草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

「自己雇用」(self-employment)という働き方

 『絶望の国の幸福な若者たち』で一躍有名になった社会学者の古市憲寿さんの最新刊『僕たちの前途』は「起業」がテーマです。「起業」というと一般的には、ITベンチャーで一発当てて大成功、みたいなイメージが強いかもしれません(スティーブ・ジョブズビル・ゲイツ、マイク・ザッカーバーグ、あるいはホリエモンのような)。でもこの本で扱われている「起業」は、そういうITベンチャー的な「起業」のイメージとは随分違っています。古市さん自身が経営者の一員である株式会社ゼント、東京ガールズコレクションを主催するTGC、俳優でありながら自ら会社を立ち上げ映画を撮ったり映像製作を請け負うなどの活動も行っている小橋賢児など、少し変わったタイプの「起業家」たちが紹介されています。

 

 

僕たちの前途

僕たちの前途

 

 例えば、古市さん自身が経営者の一員である株式会社ゼントは、友人三人のみで構成される会社で、「上場はしない、社員は三人から増やさない、社員全員が同じマンションの別の部屋に住む、お互いがそれぞれの家の鍵を持ち合っている、誰かが死んだ時点で会社は解散する」というルールのもとに経営がされているそうです。社長の松島隆太氏は、「会社」よりも「ファミリー」という表現を好むそう。

 ホリエモン藤田晋のようにヒルズ族と呼ばれる華やかなIT起業家とは異なり、松島氏が選んだのは「友だちとわいわい楽しんで生きること」だった。「従業員を増やして会社を大きくすることには興味がないし、上場を目指そうともしないし、世間から注目を浴びたいとも思わない」。クライアントも自分たちが納得できる相手しか選ばない。そういった新しい「起業」や「働き方」を実践しているのがゼントという会社、だそうです。

 このようなゼントのスタンスは、経済成長を第一優先にしない「起業」や「働き方」のあり方を志向していると言えないでしょうか。もちろんゼントに属するメンバーは経済成長を否定したり、利益を重視しないなどと考えているわけではないでしょう。ゼントは順調に利益をあげているようあるし、古市さんも「お金に縛られないためにお金は必要」という松島社長の言葉を紹介しています。

 

 また前回記事の最後でも紹介しましたが、2013年2月7日にNHKクローズアップ現代のなかで放送された「働くみんなが“経営者”  ~雇用難の社会を変えられるか~」という特集では、「自分たちで出資して、自分たちで仕事を見つけて経営していく」「協同労働」のあり方が取材されていました。これはまさに前回の記事で述べた、マルクスの協同組合の理想に近い働き方であると言えます。

 もう一度述べておくと、マルクスが理想とした協同組合とは、経営者と労働者の区別が取り払われ、その構成員全員がその組合の経営方針や働き方などについての平等な発言権をもつ組織のあり方でした。このような「協同労働」では、構成員全員が組織の経営・運営に関わるために、個々人が無理矢理に働かされるのではなく、自主的に働く意義を見出しやすい、という利点があるようです。マイナス面としては、組織の経営・運営に関わる事柄をすべて自分たちで決めなければならない、方針に関して意見が割れた際にそれを調整していく必要がある、などが挙げられるでしょう。

 

 これも前回記事の最後で触れたように、このような協同組合(的働き方)はワーカーズ・コレクティブという名前で呼ばれることもあります。こちらのサイトによれば、「ワーカーズ・コレクティブとは、雇う-雇われるという関係ではなく、働く者同士が共同で出資して、それぞれが事業主として対等に働く労働者協同組合」のことです。ここでもポイントになっているのは「雇われない働き方」ということ。一般に社会に出て働くというと、企業に雇用されてサラリーマンとして働くことばかりをイメージしがちですが、「働く」かたちは本来必ずしも「雇用」に縛られないはず。自らで自らを雇う――英語でいうとself-employment(自己雇用)――というかたちがあっても良いのではないか。self-employmentというとなんだかカッコいいですが、もっと平凡な日本語でいえば「自営業」ということですね。

 

 ヨーロッパでは1970-80年代にかけてSelf-employment Renaissance(自営業ルネッサンス)と呼ばれるものが起こり、自営業〔自己雇用〕が新たな働き口を生み出したとされています。自営業ルネッサンスについての研究記事を読むと、自営業で働く人のほうが企業に雇用されて働く人よりも働くことへの満足度は高いとのこと。しかし古市さんも『僕たちの前途』のなかで指摘しているように、欧米諸国の動きと対照的に日本では起業の割合はここ数十年でも高まっていないどころか、むしろ減少傾向にあるそうです。

〔参考〕 

The renaissance of self-employment(pdf)

The Return of Self-Employment: A Cross-National Study of Self-Employment and Social Inequality(pdf)

THE PARTIAL RENAISSANCE OF SELF-EMPLOYMENT (pdf)

 

 また、R25で記事になっていた「脱・株式会社?「合同会社」急増中」を読むと、2006年の会社法改正によって設けられた新しい会社形態として、出資者が社員として経営に関与する「合同会社が急増しているとのこと。記事内のインタビューによれば、

合同会社は株式会社よりも組織運営に関する自由度が高く、柔軟な経営ができるメリットがあります。例えば、出資比率に応じて会社の利益が配当される株式会社に対し、合同会社は出資比率に関係なく能力に応じて利益の配分を調節できます。また、株主総会などの“監視機関”の設置義務がないため、スムーズな意思決定が可能です」

「社員(出資者)同士で何でも自由に決められるのですが、重要事項については過半数の同意が原則。そのため、意見が対立すると収拾がつかなくなるおそれも。また、利益配分のルールもきちんと定めておかないと、後々モメることが考えられます。そのため合同会社を設立する際には、パートナー選びが非常に重要となるでしょう」

とのことで、メリット・デメリットはあるものの、ここでも「雇う-雇われる」の関係でなく「自分たちで自分たちを雇う」働き方が少しずつ増える傾向にあるようです。

 

 ここで挙げた例はどれも僕がたまたま目にした本やネット記事を簡単にまとめたもので、その実態がどこまで「新しい働き方=協同組合的働き方」の可能性を示すものなのか、より詳しい調査が必要です。個人的にも最近忙しくてあまりこのブログを書く余裕もないのですが、暇を見つけて少しずつこれら「自己雇用」についての文献を読んでいければと思っています。このブログを読まれた方で「自己雇用」(雇われない働き方)に関して何か有益な情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、教えていただけると幸いです。

 

 2007年の総務省統計局「就業構造基本調査」によれば、日本では就業者6598万人のうち、雇用者(企業等に雇われて働いている人)の割合が約87%(5727万人)で、自営業者と家族従事者(自営業の家族を手伝っている人)の割合があわせて13%(856万人)で、圧倒的多数の人が「雇用者」として働き、「自営業者」の割合はどんどん減っています。しかし、『国勢調査』によれば1950年の段階では、自営業者と家族従事者をあわせた割合は就業者の60.5%(!)を占めていたらしい*1

 

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 なぜこれほどまでに自営業(雇われない働き方)の割合が減ってしまったのか。協同組合やワーカーズ・コレクティブ、あるいは「ガツガツしない家族的起業」や合同会社、はたまた社会的起業やノマドなどの、近年の「新しい働き方」に注目しながら、資本主義的な雇用-被雇用関係を超えた「自己雇用」(self-employment)の可能性を今後も探っていきたいと考えています。なんだかまとまりのない記事になってしまいましたが、今回はこのあたりで。

