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草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

成熟社会における「暇と退屈」の問題――國分功一郎『暇と退屈の倫理学』から考える Part3

 成熟社会では「労働」と「遊び」(あるいは「労働」と「活動」)が一体化する、というマルクス的ユートピアを前回記事で紹介しました。國分功一郎さんの提案する「豊かな浪費」とは異なる成熟社会の過ごし方が、そこには示されています。

 やや単純化して言えば、成熟社会における理想的労働のかたちとは、「生命維持の必要」のためだけに働くのではなく、「働くことそれ自体を目的として働く」ことだと言えます。逆にマルクスにとって、「疎外された労働」とは「生命維持の必要」のためだけに働くような労働のあり方でした(『経済学・哲学草稿』)。

 そのためには、「労働」と「遊び」の一体化というユートピアの中でも、(1) 一定の訓練が必要であること、(2) 動物的とりさらわれ(没頭)が重要になること、という國分さんの指摘は重要です。「遊ぶように働く」ためにも、一定の訓練は必要であり、またそのような訓練を経てこそ、その仕事=遊びにとりさらわれる(没頭する)ことが可能になるからです。

 

 ところで、國分功一郎氏の『暇と退屈の倫理学』のなかで、ハイデガーの退屈論と並んで興味深いのは、ボードリヤールの消費社会論に基づいた、「消費」と「浪費」の区別、という議論です。國分氏の整理によれば、「浪費」とは「必要を超えて物を受け取ること」であり、「消費」とは「物に付与された観念や意味を吸収すること」である。そして、物の受け取りには限度があるので「浪費」はどこかの時点でストップするのに対し、観念や記号の吸収には限度がないため「消費」は無限に増殖する。

 

消費社会の神話と構造 普及版

消費社会の神話と構造 普及版

 

 

 消費社会は、商品・サービスのわずかな差異を記号に仕立てあげ、消費者が消費し続けるように仕向ける。消費社会は私たちを浪費ではなく消費へと駆り立てる。「消費は贅沢などもたらさない。消費する際に人は物を受け取らないのだから、消費はむしろ贅沢を遠ざけている。…消費には限界がないから、それは延々と繰り返される。延々と繰り返されるのに、満足がもたらされないから、消費は次第に過激に、過剰になっていく」(『暇と退屈の倫理学』151頁)

 

  このようにして國分氏は無際限な「消費」を批判し、真の豊かさ・贅沢としての「浪費」を推奨します。そして、真の豊かな「浪費」を享受するためにも、一定の訓練と動物的「とりさらわれ」が重要、という結論に繋がるわけです。

 

 以上のような國分氏の議論は、消費社会(=資本主義社会〕への批判としては確かに重要で、個人的にも共感するところがあります。ただし、このような消費/浪費の区別の仕方がどこまで有効なのか、やや疑問が残るところもあります。この本で説明されているように、明快に「消費」と「浪費」を区別することは可能なのか、「浪費」には限度があり「消費」には限度がないという理解は正しいのか(むしろ「浪費」のほうこそ限度がないのではないか?)、高度に発達した消費社会では「消費」と「浪費」はほとんど一体化しているのではないか、こういった疑問・批判が即座に思い浮かびます。

 

 私見では、ここで重要なのは、消費/浪費の区別よりも、資本主義的/非資本主義的の区別です。高度に発達した消費社会では(國分氏の言う意味での)消費と浪費の境界は極めて曖昧です。それよりも、それが「資本主義的な」消費/浪費であるのか、「非-資本主義的な」消費/浪費であるのか、という区別のほうが重要な意味をもちます。

 

 國分氏の批判する「消費」とは、まさにボードリヤールのいう「記号的消費」であり、彼の称揚する「浪費」とは消費社会=資本主義社会の論理に回収されないモノ・コトの享受です。つまり國分氏もまた、消費/浪費の区別で重視しているのは資本主義的/非-資本主義的の区別にほかなりません。言いかえれば、資本主義的な消費の論理にいかに抗うか、そのオルタナティブをいかに見つけるか、がモノ・コトの豊かな享受としての「浪費」の鍵となるのです。これもまた、本ブログで繰り返し書いてきた、成熟社会における「非-資本主義的次元」の重要性にほかなりません。

 

 これとほとんど同じことを、社会学者の見田宗介氏が『現代社会の理論』のなかで、バタイユを参照しながら書いています。見田氏によれば、バタイユボードリヤールのいうconsommationとは〈商品の購買による消費〉であり、consumationとは〈充溢し燃焼しきる消尽〉である。またLa société de consommationとは、商品の大量の消費を前提とする社会の形態であり、La société de consummationとは、効用に回収されることのない生命の充溢と燃焼を解き放つ社会の形態である(『現代社会の理論』129頁)。

 

現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)

現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)

 

 

 そして見田氏もまた、資本主義的な「消費」(consommation)ではなく、非-資本主義的な(あるいは超-資本主義的な)〈消費〉(consumation)こそが、これからの時代における「自由」の望ましい形である、と結論づけています。すなわち、資本主義的な「消費」は環境破壊や南北格差といった破壊・収奪をもたらすゆえに真の意味で「自由」でありえないが、非-資本主義的な(あるいは超-資本主義的な)〈消費〉は破壊・収奪をもたらさないかたちでの真の「自由」の享受を可能にする、と。

 

 ここで見田氏のいう〈消費〉は國分氏のいう「浪費」にほぼ等しく、それは、バタイユのいう「蕩尽」を現代社会に適したかたちで取り戻したものに等しい。『暇と退屈の倫理学』でも、バタイユ見田宗介氏の名前が挙がっていないのが不思議なくらいです(元ネタにしている可能性は大いにあるのではないかと思いますが。ちなみにボードリヤールの消費/浪費の議論もまたバタイユの「蕩尽」論を参照したものです)。

 

呪われた部分 有用性の限界 (ちくま学芸文庫)

呪われた部分 有用性の限界 (ちくま学芸文庫)

 

 

  実際に、バタイユの蕩尽論は成熟社会における消費/浪費のあり方を考えるうえで非常に重要になってくるものです。次回は、バタイユ『呪われた部分』の議論を参照しつつ、この問題についてさらに深く考えてみることにしましょう。その際に、消費/浪費の次元だけでなく、労働/活動の次元をも、バタイユの蕩尽論から見直してみたい、と考えています。

 先回りして書いておけば、資本主義の論理に回収されない、〈充溢し燃焼しきる消尽〉としての労働/活動というのものがあり得ないか。それが冒頭に書いた、「労働」と「遊び」の一体化というマルクス的ユートピアに重なるものとなるのではないか、というのが大まかな見通しです。詳細はまた次回に。