草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

労働と所有権 -ジョン・ロック『統治二論』より

 16~17世紀のイングランドを中心に、勤労規範が形成され、貧民・浮浪者が「労働者」へと仕立てあげられていく過程をみてきました。このような時代背景を背に、労働という行為を積極的に評価する思想が登場してきます。そのひとりが、『統治二論』において自然権、社会契約、抵抗権などのアイデアを示したことで有名なジョン・ロックです。

 

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 労働論に関していえば、ロックの功績は、労働価値説の原型となる思想を形成したこと、さらにその構想を所有権と結びつけて論じ、自然法に基づく労働所有論を基礎づけたことにあります。労働の成果はその労働を行った者に帰属すべきであるという、現代に生きる我々からすれば当然のようにも思える発想を、初めて理論化したのがロックの労働所有権論であったといえます。

 

 『統治二論』第5章「所有権について」第25節において、ロックは次のように議論を始めます。「自然の理性が教えるように、人間は、ひとたび生まれるや生存の権利をもっており、したがって食物飲料その他自然が彼らの存在のために与えるものをうける権利をもつのだと考えることができる」。よって、人間が生存するために自然が人間に与えた恵みはもともと「人類共有のもの」である。人類共有のものであるならば、そこに特定の個人の所有権(その物の他者の使用・所有を排除し、自分だけがその物を独占する権利)などというものは発生しないのではないか?その疑問にこれから答えてみせよう、とロックはいいます。

 

完訳 統治二論 (岩波文庫)

完訳 統治二論 (岩波文庫)

 

 その答えはさしあたり第27節の有名な「労働混合論」において与えられます。

「たとえ地とすべての下級の被造物が万人の共有のものであっても、しかも人は誰でも自分自身の一身については所有権をもっている。これには彼以外の何人も、なんらの権利を有しないものである。彼の身体の労働、彼の手の動きは、まさしく彼のものであるといってよい。そこで彼が自然が備えそこにそれを残しておいたその状態から取り出すものはなんでも、彼が自分の労働を混じえたのであり、そうして彼自身のものである何物かをそれに付け加えたのであって、このようにしてそれは彼の所有となるのである。」(『市民政府二論』岩波文庫版、32-33頁)。

 

 たしかに神が人間に与えた自然の恵みは、それそのままでは人類の共有物であるけれども、そこに何らかの労働を加えることによって、その自然物は彼の所有物となる。なぜなら、その労働は彼の身体から生まれたものであり、彼の身体は間違いなく彼の所有物であるから。このような論理構成において、ロックは労働と所有権を結びつけてみせたのでした。この労働混合論を、「人格の拡張」あるいは「身体の拡張」という観点から捉える研究者もいます(「人格の拡張」説)。これを敷衍すれば、労働とその産物は世界へ向けての自己の対象化である、労働にもとづく所有は人格の自己実現・自己展開であるという、ヘーゲルマルクス風の労働観に結びつけることも可能です。(今村健一郎『労働と所有の哲学-ジョン・ロックから現代へ』32頁)

 

労働と所有の哲学―ジョン・ロックから現代へ

労働と所有の哲学―ジョン・ロックから現代へ

 

 続けてロックは第28節のなかで次のようにいいます。

 樫の木のもとで拾ったどんぐりや、森の中で木からとった林檎などを食べて栄養を得た者は、一時的にであれそれを「所有」(正確には「専有」)したことになる。では一体どの時点において、それらの自然物は彼の所有物となったのか。彼がそれを消化したときか、それを口に入れた時か、それを調理したときか、それを家へ持ち帰ったときか、あるいはそれを拾い上げたときか?ロックによれば、「そこに労働がなされたということが、この果実を共有のものと区別する」。人類の共有物である自然に、何らかの労働を加えたときに、その自然の一部は彼の所有物(専有物)となる。「契約によって依然として共有地のままになっているものがあるが、そこで人が共有のものの一部をとり、それを自然の与えた状態から取り去ると、そこに所有権が生まれる」。

 