 

 

*1:古市憲寿『僕たちの前途』第6章「日本人はこうやって働いてきた」参照

資本主義から共産主義への移行過程としての株式企業-マルクスの未来社会論から考える5

前回の記事で、マルクスが協同組合を理想のアソシエーションと捉えていたということを書きました。

近年、田畑稔『マルクスとアソシエーション』や大谷禎之助『マルクスのアソシエーション論』などの研究によって、マルクスにとっての理想社会はアソシエーションを基礎として構成される社会であったことが明らかにされています。

マルクスとアソシエーション―マルクス再読の試み

マルクスとアソシエーション―マルクス再読の試み

マルクスのアソシエーション論: 未来社会は資本主義のなかに見えている

マルクスのアソシエーション論: 未来社会は資本主義のなかに見えている

 

マルクスが批判される際に、しばしば「戦後のアメリカとソ連の対決でソ連は敗北した。それによってマルクスの考えが間違っていたことが証明された」という風に言われます。しかしそれはあまりにも浅薄な批判です。

以前にも書いたことですが、マルクス自身の思想といわゆるマルクス主義(あるいは共産主義や社会主義)とは分けて考える必要があります。マルクスが理想とした社会は、決してソ連のような計画主義的な中央集権国家ではありませんでした。そうではなく、「アソシエーション社会」こそがマルクスの理想とした社会のあり方でした。その理想はマルクスが複数の著述の中で残した記述に表れています。

 

「階級と階級対立とをともなう旧ブルジョア社会にかわって、ひとりひとりの自由な発展が万人の自由な発展の条件となるようなひとつのアソシエーション社会が出現する。」(『共産党宣言』〔1848〕)

マルクス・エンゲルス 共産党宣言 (岩波文庫)

マルクス・エンゲルス 共産党宣言 (岩波文庫)

「本当の共同体においてこそ個人はアソシエーションにおいて、そしてアソシエーションを通じて、〔共同体に属すると〕同時に自由を獲得するのである。」(『ドイツ・イデオロギー』)

 

では「アソシエーション」とは何か?一般的には、特定の目的の元に自発的に結成された集団・組織・コミュニティのことをいいます。例えば、NPOや民間企業などを思い浮かべれば分かりやすいでしょう。あるいは趣味を同じくするサークルのようなものもそこに含まれるでしょう。もともとassociateとは「結びつける」という意味をもつ動詞ですが、associationを日本語に訳す場合には「結社」と訳されることもあります。近年ではとくにトクヴィルの再評価を通じて、アメリカにおける「結社」の伝統を見直そうという動きもあります。

アメリカのデモクラシー (第1巻上) (岩波文庫)

アメリカのデモクラシー (第1巻上) (岩波文庫)

 

マルクスの思想はトクヴィルの思想とはかなり違いますが、しかし「アソシエーション」の重視においては考えを同じくする部分があったのだと考えてよいでしょう。繰り返しになりますが、アソシエーションとは共通の目的の元に自発的に結成される集団のことであり、それは上からの命令で作られる集団とは大きく性質を異にします。詳細は省きますが、トクヴィルアメリカのデモクラシーが円滑に機能するうえで、市民レベルからのローカルな政治参加である「結社」の伝統が重要な役割を果たしていることを、自身のアメリカ視察の経験をもとに主張したのでした。

考察対象や立脚する思想は異なりますが、これと同様の思想がマルクスの内にもありました。上からの権力によって命令される国家政治ではなく、下からの市民(民衆)によって為される自律的な統治(自治)こそが理想的な政治/社会のあり方である、と。

 

そしてアソシエーションのうちでも、協同組合(Genossenschaft)こそが理想的アソシエーションの形態であるとマルクスは考えていました。

 

 「われわれは協同組合運動が、階級敵対に基礎をおく現在の社会を一変させる諸力のひとつであることを認める。この運動の大きなメリットは、窮乏を生み出している現在の、資本への労働の従属という専制的システムを、自由で平等な生産者のアソシエーションという、共和的で福祉をもたらすシステム(the republican and beneficent system of the association of free and equal producers)と置き換えることができるということを、実地に証明する点にある。」(「暫定一般評議会代議員への指示。種々の問題」〔1867〕)

 

「もし協同組合的生産が偽物や罠にとどまるべきでないとすれば、もしそれが資本主義的システムにとってかわるべきものとすれば、もしアソシエイトした協同組合的諸組織(die Gesammtheit der Genossenschaften)が一つの計画にもとづいて全国の生産を調整し、こうしてそれを自己の制御のもとにおき、資本主義的生産の宿命である不断の無政府状態と周期的痙攣とを終わらせるべきものとすれば、――諸君、それこそ共産主義、「ありうる」共産主義でなくてなんであろうか。」(「フランスにおける内乱」〔1871〕)

 

上の引用では、「協同組合運動」が階級対立社会を変革させ、資本主義という専制的システムを「自由で平等な生産者のアソシエーション」という新しい社会システムに置き換えるのだ、ということが言われています。下の引用では、「アソシエイトした協同組合的諸組織」が「一つの計画にもとづいて全国の生産を調整」するならば(この表記がソ連の計画経済を連想させるところではありますが)、それが資本主義システムを終わらせ、「あるうべき共産主義社会」をもたらすのだ、ということが言われています。

 

これらの記述からしても、マルクスが「協同組合」を理想的な共産主義社会を成立させるための必要不可欠な構成要素として見ていたことは間違いありません。前回の記事でも書いたように、協同組合というアソシエーションでは、資本家(経営者)-労働者(従業員)という関係が撤廃され、すべての構成員が対等な立場で労働するとともに、その協同組合をどのように運営していくかについて対等に話し合い、運営に参加する権利と義務をもつのだとされます。組織のトップが上意下達的に命令を下し従業員がそれに従う、というやり方ではなく、従業員全員が経営に参加するとともに労働に参加する、というやり方で、協同組合は運営されるのです。

 

さらに興味深いのは、マルクスが『資本論』第三巻のなかで、協同組合工場を「積極的なアソシエーション」と位置づける一方で、資本主義的な株式企業を「消極的なアソシエーション」として位置づけているということです。

 

「資本主義的株式企業も、協同組合工場と同様に、資本主義的生産様式からアソシエイトした生産様式への生産様式への過渡形態と見なしてよいのであって、ただ、前者では対立が消極的に、後者では積極的に廃棄されているのである。」(『資本論』第三巻)

 

マルクスはここで資本主義的株式企業を「協同組合工場と同様に、資本主義的生産様式からアソシエイトした生産様式への生産様式への過渡形態と見なして」います。ただし、株式企業のもとでは階級対立が消極的にしか揚棄されていない。これはどういうことか。

株式企業では所有と経営の分離がなされ、資本家=経営者という図式が崩れています。代わりにその企業の株式は複数の株主によって所有されている。経営者は株主から経営を一時的に依頼されている存在にすぎない。それゆえ、株式企業のもとでは資本家と労働者の対立が以前に比べれば薄められている。そういう意味で、階級対立が消極的に揚棄されているのです。

 

ただし、その対立が積極的に(完全に)揚棄されるためには、それが協同組合工場にまで至る必要がある。先ほども書いたように、協同組合工場のもとでは資本家(経営者)と労働者(従業員)という区別が完全に取り払われているために、さらにはその工場の株式が協同組合員じしんによって所有されているために、階級対立は完全に揚棄されることになるわけです。

