草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

「労働からの解放」は可能か? -ケインズ「孫の世代の経済的可能性」から考える

 このブログを始めた頃の記事で「なぜこんなに豊かな社会で我々はこんなにも働いているのか?」という問いを出したことがあります。その問いについて考えるための重要なヒントを与えてくれる短いエッセイがあります。ケインズが1930年に発表した「孫の世代の経済的可能性」というエッセイです。今回はそのエッセイについて紹介してみます。

 

 ケインズはこのエッセイのなかでなんと、およそ100年後にはほとんどの経済的問題は解決されてしまっているだろうと述べています。世界恐慌(1929年)が起こった直後に、このようなエッセイを発表していること自体驚くべきことであり、ケインズの先見性をよく示していると言えますが、このエッセイのなかでケインズが行なっている予言は現代社会にとってさまざまな示唆に富んでいます。

 

ケインズ 説得論集

ケインズ 説得論集

 

 ケインズは当時の世界経済が悲観論に陥っていると述べたうえで、人類史の経済的・技術的な発展の歩みをおおまかに振り返り、紀元前2000年から18世紀初めまでは、世界の文明の生活水準はさほど大きく変わってなかったであろうと述べます。たしかに様々な社会変動はあったが、これらの時代において本当に重要な技術はすでに有史の黎明期においてほとんど揃っていた(言語、火、農業、牧畜、宗教、政治など)、と。

 

 近代が幕を明けたのは、16世紀に資本の蓄積が始まってからであり、その後、科学技術が飛躍的な勢いで進歩し、19世紀以降には蒸気機関、電気、化学工業、大量生産方式など、列挙に暇がないほどの発明がなされました。その結果、世界の人口が大幅に増加し、生産力が飛躍的に向上します。このような技術進歩と資本蓄積の勢いは、一時的な不況によって停滞することがあるとしても、長期的な目でみれば伸び続けることは間違いがなく、100年後の2030年には先進国の生活水準は1930年時点のものより4倍から8倍の間になっているであろうとケインズは予測しています

 ちなみに1930年時点のアメリカ合衆国GDPは7692.2億ドルで、2012年時点のそれは135,950.8億ドルですから、この82年間だけでもGDPは単純計算で17倍以上になっています。その意味では、アメリカ経済の成長はケインズの予測をはるかに上回っていたと言えるでしょう。

 

 このような前提に立ったうえで、ケインズは次のように述べます。「結論として、大きな戦争がなく、人口の極端な増加がなければ、百年以内に経済的な問題が解決するか、少なくとも近く解決するとみられるようになるといえる。これは将来を見通すなら、経済的な問題が人類にとって永遠の問題ではないことを意味する。」

 

 現実にはこの後、第二次世界大戦が勃発し、戦後世界において人口は爆発的に増加したので、今のところケインズの予測が外れたことを批判するのは的外れなのかもしれません。しかし経済成長の進歩度合いについて言うならば、それらの障害にもかかわらず(あるいはそれらの要素が結果的に長期的な経済成長につながった側面もあるのかもしれないが)、ケインズの予測は見事に当たったと言うべきでしょう。

 ここで見過ごすことができないのは、この引用文に続く以下のような記述です。

 

「経済的な問題、すなわちいかにして生存(日々の生活)を確保するかという問題は、これまでの人類にとっての最重要問題であった。だが、もし百年後にこの問題が解決されたとすれば、人類は誕生来の目的を奪われることになるだろう。」

 

 「 これは良いことなのだろうか。人生の真の価値を信じているのであれば、少なくともこの見通しから良い結果が生まれる可能性がある。しかしごく普通の庶民は、数え切れないほどの世代にわたって教えこまれてきた習慣と本能を、わずか数十年の間に放棄することを求められることになりうるのだから、この再調整はとんでもなく困難だと思える。」

 

  つまりこれは、生存/生活のために働くという目的を奪われてしまった人間が、果たしてその後にどのような生き方をすれば良いのか、という大きな問いになる。生存のための労働から解放された人間は果たして幸福なのだろうか?あるいは、どのように生きれば未来の彼らは幸福に生きられるのだろうか?

 

 この点に関してケインズは少々悲観的な見通しをしています。すなわち、労働から解放された人びとの一部は、一種の「ノイローゼ」に陥ってしまうのではないだろうか、というのです。その例としてケインズは、先進国での裕福な階級の夫人が「豊かさのために伝統的な仕事や職を奪われ」「経済的な必要という刺激がなくなって、料理や掃除、縫い物には興味がもてないし、かといってもっと興味がもてるものを見つけ出すこともできない」でいる状態を挙げています。

 

 経済的問題から解放されたとして、一部の豊かな才能をもつ人びとはそのようなノイローゼに陥ることなく、人生を謳歌することができるのかもしれない。彼らは「好きなこと」に没頭することで人生を豊かにすごすことができるだろう。しかしそのような恵まれた才能や趣味をもつことができるのはごく一部の人びとに限られるのではないか。圧倒的に多くの人びとは、「何もすることがない」状態に堪えきれず、精神を病んでしまうのではないか。ケインズはこのような心配をしています。

 

 「したがって、天地創造以来はじめて、人類はまともな問題、永遠の問題に直面することになる。切迫した経済的な必要から自由になった状態をいかに使い、科学と複利の力で今後に獲得できるはずの余暇をいかに使って、賢明に、快適に、裕福に暮らしていくべきなのかという問題である。」

 

  つまり、ここで問題になっているのは「余暇と退屈」の問題です。資本蓄積と科学技術の発展によって増加した余暇をいかに豊かにすごすことが可能か。「退屈」状態に陥ることなく、精神を病むこともなく、さらには社会を豊かで快適な状態に保ったままで、いかに余暇を自由にすごすのか。こういった生き方をめぐる問いが、経済問題が解決した成熟社会においてわれわれが抱えるべき問題なのだと言えるでしょう。これは國分功一郎さんが『暇と退屈の倫理学』で論じた問題でもあります。 

 

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

 

 ではケインズはこの「余暇と退屈」の問題にたいしてどのような処方箋を与えたのか。次回の記事ではそのことを見ていきたいと思います。