 よって、先ほどの例では、その人が山のなかでどんぐりないし林檎を見つけ、彼が身体を動かしてその果実を自分の手の元に入れた時点において、所有権が発生したのだと考えなければならない。このような労働-所有の行為は、全人類の同意を得ずとも、自由におこなうことができるものである。なぜなら、「こういうことがなければ、共有のものは何の役にも立たない」(第28節)からだ。神が人間に自然の恵みを与えたのは、人間がそれを活用することによって自身の生存に役立てるためであった。言い換えれば、たとえ人類が自然の恵みを共有していたとしても、その恵みを誰も利用・活用しないのであれば、それは「宝の持ち腐れ」になってしまうということである。それを利用・活用するために、神は人間に理性と身体を与えたのだ、とされる。

 だから、労働によって得られた所有物については、その所有者はこれを腐らせたり壊したりすることなく、使用または消費する義務を負っている。「腐らせたり、壊したりするために、神によって創られたものは一つもない」(第31節)からである。

 

 このような労働-所有の対象は、果実や獣などの自然物だけでなく、「土地そのもの」にも及びます。「ひとが耕し、植え、改良し、開墾し、そうしてその産物を使用し得るだけの土地は、その範囲だけのものは、彼の所有である。彼は自分の労働によって、それを、いわば共有のものより自分自身に囲い込むのである」(第32節)。共有地を囲い込むことによって、それを自分の専有物とし、他の者によるその地の使用・所有を排斥するという論理は、以前の記事で述べた「資本の本源的蓄積」と「囲い込み運動」の議論を想起させます。その意図はともかく、このように記すロックに、16-17世紀イングランドにおいて進行した囲い込み運動が念頭にあったことはおそらく間違いないでしょう。

 

 もちろんロックは、労働に基づく土地の所有(専有)を悪いこととは捉えていません。その反対に、そのような労働-所有の行為は土地から最大限の利益を引き出し、人類を豊かにするものだと考えられています。これは、神によって定められた自然の摂理だとロックはいいます。

「神は世界を人間共有のものとして与えた。けれども、神はそれを彼らのために、そうして、彼らがそこから生活の最大便益を引き出しうるように与えたのだから、それがいつまでも共有、未開墾のままであっていいと神が考えていたとは想像されない。神は、それを勤勉怜悧なものの利用に任せた――そうして労働がそれに対する彼の権原となるべきであった――のであって、争い好きな人びとの気まぐれや貪欲に任せたのではない。」(第34節、同書、38-39頁)

 

 ここに「神は、それを勤勉怜悧なものの利用に任せた」という記述が出てきますが、自然がもつ便益を最大限に引き出すためには、労働という行為が必要であり、そのために人間は「勤勉怜悧」でなければならない、という規範的道徳が示されていることが分かります。前々回の記事でみたように、ここにも勤労を尊ぶプロテスタンティズム的な価値規範が影響を及ぼしていることは明らかです。実際にロックは敬虔なプロテスタントであり、彼の政治思想の背景には「神は存在しており、人間はキリスト教徒として生きるべきだ」という信念があったと言われています。

 前回・前々回の記事では、プロテスタンティズムが生みだした労働倫理が、貧民・浮浪者を 強制的に「労働力商品」へと仕立てあげていった過程を記述しましたが、ここではその労働倫理がより積極的に「神から与えられた使命」として、しかも「神が人間に与え給うた自然の恵みから最大限の利益を引き出すための手段」として、労働が位置づけられていることが分かります。とくに「最大限の利益を引き出すために勤労怜悧に働け」という命法からは、明確に資本主義的な勤労規範の原理を読み取ることができます。

 

 もちろんロック自身に資本主義の論理を基礎づけようなどという意図はなく、彼が目指したのは、神によって定められた自然法の秩序を論理だてて説明し、現実社会にあわせてこれを論証することでした。しかしロックの明晰な考察は、図らずもその時代に勃興しつつあった資本主義的な勤労規範のあり方を理論づけるものともなっていたといえるのです。