もちろんこれはマルクスの描いた理想であって、現実にはそのように階級対立が完全に揚棄された協同組合が実現されることは、ほとんどなかったと言ってよいでしょう。これはあくまで一種のユートピアです。しかし、現実的に実現されうるかどうかは別として、ありうべき理想社会の姿を具体的な順序をもって描き出すことは、それ自体、良き社会を目指すために必ず必要とされることです。それはカントが「統制的理念」と呼んだものに近い。

 

以上のようなマルクスの理想をいちど我々が受け止めてみるとするならば、我々が現在生きている資本主義社会のうちにも既に、マルクスが理想とした「アソシエーション社会」=「共産主義社会」への萌芽は出現しているということになります。すなわち、我々の社会を牛耳るひとつのパワーである株式企業の群れがそれです。株式企業は資本主義経済の中心的プレーヤーであるけれども、同時に資本主義経済が別の経済システムへ移行することを予期させるものでもある。株式企業が別のかたちのアソシエーションへと変化したときにその移行が開始される、というのがマルクスの予言でした。

 

そしてこのマルクスの予言は、現在あながち馬鹿にもできないように思えます。

例えば2013年2月7日にNHKクローズアップ現代のなかで放送された「働くみんなが“経営者”  ~雇用難の社会を変えられるか~」という特集。この放送では、「自分たちで出資して、自分たちで仕事を見つけて経営していく」「協同労働」のあり方が取材されていました。このような働き方はまだまだメジャーではないけれども、近年「新しい働き方」として注目を集めつつあるようです。また同様の趣旨をもつ働き方・コミュニティとして「ワーカーズ・コレクティブ」という言葉も使われるようになってきました。R25で記事になっていた「脱・株式会社?「合同会社」急増中」という記事も気になります。 

これらの「新しい働き方」「新しいコミュニティ」のうちに、マルクスが理想とした協同組合工場のひとつの実現可能性を見ることができるのではないか。この点について次回の記事でもう少し詳しく見ていきたいと思います。

 

協同組合というアソシエーション-マルクスの未来社会論から考える4

 以前の記事でも引用しましたが、マルクスは『ゴータ綱領批判』のなかで次のように書いています。

 

共産主義社会のより高次の段階において、すなわち諸個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神的労働と肉体的労働との対立もなくなったのち、また、労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、生活にとってまっさきに必要なこととなったのち、また、諸個人の全面的な発展につれて彼らの生産能力をも成長し、協同組合的な富がそのすべての泉から溢れるばかりに湧き出るようになったのち――その時はじめて、ブルジョア的権利の狭い地平は完全に踏み越えられ、そして社会はその旗にこう書くことができる。「各人からはその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」

 

マルクス・コレクション VI フランスの内乱・ゴータ網領批判・時局論 (上)

マルクス・コレクション VI フランスの内乱・ゴータ網領批判・時局論 (上)

 

  以前の記事では、この引用文のうち「労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、生活にとってまっさきに必要なこととなったのち」という箇所に注目しました。今回は「協同組合的な富がそのすべての泉から溢れるばかりに湧き出るようになったのち」という箇所に注目してみたいと思います。

 

 ここで「協同組合的な富」(genossenschaftlichen Reichtums)とはどういう意味でしょうか。「協同組合」というと、一般的に僕たちの生活に馴染みが深いのは「生協」、すなわち生活協同組合でしょう。生協とは「一般市民が集まって生活レベルの向上を目的に各種事業を行う協同組合」のことで、その事業(活動)内容は「食品や日用品、衣類など商品全般の共同仕入れから小売までの生活物品の共同購買活動(店舗販売、宅配)が中心であるが、それ以外にも共済事業、医療・介護サービス、住宅の分譲、冠婚葬祭まで非常に多岐にわたる」とされています(wikiより)。

 

 協同組合の起源は19世紀にロバート・オーウェンが、働く者の生活安定を考えて、工場内に購買部などを設けた「理想工場」をスコットランドのニュー・ラナークに設立したことに遡る、とされます。オーウェンは養父から引き継いだニュー・ラナーク工場で、労働条件の改善を行い、託児所では子供を保育し、共済店で生活用品を原価供給、病人には治療を施しました。 工場は経営的にも大成功し、ニュー・ラナークの名声はヨーロッパ中に伝わり、王族、政治家、社会改良主義者らが多く訪れました。彼らはその清潔で衛生的な工業環境、満足して活力にあふれた労働者、全員が力を合わせて作り上げた成功した「理想工場」の姿を目にして驚嘆したと言われています。

 

 その後、マンチェスター郊外のロッチデールにおいて、生活用品を高く買わされていた労働者達が、資金を集めて、商品を安く購買できる自分達の企業を作ったのがロッチデール先駆者協同組合であり、これが世界で最初の生活協同組合となりました。ロッチデール協同組合では、「組合員の社会的・知的向上」「一人一票による民主的な運営」「取引高に応じた剰余金の分配」などが掲げられ、少しずつではあれ、協同組合運動の理念が実践に移されていきました。

 

 

  当時、オーウェンの活動や思想に影響を受けて多くの協同組合が組織されましたが、そのほとんどは失敗に終わりました。オーウェンもニュー・ラナーク工場の成功後、アメリカに渡り、私財を投じて共産主義的な生活と労働の共同体(ニューハーモニー村)の実現を目指しましたが、これは失敗に終わりました。エンゲルスは、オーウェンを、サン=シモンやフーリエと共に空想的社会主義者として批判しつつ、その実践活動には高い評価を与えています。

 

 さて、マルクスの「協同組合的な富」についてです。先にも書いたように、協同組合では「一人一票による民主的な運営」が原則とされます。それゆえ「協同組合工場」では、資本家-労働者、経営者-従業員という非対称的な関係性は廃棄されているのが理想です。ひとりひとりの労働者が平等に発言権をもち、民主的な話し合いによって、その工場の運営方針や労働環境、生産計画が決定されるべきとされます。また、ひとりひとりの労働者が生産物・利潤の分け前に平等に預かる権利をもちます。

 当然、こうして民主的に決定された事項については、これを実践・運営していく義務が構成員に課されることになります。つまり協同組合工場のもとでは、どのように働くかを自分たち自身で決定し(政治的行為)、そして実際にその取り決めのもとに働き、その成果を平等に分配する(経済的行為)という実践が行われるのです。

 

 実は、前々回の記事で紹介した「〈活動〉に転化した〈労働〉」や「アソシエイトした労働」とは、まさにこのような政治的=経済的行為を指していたのではないか。協同組合というアソシエーションの元で行われる〈労働〉とは、手段としてのみならずそれ自体を目的としてなされるような、また固定的な分業を廃棄した自由な〈活動〉として現れてくるものとして、マルクスの頭のなかで構想されていたのだと考えられます。言うまでもなく、これは一種のユートピア思想ですが、マルクスが理想とした社会-経済の未来や労働の未来を知るうえでは協同組合というアソシエーションを念頭に置くことが重要だと思われます。(マルクスのアソシエーション構想については、近々別の記事で書くつもりです。)

 

