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草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

現代に残された「蕩尽」の可能性とは-バタイユ『有用性の限界 呪われた部分』から考える5

前回からの続き。 バタイユは、近代の資本主義社会において「過剰なもの」を「蕩尽」するための方法が失われ、「過剰なもの」のさらなる増殖を目指した無限運動が自己目的化していることを批判的に捉えていたのでした。 しかし現代社会においても限られたか…

「蕩尽」なき「消費」-バタイユ『有用性の限界 呪われた部分』から考える4

ようやく博士論文を書き終わったので久しぶりにブログを更新してみます。もはや前回の更新から1年3ヶ月も経っていますね!どうでもいいことですが、このブログ、どうやら大学の試験時期やレポート時期だけアクセスが急増する(といっても大した数ではない…

「蕩尽」から「生産」へ-バタイユ『有用性の限界 呪われた部分』から考える3

前回の記事では、古代社会・未開社会における「過剰」な富が「祝祭」の際に「蕩尽」される(ポトラッチなど)ことを書きました。このような「蕩尽」のあり方は、中世に入ると少しずつその様相が変わってきます。これも前回記事で書いたように、古代社会・未…

「祝祭」と「蕩尽」――バタイユ『有用性の限界 呪われた部分』から考える2

前回は、バタイユの構想した「普遍経済学」では「過剰性」がキーワードである、ということを見ました。これは、人間の欲望が根源的に「過剰性」に取り憑かれている、というバタイユの洞察からくるものです。人間の欲望はとどまることを知らず、放っておくと…

「普遍経済学」あるいは「過剰性の経済学」の試み――バタイユ『有用性の限界 呪われた部分』から考える1

ジョルジュ・バタイユが通常の経済学の領域にとどまらない、人類学などの知見を取り入れた「普遍経済学」を構想したことはよく知られています。普遍経済学という言葉に表れているように、バタイユのいう経済学は、いわゆる「経済」の枠を超えて、より広い社…

成熟社会における「暇と退屈」の問題――國分功一郎『暇と退屈の倫理学』から考える Part3

成熟社会では「労働」と「遊び」(あるいは「労働」と「活動」)が一体化する、というマルクス的ユートピアを前回記事で紹介しました。國分功一郎さんの提案する「豊かな浪費」とは異なる成熟社会の過ごし方が、そこには示されています。 やや単純化して言え…

成熟社会における「暇と退屈」の問題――國分功一郎『暇と退屈の倫理学』から考える Part2

前回の記事では、國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』を手がかりとして、成熟社会における「暇と退屈」の問題について考えてみました。國分さんの最終的な提案は、「暇と退屈」を豊かに「浪費」(「消費」ではなく)するための「訓練」を積むこと、それに…

成熟社会における「暇と退屈」の問題――國分功一郎『暇と退屈の倫理学』から考える Part1

一昨年に出版された國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』は紀伊国屋じんぶん大賞2011を受賞するなど、大きな話題を呼びました。この本が人文書では異例のヒットとなったのは、この本のテーマがすぐれてアクチュアルなものであり、成熟社会に生きるわれわれ…

非-資本主義的領域とはどのような場所か――柄谷行人『世界史の構造』から考える

前回記事の結論部で、これからの時代は「非-資本主義的領域」を拡張していくことが重要ではないか、ということを書きました。では「非-資本主義的領域」とはどのようなものなのか。それを今回の記事では考えてみます。 ここで参考になるのが、近年の柄谷行…

「経済成長」のイデオロギーを超えて-資本主義のオルタナティブを構想する 再論

マルクスは「資本」の本質を「価値の無限増殖運動」に見定め、これをG-W-G´という定式で表しました。資本主義はつねに「さらなる経済成長」を求める運動であり、その欲望はとどまるところを知りません。その社会の経済水準がどのようなレベルに達していよ…

なぜこんなに豊かな社会で我々はこんなにも働いているのか? 再論

このブログの出発点は、「なぜこれほど豊かな社会で我々はこんなにも働いているのか?」という問いでした。 かつてマルクスは、資本主義的生産様式が発展し、生産力が十分に向上したならば、必要労働時間は減少し、人類は少しずつ労働から解放されるであろう…

ポランニーの「倫理的社会主義」――オーウェンとマルクスの協同組合主義を引き継ぐもの

『大転換』で有名なカール・ポランニーもまた、オーウェンの協同組合運動を高く評価していた知識人の一人です。ポランニーは、オーウェニズムをチャーチィズムと並んで、「市場から人間を守る」対抗運動のひとつであると捉えました。 [新訳]大転換作者: カー…

