創りだすのである。豊かな個性は、その消費においても生産においてもひとしく全面的であり、したがってまたそれが行う労働が、もはや労働としては現れることはなく、活動〔Thätigkeit〕それ自体の十全な展開として現れるのであって――しかもこの活動においては、自然的欲求に代わって一つの歴史的に生み出された欲求が登場しているから、直接的形態をとった自然的必然性は消滅しているのである。」(MEGAⅡ/1.1, S.241)

  

未来社会では「労働がもはや労働として現れることはなく、活動それ自体の十全な展開として現れる」のであり、そこでは「自然的必然性」は消滅すると述べられています。しかもそのような未来社会を創り出すのは、「資本が富の一般形態を飽くことなく追い求めた結果」です。資本が「その自然必然性の限界以上に労働を駆り立てる」結果として、「豊かな個性を伸ばすための物質的諸要素」が創り出される。この「豊かな個性」が「活動の十全な展開」として現れることになるというのです。

 

 

経済学批判要綱(草案)〈第1分冊〉 (1958年)

経済学批判要綱(草案)〈第1分冊〉 (1958年)

 

このような主張の背景には、『経済学批判要綱』において展開される、有名な「資本の偉大な文明化作用」テーゼがあります。「資本の偉大な文明化作用」テーゼとは、資本が最高度の発展を遂げ、生産性が向上した結果として、逆説的に資本主義経済が揚棄(アウフヘーベン)される条件が整えられる、という主張です。

「つまり資本に基づく生産は、いっぽうでは普遍的な産業活動を創りだすとともに、他方では、自然および人間の諸属性の全般的な開発利用の一体系、全般的な有用性の一体系を創りだすのである。…ここから、資本の偉大な文明化作用が生じる」

「資本は、この生産諸力の発展そのものが資本それ自体のなかに一つの制限を見いだすときにはじめて、そうしたものであることをやめる」(MEGAⅡ/1.1, S.241)

 

マルクスが構想した未来社会というと、労働者が資本家に対して暴力革命を起こすことで資本主義を廃棄し、強制的に社会主義へ移行するというイメージを持たれる方がほとんどでしょうが(そして、もちろんそのイメージは大きくは間違っていないのですが)、この「資本の文明化作用」テーゼが示すのは、 資本主義の発展が限界まで進むことが逆に資本主義の終焉を準備するのだ、ということです。このことは内田義彦氏が「資本主義のポジとネガ」として『資本論の世界』のなかで説明されています。

 

資本論の世界 (岩波新書)

資本論の世界 (岩波新書)

 

このテーゼを現代社会に引きつけて考えているとどうなるでしょうか。かつてなく生産性が向上する一方で、先進諸国の経済成長率が軒並み停滞しつつある近年、同時にフリー・シェア・ノマド・社会的企業など「非-資本主義的領域」への可能性を秘めた現象が同時多発的に生じつつあることをこれまでの記事で書いてきました。これらの現象は、「資本の偉大な文明化作用」が資本主義という経済-社会システムを揚棄(超克)する条件を準備しつつあることを示唆しているのではないか*1

  

そして、もし「資本の偉大な文明化作用」によって(無限の自己増殖を前提とする)資本主義的な社会-経済が揚棄されつつあるのならば、それに伴って「労働」のあり方もまた、資本主義的な「労働」から超-資本主義的な〈労働〉へと変化していく可能性が考えられなければなりません。すなわち、「労働」と「活動」、「労働」と「遊戯」が一体化する「真に豊かな社会」の実現。マルクスが夢想したそのような「未来社会」は現代において一部、先取り的に実現されつつあるのではないか?

このように思考を進めるとき、未来社会における〈労働=活動〉のあり方について思考し続けたマルクスのテキストは、非常に生き生きとしたアクチュアルな思想として蘇ってくるのです。

 

新版 『経済学批判要綱』の研究

新版 『経済学批判要綱』の研究

 

まだまだ語るべきことはあるのですが、この記事はひとまず、晩年の『ゴータ綱領批判』(1871)における以下の有名な記述を引用して締めくくっておくことにしましょう。

共産主義社会のより高次の段階において、すなわち諸個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神的労働と肉体的労働との対立もなくなったのち、また、労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、生活にとってまっさきに必要なこととなったのち、また、諸個人の全面的な発展につれて彼らの生産能力をも成長し、協同組合的な富がそのすべての泉から溢れるばかりに湧き出るようになったのち――その時はじめて、ブルジョア的権利の狭い地平は完全に踏み越えられ、そして社会はその旗にこう書くことができる。「各人からはその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」

 

マルクス・コレクション VI フランスの内乱・ゴータ網領批判・時局論 (上)

マルクス・コレクション VI フランスの内乱・ゴータ網領批判・時局論 (上)

 

ここでもやはり、労働が生計を立てるための手段であるだけでなく、労働それ自体が目的とされるような状況が訪れたのちに初めて、「能力に応じて働き、必要に応じて取る」という理想社会が実現されることが述べられています。つまり、マルクスは初期から後期・晩年に至るまで一貫して、労働が単なる生命維持の手段を超えて、人間の能力を全面開花させるような「自由な活動」となる社会を理想としていたのです。ただし、その思想に一切の変化がない訳ではもちろんなく、より洗練された・理論化された未来社会の構想へとマルクスの思想が練り上げられていることが分かります。

 

上の引用ではそれ以外にも、①諸個人が分業に奴隷的に従属することがなくなる、②精神的労働と肉体的労働との対立がなくなる、③諸個人の生産能力が全面開花する、④協同組合的な富が溢れんばかりに湧き出るようになる、などの条件が列挙されています。このうち、①②③は『ドイツ・イデオロギー』当時のマルクス(初期マルクス)から引き継がれたアイデアであり、④は中期以降に付け加えられたアイデアであると考えられます。これらの条件はいずれも、詳しく見ていくと興味深いものなのですが、その考察はまた今後の記事で触れることにしましょう。

 

古典研究 マルクス未来社会論

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マルクスのアソシエーション論: 未来社会は資本主義のなかに見えている

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マルクスの株式会社論と未来社会

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*1:念のために書いておきますが、僕自身は、研究者の端くれとしてマルクスの思想を研究してはいますが、いわゆる「マルクス主義者」ではないので、「共産主義革命」を夢見る者ではありません。これもよく言われることですが、マルクスの思想」と「マルクス主義」を区別することは重要です。なにしろマルクス自身が「私はマルクス主義者ではない」と述べているくらいです。

ですから僕は、現在の資本主義経済がほどなく行き詰まり、共産主義経済へ移行する、などと単純に考えているわけではありません。他方で、これまでのような右肩上がりの経済成長を前提とした資本主義社会が今後も持続していく(していくべきだ)とも考えていません。絶えざる経済成長/資本の自己増殖を前提とする資本主義社会とは異なる原理をもつ経済-社会のあり方を構想しておく必要があるのではないか、という程度に(漠然と)考えています。