 最後に『フランスの内乱』における有名な一節も引いておきましょう。

「もし協同組合的生産が偽物や罠にとどまるべきでないとすれば、もしそれが資本主義的システムにとってかわるべきものとすれば、もしアソシエイトした協同組合的諸組織(die Gesammtheit der Genossenschaften)が一つの計画にもとづいて全国の生産を調整し、こうしてそれを自己の制御のもとにおき、資本主義的生産の宿命である不断の無政府状態と周期的痙攣とを終わらせるべきものとすれば、諸君、それこそ共産主義、「ありうる」共産主義でなくてなんであろうか。」(MEGAⅠ/22, S.142-143;  MEW17, S.342-343)

 

 

「時間の経済学」あるいは「自由の王国」-マルクスの未来社会論から考える3

 前回はマルクスの両義的な労働観について書きました。

 未来社会において、労働はそれ自体を目的とするような遊戯的営み/活動となる一方で、あくまで厳しい緊張を必要とするような勤勉的営みでもあり続ける、というのがマルクスの労働未来論でした。

 今回は、マルクスの主著『資本論』における未来社会論を見てみましょう。

 

資本論 (8) (国民文庫 (25))

資本論 (8) (国民文庫 (25))

 

 マルクスは『資本論』のなかではほとんど未来社会について語っていません。

 しかし僅かに記された重要な構想として、『資本論』第3巻第48章における「必然性の王国と自由の王国」に関する記述があります。

 

 「自由はこの領域のなかではただ次のことにありうるだけである。すなわち、社会的になった人間、アソシエイトした生産者たちが、盲目的な力によって制御されるように自分たちと自然との物質代謝によって制御されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し、自分たちの共同的制御のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した諸条件のもとで物質代謝を行うということである。この王国〔領域〕のかなたで,自己目的として認められる人間の力の発展が,真の自由の王国〔領域〕が始まるのであるが,しかし,それはただかの必然性の王国〔領域〕をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである。労働日の短縮が土台である。

(『資本論』第3部第1稿。MEGAⅡ/42,S,838;MEW,Bd25,S.828.)

 

  ここでは最後に「労働日の短縮が土台である」と書かれていることからも、一見、労働がネガティブに捉えられているかのような印象を抱いてしまいそうになりますが、よく読めばそうではないことが分かるはずです。「社会的になった人間、アソシエイトした生産者たち」der vergesellschaftete Mensch, die associirten Producenten)が、「自然の物質代謝」を自らの手で管理し統御できるようになったとき、自己目的的な「人間の力の発展」が、すなわち「自由の王国」が始まる。

 つまり、未来社会において生産力が十分に向上し、人間が自然の物質代謝をコントロールし、人間に適合したかたちで利用できるようになったときに、前回記事で述べた「自己目的的な〈労働=活動〉」が開始される、ということです。

 

 ですから、この記述の最後にある「労働日の短縮が土台である」は、生命維持の必要性〔必然性〕necessityのために行われる「労働」のほうであって、理想的な「活動」としての「労働」ではありません。このように、マルクスの「労働Arbeit」概念は、それが肯定的な意味合い(活動/遊戯としての労働)で用いられているのか、否定的な意味合い(生命維持のための労働)で用いられているのか、を判断しながら読み解く必要があります。繰り返しになりますが、マルクスの労働観は常に両義的なものなのです。

 

 『資本論』の「利潤率の傾向的低下の法則」などの箇所で述べられているように、マルクスは、資本/産業の生産力が向上するに伴って人間の必要労働時間は減少し、人間の自由時間が増加すると考えていました。人間が自然の物質代謝をコントロールできるようになり、労働日を短縮させることによって、自己目的的な「人間の力の発展」、「自由の王国」が開始されるという記述も、その思考に沿ったものです。またこれは、『経済学批判要綱』における「資本の偉大な文明化作用」テーゼにも沿ったものだと言えるでしょう。

 

 確認しておけば、「資本の偉大な文明化作用」テーゼとは、資本が最高度の発展段階にまで進めば、産業の生産力向上に伴って、必要労働時間が短縮し、自由時間が増加する、これによって逆説的に資本主義が揚棄される条件が準備されるのだ、というものでした。いわば、資本主義がその発展によって自らの墓掘り人となるのです。とはいえ、『資本論』段階でのマルクスは、資本主義の発展が一直線にその限界=揚棄に繋がるとは考えていないのですが、この点についてはまた別の機会に書きます。

 

 この点に関連して、マルクスは『経済学批判要綱』のなかで「時間の経済学」という独創的かつ魅力的なアイデアを提出しています。

「個々の人間の場合のように、社会が全面的に発展し・享受し・活動するかどうかは時間の節約(Zeitersparung)にかかっている。時間の経済=節約(Okonomie der Zeit)、すべての経済は結局、そこに帰着する

 すべての経済は最終的に「時間の経済=節約」に帰着する。これは非常に重要な主張です。なぜなら、このブログで考え続けてきた問題、「なぜこれほど豊かな社会で我々はこんなに必死で働いているのか?」という問いを解くための大きな手がかりを提供してくれると考えられるからです。

 

  昨年、邦訳されたモイシュ・ポストンの『時間・労働・支配』でも、この「時間の経済学」が重要な論点として取り上げられています。ポストンの独創性は、「時間の経済」と「時間の支配」を概念的に区別したうえで、資本主義システムが「労働の支配」だけでなく「時間の支配」に基づくものであることを明らかにした点にあります。それゆえ、資本主義システムを超克しようとするならば、「労働の支配」とともに「時間の支配」をも超克せねばならない。資本主義は近代独自の「抽象的時間」に基づいた複雑な社会システムを形成しているのだとポストンは言います。

 

時間・労働・支配: マルクス理論の新地平

時間・労働・支配: マルクス理論の新地平

 

 また、『経済学批判要項』の記述を丹念に研究した内田弘も、「資本の偉大な文明化作用」がもたらす「自由時間の増大論」こそが『要項』を貫くテーマであり、初期マルクスと後期マルクスをつなぐ役割を果たしていると述べています。

 

新版 『経済学批判要綱』の研究

新版 『経済学批判要綱』の研究

 

 ポストンの主張に従えば、もし資本主義を超克した(あるいは資本主義とは異なる)経済-社会のあり方を構想しようとするならば、資本主義的な「時間の支配」とは異なる「時間の経済」のあり方をも併せて構想しなければならないことになります。つまり、非-資本主義的領域を構想するためには、非-資本主義的な「労働」と「時間」についての思索が必要とされるのです。たとえ断片的にであれ、この点に言及していたマルクスの思想はやはり偉大なものです。

 

 では、非-資本主義的な「労働」と「時間」についてどのような構想が可能か。私見では、「資本の偉大な文明化作用」によってもたらされた「自由時間の増大」に対して、我々がどのようにその自由時間を活用するのか、という点が重要なポイントになるように思います。もし資本の生産力増大に伴って、我々の社会が少しずつ「労働から解放」される方向に向かっているのであれば、我々はそこで「労働から解放」された時間に何をするのか。資本主義的な消費/贅沢を謳歌するのか、好きなことをして遊ぶのか、特に何もせずダラダラと過ごすのか、積極的に政治活動に取り組むのか、芸術活動や学問教養などに勤しむのか、etc。

 

 お気づきのとおり、これは少し前まで書いていた、ケインズの「労働から解放されたとき、人類は幸福になれるのか?いかに生きるべきなのか?」という問いと通ずる問題です。あるいは、國分功一郎さんが『暇と退屈の倫理学』のなかで、「消費」と「浪費」の区別を用いて論じようとした問題でもあります。共産主義革命を夢見たマルクスもまた、この問題について独自の構想を展開していました。

