草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

「労働」と「承認」の弁証法 -ヘーゲル『精神現象学』より

 前回はヘーゲルの『法の哲学』における、Bildung(陶冶=教養)の営みとして労働を位置づけるというヘーゲルの労働観について書きました。今回はヘーゲルの不朽の名著『精神現象学』における、「承認」獲得のための営みとしての労働について書いてみます。

 

精神現象学

精神現象学

 

 労働は賃金を得るためだけに行われるものではなく、社会のなかで他者から承認を得るためにも行われるものである、という論点は近年の労働社会学のなかでも重要視されるようになっているものです(アクセル・ホネット『承認をめぐる闘争』など)。富の再配分だけでよいのか、承認の獲得も同じくらいに重要なのではないか、という議論もあります(アクセル・ホネット、ナンシー・フレイザー『再配分か承認か?-政治・哲学論争』)。これらの議論の元になっているのがヘーゲルの労働承認論です。

 

承認をめぐる闘争―社会的コンフリクトの道徳的文法 (叢書・ウニベルシタス)

承認をめぐる闘争―社会的コンフリクトの道徳的文法 (叢書・ウニベルシタス)

再配分か承認か?: 政治・哲学論争 (叢書・ウニベルシタス)

再配分か承認か?: 政治・哲学論争 (叢書・ウニベルシタス)

 

 

 『精神現象学』は、人間の意識(精神)が弁証法的運動を繰り返しつつ、高次な段階へと昇っていく過程(その終着点が「絶対精神」または「絶対知」)を描いた書です。具体的には、A.意識→B.自己意識→C.理性→D.精神→E.宗教→F.絶対知という順番に人間の意識が成長を遂げていくわけですが、このなかで「労働による承認獲得」に関する議論は、「B.自己意識」の段階で出てきます。

 

 ヘーゲルによれば、自己意識とは承認されたものとしてしか存在しない。「A.意識」の段階では、意識は自と他が切り離されていない「即自」(an sich)の状態にある。それに対し、「B.自己意識」の段階では、自と他が切り離され、さらに自己が自己自身を意識の対象とする「対自」(für sich )の状態にあります。そして、自己とそれを観察する自己という二つにわかれた意識が統一されるために「承認」の運動が必要とされているのです。

 

 自己意識は単一の自立した存在であり、他をすべて排除することによって自己同一性を保っている。それゆえ、自己意識の運動として自他の区別があらわれるとき、自己は他者(としてあらわれる自己自身)を否定しつくすことによって自己意識の同一性を保とうとする。よって、二つの自己意識の関係は、「生死をめぐる闘争」によって自他の存在を実証するもの、と定義される。「生命を賭けることによってしか自由は確証されえない。自己意識にとって、ただ生きること、生きてその日その日を暮らすことが大切なのではなく、浮かんでは消えていくような日々の暮らしのその核心をなす一貫したもの――純粋な自立性(自主性)ーーこそが大切だということも、生命を賭けることなしには確証されないのである。」(『精神現象学長谷川宏訳、作品社、132頁)

 

 こうして二つにわかれた自己意識は、自主性を本質とする自立した意識と、生命を本質とする従属した意識(純粋な自己意識と、純粋に自立はせず他と関係する意識)の対立としてあらわれる。前者が「主人」としての自己意識であり、後者が「奴隷」としての自己意識です。生死をめぐる闘争のなかで、「奴隷」は物の束縛から逃れることができず、物なしで独立できない従属的な姿を示す。これに対し、「主人」は、物の存在など消極的な意味しか持たないことを闘いのなかで示し、そのことによって物への支配力を確立している。主人の支配下にある物は、対峙する奴隷を支配する力をもつから、この支配の連鎖のなかで、主人は奴隷を支配下に置く。

 