「自営業の復活」は可能か?――「雇用社会」の常識を疑う

前回からの続き。 前回記事の最後でふれた柴山桂太さんの『POSSE』vol.18でのインタビューについて。柴山さんは次のように述べられています。 「さらに、雇用社会で本当にいいのかという問題もあります。雇用社会の反対は、自営業を中心としたセルフエンプロ…

「〈起業〉という幻想」を超えて

前回の記事では「自己雇用self-employment」について書きました。 「起業」のイメージが、一昔前のようにITベンチャーで一発当てて大金持ちに、というホリエモンスタイルではなく、気心の知れた仲間たちとマイペースでやっていく、というシェアハウススタイ…

「自己雇用」(self-employment)という働き方

『絶望の国の幸福な若者たち』で一躍有名になった社会学者の古市憲寿さんの最新刊『僕たちの前途』は「起業」がテーマです。「起業」というと一般的には、ITベンチャーで一発当てて大成功、みたいなイメージが強いかもしれません(スティーブ・ジョブズやビ…

資本主義から共産主義への移行過程としての株式企業-マルクスの未来社会論から考える5

前回の記事で、マルクスが協同組合を理想のアソシエーションと捉えていたということを書きました。 近年、田畑稔『マルクスとアソシエーション』や大谷禎之助『マルクスのアソシエーション論』などの研究によって、マルクスにとっての理想社会はアソシエーシ…

協同組合というアソシエーション-マルクスの未来社会論から考える4

以前の記事でも引用しましたが、マルクスは『ゴータ綱領批判』のなかで次のように書いています。 「共産主義社会のより高次の段階において、すなわち諸個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神的労働と肉体的労働との対立もなくなった…

「時間の経済学」あるいは「自由の王国」-マルクスの未来社会論から考える3

前回はマルクスの両義的な労働観について書きました。 未来社会において、労働はそれ自体を目的とするような遊戯的営み/活動となる一方で、あくまで厳しい緊張を必要とするような勤勉的営みでもあり続ける、というのがマルクスの労働未来論でした。 今回は…

マルクスの両義的労働観-マルクスの未来社会論から考える2

前回からの続き。 前回の記事では、マルクスが来るべき未来社会においては、「労働Arebeit」が生命維持のために行われる強制的で苦痛な営みではなく、行為それ自体を目的として行われるような「活動Tätigkeit」になると考えていたことを書きました。この発想…

〈労働〉の未来-マルクスの未来社会論から考える1

前回まで、ケインズの「我が孫たちの経済的可能性」というエッセイを手がかりに、(物質的に)「豊かな社会」において我々は「労働から解放」されうるのか?という問題を考えてきました。そもそも「なぜこれほど豊かな社会で我々はこれほど必死に働いている…

「余暇と退屈」の問題-ケインズ「孫の世代の経済的可能性」から考える 4

前回からの続き。 ここまでに論じてきた問題は、つまるところ、労働が人間にとってどこまで本質的な営みであるのか、人間が労働から完全に解放されることは果たしてありうるのか、という大きな問いに行き着きます。この問いに簡単に答えることはもちろんでき…

ベーシック・インカムかワーク・シェアリングか?-ケインズ「孫たちの世代の経済的可能性」から考える3

前回記事の最後で、ケインズが「孫たちの世代の経済的可能性」で示している処方箋(皆が1日に3時間ずつ働く)は、ベーシック・インカムがいいのかワークシェアリングがいいのか問題に行き着く、という話をしました。その続き。 ケインズ 説得論集作者: J・…

「労働からの解放」は可能か?-ケインズ「孫の世代の経済的可能性」から考える 2

前回からの続き。 前回に書いたようなケインズの予言は、現代社会において半分当たったとも言えるし、半分外れだったとも言えるでしょう。おそらくケインズが予想していた通りに、あるいはそれ以上に、ケインズの時代から経済は目ざましい成長を遂げ、物質的…

「労働からの解放」は可能か? -ケインズ「孫の世代の経済的可能性」から考える

このブログを始めた頃の記事で「なぜこんなに豊かな社会で我々はこんなにも働いているのか?」という問いを出したことがあります。その問いについて考えるための重要なヒントを与えてくれる短いエッセイがあります。ケインズが1930年に発表した「孫の世代の…

なぜ「仕事で自己実現」は人気がなくなったのか?-マズローの5段階欲求説から考える

前回は社会的企業について書きました。起業の目的が「お金儲け」から「社会貢献」に変化してきているのではないか、という話でした。これと同じような変化が個人の働く意識レベルでも起きているのではないか、というのが今回の話です。 最近の若者は働くこと…