 

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

 

 我々が問うていたのは「なぜこれほど豊かな社会で我々はこんなに必死で働いているのか?」という問題、つまり「なぜ我々は何時まで経っても労働から解放されないのか?」という問題であったのに、「労働から解放されたときに我々はどのように生きるべきか?」という問いを発することは、思考が逆転しまっているように感じられるかもしれません。しかし、おそらくそうではないのです。この二つの問いは、コインの裏表のような関係にあります。

 いわば、我々は「自由時間」(余暇、非ー労働時間)の有効な使い道を見つけられていないがゆえに、何時まで経っても「労働時間」(時間の支配)から解放されないのではないか。言いかえれば、我々が正しい「自由時間」の活用方法(時間の経済)を発見したときに、「労働時間」(時間の支配)から真に解放されることが可能になるのではないか。つまり、「労働からの解放」を実現するためには、迂遠なように見えて、「余暇の活用」について考察することが必要なのではないか。この点について、次回以降も引き続き考えていきたいと思います。

マルクスの両義的労働観-マルクスの未来社会論から考える2

 前回からの続き。

 前回の記事では、マルクス来るべき未来社会においては、「労働Arebeit」が生命維持のために行われる強制的で苦痛な営みではなく、行為それ自体を目的として行われるような「活動Tätigkeit」になると考えていたことを書きました。この発想は、初期マルクスの『経哲草稿』における労働疎外論や『ドイツ・イデオロギー』における分業廃止論から、中期マルクスの『経済学批判要綱』へと、さらには後期マルクスの『資本論』や晩年の『ゴータ綱領批判』へと、発展的に継承されています。

 

 このようなマルクスの労働未来論の根底には、マルクスの肯定的な労働観があります。マルクスは労働疎外論を唱えたことなどから、否定的な労働観を持っていたと評されることもありますが、おそらくそれは誤解です。マルクスは、労働とは本来「食うために働く」以上の豊かな意義をもった、人間にとって本質的な営みであると考えていました。若き日の『経済学・哲学草稿』の表現を借りれば、マルクスにとって、労働とは「人間と自然の物質代謝」であり、「人間の類的本質」を確認する営みであり、疎外状態を抜けだして「自己実現」するための営みであった。今日風にいえば、「他者からの承認」を獲得する契機もここに含めても良いかもしれません。

 

経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2)

経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2)


 実際にマルクスは『経済学批判要綱』のなかで、アダム・スミスの否定的な労働観を批判して次のように言います。アダム・スミスは「汝、額に汗して労働すべし!」というエホバがアダムに与えた呪詛(のろい)と同様に、「労働を呪いと考えている」(MEGAⅡ/1.1, S.499)。つまりスミスにとって労働は「骨折り損の仕事(toil and trouble)」なのであり、一種の犠牲的行為であると捉えられている。このような労働観は、労働を負の効用において捉える現在の主流派経済学においても引き継がれていると言ってよいでしょう。

 

国富論〈1〉 (岩波文庫)

国富論〈1〉 (岩波文庫)


 しかしマルクスによれば、「こうした障害の克服はそれ自体が自由の実証」であり、真の労働とは「自己実現、主体の対象化、それゆえに真実の自由」をもたらすような積極的・創造的活動である。アダム・スミス的な労働犠牲説からは、このような労働の肯定的側面が見失われてしまうであろう。ここにアダム・スミスの否定的労働観とは対照的な、マルクスの肯定的労働観がよく表れています。「労働の活動への転化」、およびそれを通した「豊かな個性の十全な発展」という構想も、このようなマルクスの肯定的労働観にもとづくものだと考えられます。

 しかし他方で、『経済学批判要綱』段階でのマルクスは、『ドイツ・イデオロギー』の段階におけるユートピア的労働観とはやや異なった記述を残してもいます。例えば「労働は、フーリエの望むように、遊びとはなりえない」と述べられている箇所です。フーリエは「空想的社会主義者」の代表的人物として知られる思想家ですが、彼は『産業的協同社会的新世界』(1829)という著作のなかで、社会の生産力向上にともない、労働が強制的で苦痛を帯びた営みから、労働それ自体を喜びとするような「魅力的な労働」に発展するというユートピア的な未来社会論を展開しました。

 

 

 このまとめだけを読むと、それがマルクスの労働未来論とまったく同じものであるように思われるでしょうが(そしてマルクスはおそらくフーリエの労働未来論から少なからず影響を受けているはずなのですが)、マルクスはこのようなフーリエの見通しが楽天的であるとしてこれを批判しました。

 

だが労働が魅力的な労働、個人の自己実現になるといっても、このことはなにも、フーリエが浮気なパリ娘のようなひどい素朴さで理解しているように、労働がたんなるおどけや、たんなる娯楽となるということを決して意味するものではない。真に自由な労働、たとえば作曲は、同時にまったく大変な真剣さ、はげしい努力なのである。」(MEGAⅡ/1.1, S.499)

 

  ここでマルクスは、理想社会においても労働がたんなる遊戯や娯楽的営みとなるのではないことを強調しています。マルクスによれば、理想的・創造的な労働は、喜びや自由さと同時に非常な努力や緊張を必要とする営みでもある。マルクスが労働を理想的・楽観的に捉えているだけでなく、同時にそれが厳しい努力や緊張を必要とする行為だと認識していることは、『資本論』第一巻・第五章「労働過程」の記述からも確認することができます*1 。そこではアダム・スミスの否定的労働観にも類似するような、労働苦の消極面・負の側面が強く押し出されており、マルクスには理想的・積極的な労働観と現実的・消極的な労働観の両面が存在していることが伺えます*2

 

資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)

資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)


 理想社会においてなお、自由な労働にある種の勤勉さや絶えざる努力を求めようとするマルクスの理想は、自由時間の活用についての記述にも表れています。マルクスにとって、自由時間は単なる余暇時間ではなく「高度な活動にとっての時間」でなければならない。その時間は「成長しつつある人間」にとっては「訓練」Diziplinであり、「成長した人間」にとっては実践・科学・運動〔体育〕excerciseである。これらの時間を通じて、諸個人はより発展した段階の主体=「社会的個体」へと進化することが期待されている。自由時間に対応するのは、芸術・科学などの教養Ausbildungであり、これが労働主体を陶冶Ausbildする

 

 これらの記述からは、マルクスがポスト資本主義における労働を楽天的に捉えるのではなく、むしろかなり規範的に捉えていたことが分かります。資本の歴史的使命の一つが「厳格な規律を通じて勤勉(Arbeitsamkeit)を一般的財産として普及させること」であるとしていることからも、マルクスが資本主義的な勤勉精神を蔑ろにしているのではなく、むしろ豊かな未来社会を実現するために必要な要素として見なしていることが分かります。

 こうして見ると、マルクスの労働観は、スミスに代表される古典派経済学の労働犠牲説・否定的労働観とは異なるものの、労働を規範的行為と捉え、それがより豊かな生産能力と享受能力を発展させると考える点では、プロテスタンティズム的な労働倫理と資本主義的な無限成長モデルを維持しているようにも思えます。

 

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

 

