前回からの続き。 バタイユは、近代の資本主義社会において「過剰なもの」を「蕩尽」するための方法が失われ、「過剰なもの」のさらなる増殖を目指した無限運動が自己目的化していることを批判的に捉えていたのでした。 しかし現代社会においても限られたか…
ようやく博士論文を書き終わったので久しぶりにブログを更新してみます。もはや前回の更新から1年3ヶ月も経っていますね!どうでもいいことですが、このブログ、どうやら大学の試験時期やレポート時期だけアクセスが急増する(といっても大した数ではない…
前回の記事では、古代社会・未開社会における「過剰」な富が「祝祭」の際に「蕩尽」される(ポトラッチなど)ことを書きました。このような「蕩尽」のあり方は、中世に入ると少しずつその様相が変わってきます。これも前回記事で書いたように、古代社会・未…
前回は、バタイユの構想した「普遍経済学」では「過剰性」がキーワードである、ということを見ました。これは、人間の欲望が根源的に「過剰性」に取り憑かれている、というバタイユの洞察からくるものです。人間の欲望はとどまることを知らず、放っておくと…
ジョルジュ・バタイユが通常の経済学の領域にとどまらない、人類学などの知見を取り入れた「普遍経済学」を構想したことはよく知られています。普遍経済学という言葉に表れているように、バタイユのいう経済学は、いわゆる「経済」の枠を超えて、より広い社…
成熟社会では「労働」と「遊び」(あるいは「労働」と「活動」)が一体化する、というマルクス的ユートピアを前回記事で紹介しました。國分功一郎さんの提案する「豊かな浪費」とは異なる成熟社会の過ごし方が、そこには示されています。 やや単純化して言え…
前回の記事では、國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』を手がかりとして、成熟社会における「暇と退屈」の問題について考えてみました。國分さんの最終的な提案は、「暇と退屈」を豊かに「浪費」(「消費」ではなく)するための「訓練」を積むこと、それに…
一昨年に出版された國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』は紀伊国屋じんぶん大賞2011を受賞するなど、大きな話題を呼びました。この本が人文書では異例のヒットとなったのは、この本のテーマがすぐれてアクチュアルなものであり、成熟社会に生きるわれわれ…
前回記事の結論部で、これからの時代は「非-資本主義的領域」を拡張していくことが重要ではないか、ということを書きました。では「非-資本主義的領域」とはどのようなものなのか。それを今回の記事では考えてみます。 ここで参考になるのが、近年の柄谷行…
マルクスは「資本」の本質を「価値の無限増殖運動」に見定め、これをG-W-G´という定式で表しました。資本主義はつねに「さらなる経済成長」を求める運動であり、その欲望はとどまるところを知りません。その社会の経済水準がどのようなレベルに達していよ…
このブログの出発点は、「なぜこれほど豊かな社会で我々はこんなにも働いているのか?」という問いでした。 かつてマルクスは、資本主義的生産様式が発展し、生産力が十分に向上したならば、必要労働時間は減少し、人類は少しずつ労働から解放されるであろう…
『大転換』で有名なカール・ポランニーもまた、オーウェンの協同組合運動を高く評価していた知識人の一人です。ポランニーは、オーウェニズムをチャーチィズムと並んで、「市場から人間を守る」対抗運動のひとつであると捉えました。 [新訳]大転換作者: カー…
前回からの続き。 前回記事の最後でふれた柴山桂太さんの『POSSE』vol.18でのインタビューについて。柴山さんは次のように述べられています。 「さらに、雇用社会で本当にいいのかという問題もあります。雇用社会の反対は、自営業を中心としたセルフエンプロ…
前回の記事では「自己雇用self-employment」について書きました。 「起業」のイメージが、一昔前のようにITベンチャーで一発当てて大金持ちに、というホリエモンスタイルではなく、気心の知れた仲間たちとマイペースでやっていく、というシェアハウススタイ…
『絶望の国の幸福な若者たち』で一躍有名になった社会学者の古市憲寿さんの最新刊『僕たちの前途』は「起業」がテーマです。「起業」というと一般的には、ITベンチャーで一発当てて大成功、みたいなイメージが強いかもしれません(スティーブ・ジョブズやビ…
