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草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

現代に残された「蕩尽」の可能性とは-バタイユ『有用性の限界 呪われた部分』から考える5

前回からの続き。

バタイユは、近代の資本主義社会において「過剰なもの」を「蕩尽」するための方法が失われ、「過剰なもの」のさらなる増殖を目指した無限運動が自己目的化していることを批判的に捉えていたのでした。

しかし現代社会においても限られたかたちで「過剰なもの」を「蕩尽」する方法は残されている、とバタイユはいいます。その一例としてバタイユは「喫煙」を挙げています。

現代の社会で浪費がほとんどなくなっているというのは、それほど確実なことではない。その反論として、煙草という無駄な消費を挙げることができるだろう。 考えてみると、喫煙というのは奇妙なものだ。煙草はとても普及していて、わたしたちの生活のバランスをとるためには、煙草は重要な役割を果たしている。不況のときにも、煙草の供給は真面目に配慮されるくらいだ(少なくともそう見える)。煙草は「有用な」浪費に近い特別な地位を占めているのである。(『呪われた部分 有用性の限界』ちくま学芸文庫、130-131頁)

煙草好きだったバタイユならではの観点ですね。

ただし、喫煙はあくまで個人的な「浪費」にすぎず、かつての「祝祭」における「蕩尽」とは根本的に異なるものである、とバタイユは指摘しています。

祝祭はすべての人が同じように参加する。ところが煙草は富む者と貧しい者との間でうまく配分されていない。多くの喫煙者は貧窮していて、特権のある人々だけが際限なく喫煙できるのだ。他方で、祝祭は特定の時間だけに制限されるが、煙草は朝から晩まで、いつでもふかすことができる。こうした散漫さのために、喫煙は誰にでもできるものとなり、そこに意味が生まれないのだ。喫煙する多くの人が、そのことをいかに認識していないかは、驚くほどだ。これほど把握しにくい営みはない。(同上、131頁)

喫煙が個人的に消費されるのに対して、祝祭は集団によって浪費されるがゆえに、人々が交流(交通)し、共同体の結びつきを強める機能をもっていた。以前にも述べたように、「祝祭」は単なるお祭りではなく、その機会に富める者がふだん蓄積した富を放出し、それによって富める者と貧しい者との間の格差を埋める再分配の効果をもっていたのでした。また煙草は朝から晩までいつまでも好きなときにふかすことができるけれども、祝祭は特定の時間に限定されているがゆえに特別な価値をもっていたのだとバタイユはいいます。非常に鋭い視点です。

 

呪われた部分 有用性の限界 (ちくま学芸文庫)

呪われた部分 有用性の限界 (ちくま学芸文庫)

 

 

 また『呪われた部分』の第三巻にあたる『至高性』のなかでは、新たに「至高性」という観点から「過剰なものの蕩尽」の問題が再考察されています。このとき、「至高性」が「労働」と対比されて論じられていることがポイントです。バタイユにとって「労働」とは、あくまで必然的な原理のうちで「有用性」を目的として隷従的になされるものにすぎない。これに対して「至高性」は「有用性」を超えたところに、あるいは「必然性〔必要性〕」を超えたところに現出するバタイユはいいます。

至高性を際立たせるのは、富を蕩尽するということだ。つまりもろもろの富を生産するにもかかわらず、それを蕩尽することのない労働とか隷従性とは正反対の富の蕩尽である。至高者は蕩尽し、労働しない。それに対し、至高性の対局に位置する奴隷、すなわち持たざる人間はもっぱら労働し、そして自分たちが消費するのはただ必要最小限なもの、生産物のうち自らが生存し、労働することができるためになくてはならないものに限られている。(『至高性』湯浅博雄訳、人文書院、1990年、9-10頁)

 

「有用性」の領域とは、ある行為の外に何らかの目的があって、その目的を達成するための手段として行為がなされる領域のことを指します。例えば、お金を稼ぐために労働するとか、何らかの解決するべき問題があってそれを解決するために作業をするとかいったケースです。これに対して「至高性」の領域は、そのような「有用性」の領域(~のための○○)を超えて、その行為それ自体のうちに最上の喜びが見出されるような領域を指します。すなわち、「有用性を超えた彼岸こそ至高性の領域である」

 

これをバタイユは次のようにも言い換えています。「労働」とは「現在という時を未来の利益のために用いる」ことであって、このような行為は「隷従的」である。例えば、「労働者がボルトを生産するとき、その生産は、このボルトが自動車の組み立てのために役立つことになるはずの時を念頭に置いて、それを目指して行われる」。そのような労働を通じて、労働者は賃金を獲得し、自分の生存に必要なものを手に入れることができる。これはあくまで「有用性」の領域である。

 

これに対して、「至高であるということは、現在という時を、その現在という時以外にはなにものも目指すことなしに享受することである」(同上、11頁)。例えば、「労働者はその稼いだ賃金のおかげでワインを一杯飲むこともできる」。労働者が一日の仕事を終えたあとでワインを一杯飲むということは、彼の元気や体力を回復するためのものだとも言えるが、「実のところ彼は必要に迫られた不可避性を――つまり労働の原理であるような不可避的・必然的なものを――逃れようとする希望をこめて飲むのだと思われる」。

労働者が奮発してワイン代を支払い、美味なるワインを飲むとき、そこには「ある種の味わいという要素、ある奇跡的な要素が混入することになる」、そしてそのような奇跡的要素こそが至高性の基底を成しているのだ、とバタイユは書く。

それはまったく些細なことだ。が、しかし少なくとも一杯のワインはある短い瞬間、自分が世界を自由に取り扱っているという奇跡的な感覚をその労働者に与える。むろんそんなことを意識する間もなく、ワインは次々と盃を重ねられるだけだろう(労働者は飲むとすぐにそんなことは忘れてしまうだろう)。それでもそこに陶酔の原則はあるのであって、その奇跡的な価値に異議をさしはさむことは誰にもできないだろう。(同上、11-12頁)

 

先に述べた喫煙の例と同じく、このようにワインを飲むという行為も、基本的にはそれはあくまで「個人的な消費」の次元にすぎず、それは古代的な「祝祭」における「過剰なものの蕩尽」には敵わないであろう。しかし、それでも現代資本主義社会のうちにも、限定的なかたちで「蕩尽」の瞬間は確かに存在している。ごく瞬間的な些細なものであるとはいえ、その瞬間に含まれる「奇跡的な要素」をバタイユは見逃していない。

 

もちろん、煙草やワインを消費することもまた、現代では資本主義システムのうちに取り込まれている。それはあくまで「資本の自己増殖運動」を駆動することに手を貸しているだけではないか、という批判はありうるかもしれない。しかしそのような資本主義的消費のうちに、一時、資本主義的原理を逃れる「蕩尽」の瞬間がありうることをバタイユは指し示そうとしていたのであった(言うまでもなく、バタイユにとって資本主義システムは「必然的」かつ「隷従的」な領域のうちにある)。

 

原則として、労働へと拘束されている人間は、それなしには生産活動が不可能となるような最低限の生産物を消費する。その逆に至高者は生産活動の超過分を消費するのである。(同上、10頁)

 

集団的な「蕩尽」の方法が失われた現代資本主義社会のうちにも、 いくつかの限定的なかたちで「過剰なもの」を「蕩尽」する方法が残されていないわけではない。煙草やワインの他にも、バタイユ「笑い」「エロティシズム」「芸術」などのうちにそのような奇跡的要素を見出している。これらの「蕩尽」のかたちについてはまた次回に述べることにしよう。

 

至高性―呪われた部分 (普遍経済論の試み)