 従来のマルクス主義者はこの逆説にどれほど意識的であったか、怪しいところです。『経済学批判要綱』は多くのマルクス研究者によって好意的に評価されてきましたが、そこに資本主義的な労働観や成長モデルが引き継がれていることを指摘したものは、おそらくほとんどありません。とりわけこの逆説は、今日の新自由主義における「労働の自己実現」賛美と、余暇時間を自己成長のために当てよと命ずる自己啓発モデルを想起するときに、より深刻な問題として意識されてくると考えられます。

 

 もちろん、マルクスの労働未来論における構想が現代の新自由主義の自己実現論と通ずるところがあるからといって、マルクスの思想がまったく無効なものになるということではありません。むしろ、このことはマルクスの構想が現代経済にまで射程の及ぶ卓見であったことを証明するものであると言えるでしょう。ただし、従来のマルクス主義者がそうしてきたように、マルクスの資本文明化論や労働未来論を手放しで受け入れて、これを称賛するということはもはや我々にはできません。マルクス未来社会論がもつ意義とその危うさを同時に捉えつつ、その現代的有効性を問いなおす作業が私たちに求められているものだと言えるでしょう。

*1: 『資本論』の労働過程論では、労働が「まず第一に、人間と自然との間の一過程である」ことが確認されたうえで、それが自然の形態変化を引き起こすとともに、労働者の目的を実現するものであると述べられている。そのためには、労働者は自分の意志をその目的に従わせなければならず、「労働する諸器官の緊張のほかに、注意力として現れる合目的的な意志が労働の継続期間全体にわたって必要である。」「しかもそれは、労働がそれ自身の内容とその実行の仕方とによって労働者を魅することが少なければ少ないほど、したがって労働者が労働を彼自身の肉体的および精神的諸力の自由な営みとして享楽することが少なければ少ないほど、ますます必要になるのである。」

 これらの表現からは、マルクスが労働を否定的に捉えているわけではないものの、それを単純に喜びに満ちた行為と捉えているわけでもなく、「諸機関の緊張」や「合目的的な意志」を必要とする厳しさを持ったものと考えていることが理解されよう。労働にはときに苦痛が伴うこと、そしてその労働苦を克服することこそが、労働という主体的活動の特徴であることが強調されている。

*2:参照、津戸正広「<論説>自由な時間と労働 : マルクスの「1857-58年草稿」を中心にして『大阪府立大學經濟研究』 39(3), 71-85, 1994

〈労働〉の未来-マルクスの未来社会論から考える1

前回まで、ケインズの「我が孫たちの経済的可能性」というエッセイを手がかりに、(物質的に)「豊かな社会」において我々は「労働から解放」されうるのか?という問題を考えてきました。そもそも「なぜこれほど豊かな社会で我々はこれほど必死に働いているのか?」が我々の問いの出発点でした。今回から数回にわたって、マルクスの『ドイツ・イデオロギー』や『経済学批判要綱』を中心に改めてこの問いを考えなおしてみたいと思います。

 

結論を先取りして言ってしまえば、マルクスは生産性が十分に向上した未来社会では、人類は「生命維持のための労働」から解放され、「労働そのものを目的とするような労働=活動」に取り組むようになると考えていました。前回までに述べたケインズのワークシェア的な発想とは対照的ですね。そのことの意味を考えてみましょう。

マルクス未来社会についてまとまった論考を残しているわけではありませんが、様々な記述の断片からその構想を推し測ることができます。

 

 例えば、『ドイツ・イデオロギー』(1845-46)における以下の有名な一節。

「私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚とりを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に批評をすることが可能になり、しかも、けっして猟師、漁夫、牧夫、批評家にならなくてよい。」(MEW S.33)

 

ドイツ・イデオロギー 新編輯版 (岩波文庫)

ドイツ・イデオロギー 新編輯版 (岩波文庫)

 

ここでは、来るべき共産主義社会において「労働」が「したいと思うままにしたいことをする」ような「遊戯としての労働」がイメージされています。各人の職業も固定化されず、労働/活動や労働/遊戯が区別されない社会。さすがに若きマルクスが記したこの記述がいささかユートピア的なものであることは認めならないのですが、労働/活動や労働/遊戯の区別が廃棄されるというイメージは、洗練を重ねつつマルクス思想のなかで晩年に至るまで残り続けます。

 

また同じく『ドイツ・イデオロギー』には以下のような記述があります。

「この段階にいたってはじめて、自己活動(Selbstbetätigung)が物質的生活と一体化するのであり、それゆえにこそ個人が総体としての個人に発展し、いっさいの自生性をかなぐり捨てるのである。それによって労働が自己活動に変容し、これまでの限定された交流が個人としての個人たちの交流へと変容するのである」(MEW Bd.3 S.68)

 

資本主義を揚棄/超克した理想社会において、諸個人は「総体としての個人」に発展し、「これまでの限定された交流」が「個人としての個人たちの交流」(全方向的な交通)へと変容するマルクスはいいます。それゆえ、ここでいう「自己活動」は個々人が孤立して行う営みではなく、諸個人の「交通と協働」によって営まれるものです。マルクスによれば「労働による自らの生の生産」は必然的に「社会的関係gesellshaftliches Verhältnis」という性格を有しており、それは「多くの諸個人の協働Zusammenwirken」として現れるものです。

 

このような初期マルクスの主張は、中期マルクスの『経済学批判要綱』(1857-58)においていっそう洗練され、以下のように語り直されます。

「しかし資本は、富の一般的形態を飽くことなく追い求める努力として、その自然必然性の限界以上に労働を駆り立て、このようにして豊かな個性〔reiche Individualität〕を伸ばすための物質的諸要素を創りだすのである。豊かな個性は、その消費においても生産においてもひとしく全面的であり、したがってまたそれが行う労働が、もはや労働としては現れることはなく、活動〔Thätigkeit〕それ自体の十全な展開として現れるのであって――しかもこの活動においては、自然的欲求に代わって一つの歴史的に生み出された欲求が登場しているから、直接的形態をとった自然的必然性は消滅しているのである。」(MEGAⅡ/1.1, S.241)

  

未来社会では「労働がもはや労働として現れることはなく、活動それ自体の十全な展開として現れる」のであり、そこでは「自然的必然性」は消滅すると述べられています。しかもそのような未来社会を創り出すのは、「資本が富の一般形態を飽くことなく追い求めた結果」です。資本が「その自然必然性の限界以上に労働を駆り立てる」結果として、「豊かな個性を伸ばすための物質的諸要素」が創り出される。この「豊かな個性」が「活動の十全な展開」として現れることになるというのです。

 

 

経済学批判要綱(草案)〈第1分冊〉 (1958年)

経済学批判要綱(草案)〈第1分冊〉 (1958年)

 

このような主張の背景には、『経済学批判要綱』において展開される、有名な「資本の偉大な文明化作用」テーゼがあります。「資本の偉大な文明化作用」テーゼとは、資本が最高度の発展を遂げ、生産性が向上した結果として、逆説的に資本主義経済が揚棄(アウフヘーベン)される条件が整えられる、という主張です。

「つまり資本に基づく生産は、いっぽうでは普遍的な産業活動を創りだすとともに、他方では、自然および人間の諸属性の全般的な開発利用の一体系、全般的な有用性の一体系を創りだすのである。…ここから、資本の偉大な文明化作用が生じる」

「資本は、この生産諸力の発展そのものが資本それ自体のなかに一つの制限を見いだすときにはじめて、そうしたものであることをやめる」(MEGAⅡ/1.1, S.241)