 奴隷は、否定の力を及ぼすとはいっても、物をなくしてしまうわけにはいかず、物を加工するにとどまる。これにたいして、奴隷を介して物と関係する主人は、物をそっくりそのまま否定することが可能で、主人は満足感をもって物を消費する。物を思いのままに処理し、満足感をもって消費するという、欲望の意識にはかなわぬ夢が主人には叶えられる。独立した物は奴隷の手に委ねられ、奴隷がそれを加工するのである。

 

 こうした二つの関係のなかで主人は奴隷からその存在を承認される。二つの関係のいずれにおいても、奴隷は独立自存の存在ではなく、一方では物を加工しなければならないし、他方では特定の物への従属を断ち切れない。主人は自立自存の本質にかなった存在であり、物にこだわることなく純粋な否定力をふるい、この関係のなかでは純粋で本質的な行為者としてふるまうが、これに反して、奴隷は自主性のない非本質的な行為者なのである。

 

 しかし、主人が奴隷から得ている承認/自己実現は真の意味での承認/自己実現ではない。真の自己実現とは「他人の自立を認めつつ、そこに他人との完全な統一を実感すること」であるから、主人の獲得する承認/自己実現が真のものとなるためには、主人が奴隷に対して行っていることを、奴隷もまた主人に対して行わなければならない。それによって両者の相互的な承認が可能となり、相互に真の自己実現が達成されることとなる。

 

 だがいま生じているのは、「一方的な、対等ならざる承認の関係」にすぎない。それゆえ、主人の自己実現と思える関係のうちに生じてくるのは、独立自存の意識とはまったく別のもの――自主性も自立性もない意識――である。ここでヘーゲルは大胆に議論をひっくり返す。一見、従属的で非本質的な立場に置かれている奴隷の意識こそが真の独立自存の意識に近い場所にいる、とヘーゲルは言うのである。

 

「支配の過程で支配の本質がその目指すところと反対のものに転化したように、隷属の本質もそれが関係として実現されるなかで、一見そう見えるものとは反対のものに転化する。奴隷の意識は、自分へと押しもどされて自分のうちへ還っていくとき、真の自立・自主性を獲得するのだ。」(同上、136頁)

 

では奴隷の意識はどのようにして「自分の内へ還って」いき、「真の自立・自主性を獲得する」ことができるのだろうか?実は、そこで持ち出されるのが「労働」なのです。主人の欲望を満たすために奴隷が物を加工すること、この行為(労働)のうちにこそ、奴隷が真の承認を獲得し、真の自己実現を達成する契機がある

 

「物を形成するなかで自分が自主・自立の存在であることが自覚され、こうして、自主・自立の過不足のない姿が意識にあらわれる。物の形は外界に打ち出されるが、といって、意識と別ものなのではなく、形こそが意識の自主・自立性の真の姿なのだ。かくして、一見他律的にしか見えない労働のなかでこそ、意識は、自分の力で自分を再発見するという主体的な力を発揮するのだ。」(同上、137頁)

 

 このようにして、奴隷は主人が生活に必要とする物を生産する労働行為を通して、自身の意識を外界に打ち出し、そのことによって自主・自立の意識を具現化する。このような労働行為によってこそ、真の承認獲得・自己実現および自主・自立性の具現化が達成されるとヘーゲルはいう。一見、主人に従属しているかに見えた奴隷が、労働を契機として、実は主人を超える承認獲得・自己実現をなしうる可能性を持っているという論理は、いかにも弁証法的で興味深いものです。

 

 ここでは、労働を陶冶=教養と位置づけた『法の哲学』とはまた異なった労働の役割づけが行われている。しかしいずれにしても、ヘーゲルが労働を理想的な個人/社会へと至るための重要な回路として位置づけていることは間違いない。ヘーゲルの労働観では、労働を苦痛や強制の側面からみる議論はあまり前面に出てきません。この点がのちにマルクスによって批判されることともなるのですが、ヘーゲルの労働観が近代の肯定的労働観を代表するひとつであることは間違いないでしょう。