なぜ社会的企業が注目されるのか? -「社会貢献」への欲望

前回はオープンソース運動を例にとって、ネット上でどのような利他的行為が発現するのか、ということについて書きました。利他的行為といっても、それは「純粋な利他的行為」ではなく、利他的であると同時に「承認への欲望」や「コミュニティへの欲望」に支…

利他的な振る舞いはどこからやってくるのか?-オープンソース運動から考える

前回は生産的消費者について書いたので、今回はそれに関連してオープンソースのことについて書いてみます。 オープンソースとは字義通りの意味でいえばソースコードを公開すること。すなわち、プログラムの開発者がそのプログラムのソースコードを無償で公開…

「生産的消費者」とは誰か?-アルビン・トフラー『富の未来』より

もし仮に「脱成長社会」が実現したとすれば、そのとき「労働」はどのようなかたちを取ることになるのでしょうか?今回はこの問題を考えてみます。この問いに答えるためのひとつのヒントは、アルビン・トフラーが提唱した「生産的消費者prosumer(プロシュー…

「脱成長」は可能なのか?-「成長の限界」と幸福度調査

前回まで「フリー」や「シェア」によって進められる脱所有・脱消費・脱貨幣の流れは、新しい経済-社会の可能性を開くと同時に、既存の経済市場の規模を縮小させてしまうかもしれない、という話をしてきました。これは言い換えれば、資本主義経済の規模が縮…

「脱お金」はわれわれの経済を「豊か」にするか?

前回まで、「フリー」や「シェア」の流行が脱所有・脱消費・脱貨幣に繋がっていくのではないか、というやや希望観測的な記事を書いてきました。こういった主張は、近年のネット論壇では珍しいものでは決してなく、むしろありふれていると言ってもいいくらい…

なにが「シェア」への欲望をもたらしているのか?-脱所有・脱消費・脱貨幣にむけて

前回は「フリー経済」について書いたので、今回は「シェア経済」について書きます。「シェア」はネット業界に限らず、ここ数年の流行キーワードのひとつです。シェアハウス、カーシェアリング、ワークシェアリングなど。facebookにも「イイネ!」機能ととも…

「フリー経済」は資本主義社会をどのように変えるか?

以前の記事で、雇用が収縮する低成長社会においては、非-資本主義的領域を拡張していくことが重要になるのではないか、と書きました。では具体的には、非-資本主義的領域とはどのような領域なのでしょうか? 現代社会における非資本主義的領域を考える際に…

ハイパー・メリトクラシー社会における「宿命的なもの」

前回記事の最後に「ポスト工業社会において必然的に生じてくる格差(労働の二極化)は、努力によってはどうしようも変えようのない「宿命的なもの」に思えてきてしまうことすらある」と書きました。このことを、若者の雇用問題に詳しい教育社会学者の本田由…

ポスト工業社会における「労働」のゆくえ

(だんだん思想史的な記事を書くのに飽きてきたので、突然ですが現代の労働について書きます。) ポスト工業社会では労働が二極化しやすい、という話をあえて戯画化したイメージで語ってみると次のようになるでしょう。 工業社会ではベルトコンベアの前での…

マルクスの唯物論はヘーゲルの労働観をどのように批判したのか -マルクス『経済学・哲学草稿』より

前回までヘーゲルの労働観について書きました。 ここでぐるっと一周してマルクスの労働観に戻ってくるのですが、若き日のマルクスはヘーゲルの思想を批判することによって自身の労働観を形成していきました。『経済学・哲学草稿』のなかでマルクスは次のよう…

「労働」と「承認」の弁証法 -ヘーゲル『精神現象学』より

前回はヘーゲルの『法の哲学』における、Bildung(陶冶=教養)の営みとして労働を位置づけるというヘーゲルの労働観について書きました。今回はヘーゲルの不朽の名著『精神現象学』における、「承認」獲得のための営みとしての労働について書いてみます。 …

「陶冶」=「教養」としての労働-ヘーゲル『法の哲学』より

今回はヘーゲルの労働観についてです。 ヘーゲルはアダム・スミスの『国富論』から影響を受けながら、市民社会の本質を「欲求の体系」に見出し、独自の市民社会論を構想しました。ヘーゲルにとっての市民社会とは「市場経済」とほぼ同じ意味です。『法の哲学…

「労働力商品の無理」ー宇野弘蔵『恐慌論』とポランニー『大転換』より

久々にブログ更新。 前回の記事では、フーコー講義録『安全・領土・人口』を参照しながら、人間の自然性および生物性を認識することによってこそ、近代の資本主義運動が開始され、それを円滑に機能させるための生権力統治が成立したことを書きました。この…