 

マルクスが構想した未来社会というと、労働者が資本家に対して暴力革命を起こすことで資本主義を廃棄し、強制的に社会主義へ移行するというイメージを持たれる方がほとんどでしょうが(そして、もちろんそのイメージは大きくは間違っていないのですが)、この「資本の文明化作用」テーゼが示すのは、 資本主義の発展が限界まで進むことが逆に資本主義の終焉を準備するのだ、ということです。このことは内田義彦氏が「資本主義のポジとネガ」として『資本論の世界』のなかで説明されています。

 

資本論の世界 (岩波新書)

資本論の世界 (岩波新書)

 

このテーゼを現代社会に引きつけて考えているとどうなるでしょうか。かつてなく生産性が向上する一方で、先進諸国の経済成長率が軒並み停滞しつつある近年、同時にフリー・シェア・ノマド・社会的企業など「非-資本主義的領域」への可能性を秘めた現象が同時多発的に生じつつあることをこれまでの記事で書いてきました。これらの現象は、「資本の偉大な文明化作用」が資本主義という経済-社会システムを揚棄(超克)する条件を準備しつつあることを示唆しているのではないか*1

  

そして、もし「資本の偉大な文明化作用」によって(無限の自己増殖を前提とする)資本主義的な社会-経済が揚棄されつつあるのならば、それに伴って「労働」のあり方もまた、資本主義的な「労働」から超-資本主義的な〈労働〉へと変化していく可能性が考えられなければなりません。すなわち、「労働」と「活動」、「労働」と「遊戯」が一体化する「真に豊かな社会」の実現。マルクスが夢想したそのような「未来社会」は現代において一部、先取り的に実現されつつあるのではないか?

このように思考を進めるとき、未来社会における〈労働=活動〉のあり方について思考し続けたマルクスのテキストは、非常に生き生きとしたアクチュアルな思想として蘇ってくるのです。

 

新版 『経済学批判要綱』の研究

新版 『経済学批判要綱』の研究

 

まだまだ語るべきことはあるのですが、この記事はひとまず、晩年の『ゴータ綱領批判』(1871)における以下の有名な記述を引用して締めくくっておくことにしましょう。

共産主義社会のより高次の段階において、すなわち諸個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神的労働と肉体的労働との対立もなくなったのち、また、労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、生活にとってまっさきに必要なこととなったのち、また、諸個人の全面的な発展につれて彼らの生産能力をも成長し、協同組合的な富がそのすべての泉から溢れるばかりに湧き出るようになったのち――その時はじめて、ブルジョア的権利の狭い地平は完全に踏み越えられ、そして社会はその旗にこう書くことができる。「各人からはその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」

 

マルクス・コレクション VI フランスの内乱・ゴータ網領批判・時局論 (上)

マルクス・コレクション VI フランスの内乱・ゴータ網領批判・時局論 (上)

 

ここでもやはり、労働が生計を立てるための手段であるだけでなく、労働それ自体が目的とされるような状況が訪れたのちに初めて、「能力に応じて働き、必要に応じて取る」という理想社会が実現されることが述べられています。つまり、マルクスは初期から後期・晩年に至るまで一貫して、労働が単なる生命維持の手段を超えて、人間の能力を全面開花させるような「自由な活動」となる社会を理想としていたのです。ただし、その思想に一切の変化がない訳ではもちろんなく、より洗練された・理論化された未来社会の構想へとマルクスの思想が練り上げられていることが分かります。

 

上の引用ではそれ以外にも、①諸個人が分業に奴隷的に従属することがなくなる、②精神的労働と肉体的労働との対立がなくなる、③諸個人の生産能力が全面開花する、④協同組合的な富が溢れんばかりに湧き出るようになる、などの条件が列挙されています。このうち、①②③は『ドイツ・イデオロギー』当時のマルクス(初期マルクス)から引き継がれたアイデアであり、④は中期以降に付け加えられたアイデアであると考えられます。これらの条件はいずれも、詳しく見ていくと興味深いものなのですが、その考察はまた今後の記事で触れることにしましょう。

 

古典研究 マルクス未来社会論

古典研究 マルクス未来社会論

マルクスのアソシエーション論: 未来社会は資本主義のなかに見えている

マルクスのアソシエーション論: 未来社会は資本主義のなかに見えている

マルクスの株式会社論と未来社会

マルクスの株式会社論と未来社会

*1:念のために書いておきますが、僕自身は、研究者の端くれとしてマルクスの思想を研究してはいますが、いわゆる「マルクス主義者」ではないので、「共産主義革命」を夢見る者ではありません。これもよく言われることですが、マルクスの思想」と「マルクス主義」を区別することは重要です。なにしろマルクス自身が「私はマルクス主義者ではない」と述べているくらいです。

ですから僕は、現在の資本主義経済がほどなく行き詰まり、共産主義経済へ移行する、などと単純に考えているわけではありません。他方で、これまでのような右肩上がりの経済成長を前提とした資本主義社会が今後も持続していく(していくべきだ)とも考えていません。絶えざる経済成長/資本の自己増殖を前提とする資本主義社会とは異なる原理をもつ経済-社会のあり方を構想しておく必要があるのではないか、という程度に(漠然と)考えています。

「余暇と退屈」の問題-ケインズ「孫の世代の経済的可能性」から考える 4

 前回からの続き。

 ここまでに論じてきた問題は、つまるところ、労働が人間にとってどこまで本質的な営みであるのか、人間が労働から完全に解放されることは果たしてありうるのか、という大きな問いに行き着きます。この問いに簡単に答えることはもちろんできません。ただ、ケインズのエッセイを手がかりとしつつ、少なくとも次のように考えることはできるのではないか。

 

 「生きるために働く」ことは人間にとって有史以来の大きな課題だった。多くの場合、そこに選り好みの余地はなかった。何万年、何千年もの間、人類はこの課題と格闘してきた。しかし近代以降、人類の生産性は飛躍的に向上し、社会全体としてみれば人類が最低限生きていく以上に余裕のある富が生産・蓄積されるようになった。ここに人類史において初めて「労働からの解放」という夢が実現される可能性が現れてきた

 

 もちろん、人類の多くはまだまだ労働から解放されてなどいない。むしろ、現在多くの国で問題となっているのは、多くの人々がそれぞれの希望する労働にありつこうとして、実際にはそうできずにいるという状況である。我々は労働から解放されるどころか、むしろますます労働に束縛されているのではないか。現代社会において労働は単なる生計を立てるための手段ではなく、それによって「一人前の大人」と見なされるための判定基準となっている。

 

 働いていればどのような労働であっても良い、ということではない。安定した収入と地位が保障されるような仕事・職業でないと「一人前の大人/社会人」であるとは見なされない。例えば、企業の正社員として就職した人間は「一人前の大人」だが、フリーターや日雇い労働者などは「一人前の大人」として認められないことがしばしばある。それゆえ、雇用の枠からこぼれ落ちた人々は日々の収入を確保するためと同時に、社会の一員として認められんがために、なんとか労働・雇用の枠組の中に入ろうとして必死にもがくのである。

 

 マルクス風にいえば、我々が今日抱えている困難は「労働における疎外」ではなく「労働からの疎外」なのではないか。つまり、そもそもきちんとした職に就くことができないので「労働における疎外」にすらたどり着けない人々が出てきているのではないか。 そうであるとすれば我々は「労働からの解放」どころか、むしろ「労働からの疎外」に苦しんでいるのであり、まずは労働にありついて最低の収入を得るところから始める必要があるのではないか?

