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草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

「蕩尽」なき「消費」-バタイユ『有用性の限界 呪われた部分』から考える4

ようやく博士論文を書き終わったので久しぶりにブログを更新してみます。もはや前回の更新から1年3ヶ月も経っていますね!どうでもいいことですが、このブログ、どうやら大学の試験時期やレポート時期だけアクセスが急増する(といっても大した数ではないですが)傾向にあるようです。少しでも学生さんの役に立っているといいのですが(しかしコピペはダメですよ)。

 

もうずいぶん前の記事ですが、前回まではバタイユの理論に沿って、過剰な富が「蕩尽」される過程を追ってきたのでした。古代社会では「栄誉」を基準として祝祭における「蕩尽」が行われ中世社会では「慈善」を基準として宗教への「蕩尽」(=生産)が行われてきた。これに対して近代社会では、過剰な富を「蕩尽」(浪費)するのではなく、富を蓄積したうえでそれをさらなる富の増殖へと「投資」(先送り)していくという反復運動が行われるようになる。これがマルクスがいうところの「資本の自己増殖運動」を引き起こすのだ、というのがバタイユのおおまかな見立てでした。

 

呪われた部分 有用性の限界 (ちくま学芸文庫)

呪われた部分 有用性の限界 (ちくま学芸文庫)

 

 

バタイユの描く資本主義像は、マルクスの描くそれとほとんど同じです。その背景にはもちろんバタイユマルクス主義から大きな影響を受けているという事情があります。

 

「資本は基本的に、私的な利害にも、公的な利害にも無関心なままに発展してきた非人称的な貪欲さの運動である。あまねく成長するように宿命づけられたマシンなのである。しかしこの資本の非人称性という性格のために、最終的には社会的な傾向を犠牲にしながら、利害関係を重視するという特徴を発展させていくことになる。資本主義のマシンは、分解の動因なのだ」(バタイユ『呪われた部分、有用性の限界』ちくま学芸文庫、124頁)

「あまねく成長するように宿命づけられたマシン」としての資本主義は、その破壊力のために社会を犠牲にし、さまざまな繋がりを分解していく。このようなマシンとしての資本主義を駆動するのは、実業家ではなく投機家である、とバタイユはいいます。カルヴィニズムにおける実業家は、まだ宗教的な圏内に留め置かれながら、過剰な富を「生産」へと振り向けていた。しかし近代社会における投機家は、もはや有用な「生産」のためではなく、富の増殖それ自体だけを目的とした投機(≠投資)を行う。 

 

資本論 (1) (国民文庫 (25))

資本論 (1) (国民文庫 (25))

 

 

「資本主義の道徳的な雰囲気を作り出すのは、この投機家である。こうして投機家は、資本主義の達成したものを、自分の姿勢の土台になる価値、すなわち個人と私的な享受に結びつける。カルヴィニズムの霊的な原則は消滅し、実業家は〈社会主義的な役人〉のような態度を取らざるをえない。だからこそ大投機家がこうした新しい価値の紋章となるのである」(同上、126頁)

 

 

 こうしてもはや、近代社会では「祝祭における蕩尽」や「栄誉ある浪費」や「宗教的生産」どころか、「プロテスタンティズム的な勤労」や「有用な生産」さえも喪失され、ただ「商業的な搾取」にもとづく「資本の自己増殖運動」だけが残ることになります。

 

「人間の栄誉ある浪費は限界まで抑えられ、こうして商業的な搾取が可能になった。豪勢な活動の対象を作り出すことができたものは、なにも(あるいはほとんどなにも)残らなかった。現代では文学も見世物も、貨幣の計算に還元できるものである。(中略)祝祭の運動は全体として悲劇的であり、栄誉に輝き、人を陽気にさせるものだ。かつては人間の顔に誘惑の力を与えたものだったが、いまやそれも変質してしまった」(同上、128-129頁)

 

いや、資本主義社会では数え切れないほどの「浪費」が行われているではないか、と人はいうかもしれない。しかしそれはバタイユによれば、本当の意味での「浪費」(栄誉ある浪費)ではない。「資本主義的な生産に見合う浪費とは、真の豪奢さを排した個人の浪費というあり方だけである」(同上、130頁)。大量生産された製品ときらびやかな広告によって導かれるのは「みせかけだけの贅沢」にすぎない。そのような「みせかけだけの贅沢」のもとでは、人々は疲れきり、やがて「退屈」に陥ってしまう。そこには本当の意味での「蕩尽」が存在しないからである。

 

「わたしたちは、自分たちが生み出している余剰なエネルギーを、断固として浪費する必要があるのだが、そのことをもはや、だれも理解できなくなっているのだ。そしてわたしたちが盲目的であるために、この余剰が大きくのしかかる。そして余剰がわたしたちを浪費するほどには、わたしたちはこの余剰を浪費していないのである」(同上、138頁)

 
また近代資本主義のもとでは、「浪費」(消費)はあくまで個人的なものとなり、かつての祝祭におけるような集団的な人々の交わりという契機を失ってしまっている。かつての「蕩尽」や「浪費」が社会的なものであったのに対して、近代では「浪費」や「消費」があくまで私的な享受のためだけに行われていて、そこには本来的な「豪奢」が成立していない。このような個人主義的消費は「栄光を否定する宿命にある」ものであって、人々に真の満足を与えない。こうして資本主義社会は「蕩尽」を完全に衰退させてしまった、とバタイユは論じています。

 

「人間にとって豪奢とは、社会的な地位の表現である前に、祝祭の表現であった。祝祭で人々は交じりあい、交感する。豪奢とはまさに、多かれ少なかれ、人々のものであった(大聖堂に置いてもそうだったように)。ところが今わたしたちが知っている豪奢とは、人々を分かつ豪奢にすぎない。地位を築くための浪費による豪奢なのである」(同上、133頁)



前回記事の最後でも触れたように、バタイユにとって本質的に重要なのは「富の稀少性」ではなく、むしろ「富の過剰性」のほうです。古代社会からしてすでにつねに富は「過剰なもの」であった。それは地球がつねに太陽からの「純粋贈与」を受けているからです。近代以前の社会にはそのような「過剰な富」を「蕩尽」「浪費」していく知恵をもっていた。しかし近代以降の社会では「過剰な富」をさらに増殖させることに人々の関心が向けられ、市場において作り出された「稀少性」に人々は駆り立てられるようになった。しかしそこに生じる「消費」は決して「真の意味の浪費」=「蕩尽」ではない。そこにあるのはただただ「搾取を経て価値増殖していくマシン」にすぎない。そのような社会ではわれわれは真の「豪奢」を享受することはできないであろう、というのがバタイユの主張でした。このようなバタイユの「過剰経済学」の思想は、「過剰に豊か」でありつつ同時にどこか閉塞感の漂う現代社会にもまさに当てはまるものではないでしょうか。