「自由放任(レッセ・フェール)」と市場・社会・人口の自然モデル ーフーコー『安全・領土・人口』より part3

前回からの続きです。 前回は、17世紀以降に登場した統治=ポリスが初期資本主義(商工業)と同時並行的に発展し、それ自体が市場システムの一部をなすようになったこと、またその統治=ポリスの発展が労働力商品の集合としての「人口」を統治対象とするもの…

ポリス・統治・生権力 -フーコー『安全・領土・人口』より part2

前回からの続き。 スミス-フーコーによれば、17世紀以降に出現した「統治としてのポリス」は、発展しつつある商工業(資本の増殖運動)をスムーズに機能させるための諸機能であり、具体的には都市の公衆衛生を高め、犯罪率を減らし、都市間の流通経路を確保…

内政としての「ポリス」とは何か? -アダム・スミス『法学講義』とフーコー『安全・領土・人口』より

アダム・スミスは『法学講義』のなかで、ポリスpolis(内政・生活行政)の役割について論じている。スミスによれば、ポリスはもともとギリシア語の「ポリテイア」から出たものであり、それが本来意味していたのは「国内統治の政策(the policey of civil gov…

「人間」の時代の到来とその終焉の予言 -フーコー『言葉と物』より

前回の記事で書いた、アダム・スミスの労働価値説について、フーコーが『言葉と物』のなかで興味深い指摘をしている。よく知られているように、フーコーは『言葉と物』のなかでルネッサンス以降の西洋の知の枠組み(エピステーメー)の変遷を描いてみせた。…

分業、交換性向、労働価値説 -アダム・スミス『国富論』より

今回は、経済学の父、アダム・スミスの労働観についてです。 アダム・スミス(1723-1790) アダム・スミスの『国富論』が、ピン工場の分業の例から始められていることは有名です。一人の職人がピンを最初から最後まで製造するよりも、複数の労働者で作業を分…

労働による「文明化」への道 -ヒュームの積極的労働観

今回取り上げるのはヒュームの労働思想です。ヒュームは18世紀イギリスで活躍した思想家であり、アダム・スミスに並ぶスコットランド啓蒙の代表的思想家とされています。ここではヒューム研究の第一人者である坂本達哉さんの『ヒュームの文明社会』および『…

イギリス史概観(16世紀~17世紀)

ここで山川出版社の『詳説 世界史研究』や小室直樹『日本人のための憲法原論』を参照しつつ、16世紀から17世紀にかけてのイギリス史を確認しておきたい。イギリスの思想家を中心とする労働思想の発達を確認するうえで、イギリスの歴史を押さえておくことがそ…

労働と貨幣 -ジョン・ロック『統治二論』より part2

前回からの続き。 完訳 統治二論 (岩波文庫)作者: ジョン・ロック,加藤節出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2010/11/17メディア: 文庫購入: 10人 クリック: 94回この商品を含むブログ (75件) を見る ロックは労働によって所有権を基礎づける労働所有権論を提…

労働と所有権 -ジョン・ロック『統治二論』より

16~17世紀のイングランドを中心に、勤労規範が形成され、貧民・浮浪者が「労働者」へと仕立てあげられていく過程をみてきました。このような時代背景を背に、労働という行為を積極的に評価する思想が登場してきます。そのひとりが、『統治二論』において自…

労働を通じた「教育」と「矯正」 -フーコー『狂気の歴史』より

前々回の記事で、16世紀のイングランドにおいて救貧対策が開始されたことについて書きました。復習しておくと、ヘンリ8世の時代(位1509-1547年)に、貧民を病気等のために働けない者と怠惰ゆえに働かない者に分類し、前者には物乞いの許可をくだし、後者に…

「労働倫理」の誕生 -ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』より

前回の続き。資本の本源的蓄積の結果、16世紀イングランドにて都市に増加した貧民・浮浪者への対策として、彼らを労働能力がある者とない者とに分け、後者には最低限の生活保障を与え、前者には強制的に労働を義務づける施策が行われました。ここに「働かざ…

救貧対策の誕生 -マルクス『資本論』から資本主義の本質を考える。part 6

前回までの記事で、マルクスの「本源的蓄積」(原始的蓄積)の議論を用いて、労働力という特殊な商品が国家の論理によって暴力的な過程を経て産みだされてきたことを見てきました。これが典型的に起こった16世紀イングランドの「囲い込み運動」の結果、土地…