 

 ハンナ・アーレントが述べたように、近代社会とは「労働」を中心とする社会である。近代社会において「労働」は収入を得る手段であるとともに、社会の一員として認められるための印であり、他者から承認を獲得するための契機であり、自分の夢や目標をかなえるための営みでもある。「生きるために働く」ことが人間にとっての最大の課題であった時代に比べれば、労働の役割や意味合いが多義化していることに気がつくであろう。近代社会において「労働」が我々にとって持つ意味はかつてなく大きく、さまざまな社会構造が「労働」を前提として設計・運営されている。

 

 そうであるとすれば、我々はどれだけ技術革新がなされ生産力が向上したとしても、簡単に「労働」から解放されることはないであろう。良かれ悪しかれ、我々は長期的に「労働」と付き合っていかねばならないし、これからも当分の間、社会は「労働」を前提として設計され運営されていくだろう。人間の価値観や行動様式、習慣、社会の構造や組織形態、政策方針などは一朝一夕に変えることはできない。生産力や技術力が向上したからといって、いきなり労働と収入を切り離したり、労働を手段から目的に反転させたり、人間を完全に労働から解放させたりすることはできない。たとえ長期的にそのような方向へと社会を向かわせるにしても、短期的にそのような理想を実現させようとすることはおそらく危険である。労働中心社会から脱却するためには十分な移行期間を設ける必要があるだろう。

 

 ケインズは、労働が単に生計を得るための手段ではなく、それが社会参加や他者からの承認の契機となっていることを理解しており、最低限の必要性〔必然性〕necessityに人間を結びつけておくことによって、人々が生きる意味を喪失しないような社会を構想する必要を感じていたのではないか。それゆえ、雇用のパイが縮小する時代において「パンをできるかぎり薄く切ってバターをたくさん塗れるように努力する」ような政策をケインズは提案していたのである。

 

 ケインズのこのような提言に従えば、成熟期を迎えつつある我々の社会は、一足とびにベーシックインカムのような政策に向かうよりも、まず段階的に雇用を広く薄く人々に行き渡らせるワークシェアリングのような政策を我々は検討すべきではないか。そのようにして漸進的に労働から人々を解放させるような社会を目指していくのが望ましいだろう。

 

 またケインズは、経済問題が解決された成熟社会において、余暇における「退屈」こそが人類にとって真の問題になると考えていた非労働時間=余暇をいかに豊かに過ごすことができるかという問いは、人類が労働から解放されるうるかどうかという問いとコインの裏表の関係にある。さらにこの問いは、不必要な貨幣欲望を我々が捨て去ることができるか、という問いにもつながっている。

 

 生産性が十分に向上し経済的問題が解決されて初めて、我々は「金銭動機の真の価値をようやくまともに評価できるようになる」だろうとケインズは述べている。闇雲に富/金銭を追求するのではなく、必要なものを所有するためだけのための富/金銭を我々は求めるようになるだろう。それは、我々が不必要な物質的欲望から解放されることを意味している。その代わりに我々は人生にとってもっと重要な事柄を、物質的欲望ではなく精神的な欲望を、我々は追求するようになるだろう。このような理想をケインズは抱いていたように思われる。

 

 「したがって私たちは、宗教と伝統的な徳の原則のなかでとくに確実なものに戻る自由を手に入れられると思う。貪欲は悪徳だという原則、高利は悪だという原則、金銭愛は憎むべきものだという原則、明日のことはほとんど考えない人こそ徳と英知の道を確実に歩んでいるという原則に戻ることができるのである。昔に戻って、手段よりも目的を高く評価し、効用より善を選ぶようになる。一時間を、一日を高潔に、有意義に過ごす方法を教えてくれる人、ものごとを直接に楽しめる陽気な人、労せず紡がざる野の百合を尊敬するようになる。」

 

  このような記述からは、金銭愛よりも徳が、効用よりも善こそが重要であり、将来的には人間社会がそのような理想に達することが望ましいとするケインズの理想主義的な側面が伺える。しかし、そのような時期はまだ訪れていないことに注意すべきだ、とケインズは警告を促す。「少なくとも今後百年は、自分自身に対しても他人に対しても、きれいは汚く、汚いはきれいであるかのように振舞わなければならない」と。このような警告は、今すぐに理想社会を実現させようとする理想主義者、とりわけ社会主義者に対して向けられたものであったと考えられる。

 

 ケインズがこの原稿を発表したのは、世界が大恐慌に陥り、自由主義的な資本主義経済に対する懐疑の念が向けられていた時期であった。アメリカ発の恐慌が世界を不況に陥れるなかで、1917年の革命によって社会主義国家へと移行したソビエト連邦は五カ年計画によって順調な経済成長を成し遂げていた。もはや資本主義経済は限界を迎えているのではないか、アメリカやヨーロッパ諸国も社会主義体制へ移行するべき時期が来ているのではないか、という旨の発言をおこなう知識人が日に日に増加していた。このような状況のなかで、ケインズ反革命の立場を貫き、革命/計画経済などによらずとも、世界経済はこの不況を抜け出すことが可能であるという信念を持っていた。極端な理想主義、およびその理想を拙速に実現させようとする人々に対し、ケインズは常に懐疑的であった。

「そう遠くない将来に、人類全体にとって、生活の物質的な環境にかつてなかった大きな変化が起こると期待している。しかしもちろん、この変化は徐々に起こるのであって、突然起こるのではない。実のところ、変化はもう始まっている」。

 

 変化は突然起こるのではなく、徐々に起こり、確実に社会を変えていくものなのだ。さらにこれに付け加えてケインズは次のようにも言う。「目的地に到着するまでの間、目的意識をもった活動に加えて、生活を楽しむ術を奨励し、実験することで、少しずつ準備を進めてもいいだろう」。

 余暇において我々が無駄な金銭欲に溺れず、日々の営みそれ自体を目的とするような方法、我々自身を社会全体を豊かにするような術を、我々は今の時点から少しずつ洗練させておくべきである、と。おそらくそれは広い意味での「文化」の洗練を意味するものであろう。ここでいう「文化」には、芸術・学問・議論・社会活動などが含まれる。それ自体を目的としてなされ、我々の精神性を豊かにしてくれるような生活様式・行動様式のあり方。これを磨くことによって、我々はたとえ労働-消費サイクルから解放されてもノイローゼに陥らずに済むであろう。言い換えれば、文化の洗練は成熟社会において人々の精神が病むことを予防する薬のような役割を果たすのだ。

 

 逆にいえば、そのような文化/生活様式の洗練がなされたような社会においてこそ、われわれは初めて金銭欲を捨て去り、労働-消費の無限サイクルから抜け出し、真に「労働からの解放」を成し遂げることができるのかもしれない。文化の洗練がなされない社会においては、人々はいつまでも金銭愛・物質欲にとり憑かれ、労働-消費の無限サイクル(資本の自己拡張運動)から抜け出すことができないであろうから。 そうであるとすれば、金銭愛・物質欲に依存せず、徳・善を実現しうるような「文化」を洗練させることこそが、豊かな成熟社会、真に「経済問題」から解放された社会を作り出すための条件となるのかもしれない。