前回の記事で、マルクスが協同組合を理想のアソシエーションと捉えていたということを書きました。 近年、田畑稔『マルクスとアソシエーション』や大谷禎之助『マルクスのアソシエーション論』などの研究によって、マルクスにとっての理想社会はアソシエーシ…
以前の記事でも引用しましたが、マルクスは『ゴータ綱領批判』のなかで次のように書いています。 「共産主義社会のより高次の段階において、すなわち諸個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神的労働と肉体的労働との対立もなくなった…
前回はマルクスの両義的な労働観について書きました。 未来社会において、労働はそれ自体を目的とするような遊戯的営み/活動となる一方で、あくまで厳しい緊張を必要とするような勤勉的営みでもあり続ける、というのがマルクスの労働未来論でした。 今回は…
前回からの続き。 前回の記事では、マルクスが来るべき未来社会においては、「労働Arebeit」が生命維持のために行われる強制的で苦痛な営みではなく、行為それ自体を目的として行われるような「活動Tätigkeit」になると考えていたことを書きました。この発想…
前回まで、ケインズの「我が孫たちの経済的可能性」というエッセイを手がかりに、(物質的に)「豊かな社会」において我々は「労働から解放」されうるのか?という問題を考えてきました。そもそも「なぜこれほど豊かな社会で我々はこれほど必死に働いている…
前回からの続き。 ここまでに論じてきた問題は、つまるところ、労働が人間にとってどこまで本質的な営みであるのか、人間が労働から完全に解放されることは果たしてありうるのか、という大きな問いに行き着きます。この問いに簡単に答えることはもちろんでき…
前回記事の最後で、ケインズが「孫たちの世代の経済的可能性」で示している処方箋(皆が1日に3時間ずつ働く)は、ベーシック・インカムがいいのかワークシェアリングがいいのか問題に行き着く、という話をしました。その続き。 ケインズ 説得論集作者: J・…
前回からの続き。 前回に書いたようなケインズの予言は、現代社会において半分当たったとも言えるし、半分外れだったとも言えるでしょう。おそらくケインズが予想していた通りに、あるいはそれ以上に、ケインズの時代から経済は目ざましい成長を遂げ、物質的…
このブログを始めた頃の記事で「なぜこんなに豊かな社会で我々はこんなにも働いているのか?」という問いを出したことがあります。その問いについて考えるための重要なヒントを与えてくれる短いエッセイがあります。ケインズが1930年に発表した「孫の世代の…
前回は社会的企業について書きました。起業の目的が「お金儲け」から「社会貢献」に変化してきているのではないか、という話でした。これと同じような変化が個人の働く意識レベルでも起きているのではないか、というのが今回の話です。 最近の若者は働くこと…
前回はオープンソース運動を例にとって、ネット上でどのような利他的行為が発現するのか、ということについて書きました。利他的行為といっても、それは「純粋な利他的行為」ではなく、利他的であると同時に「承認への欲望」や「コミュニティへの欲望」に支…
前回は生産的消費者について書いたので、今回はそれに関連してオープンソースのことについて書いてみます。 オープンソースとは字義通りの意味でいえばソースコードを公開すること。すなわち、プログラムの開発者がそのプログラムのソースコードを無償で公開…
もし仮に「脱成長社会」が実現したとすれば、そのとき「労働」はどのようなかたちを取ることになるのでしょうか?今回はこの問題を考えてみます。この問いに答えるためのひとつのヒントは、アルビン・トフラーが提唱した「生産的消費者prosumer(プロシュー…
前回まで「フリー」や「シェア」によって進められる脱所有・脱消費・脱貨幣の流れは、新しい経済-社会の可能性を開くと同時に、既存の経済市場の規模を縮小させてしまうかもしれない、という話をしてきました。これは言い換えれば、資本主義経済の規模が縮…
前回まで、「フリー」や「シェア」の流行が脱所有・脱消費・脱貨幣に繋がっていくのではないか、というやや希望観測的な記事を書いてきました。こういった主張は、近年のネット論壇では珍しいものでは決してなく、むしろありふれていると言ってもいいくらい…