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草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

「蕩尽」から「生産」へ-バタイユ『有用性の限界 呪われた部分』から考える3

 前回の記事では、古代社会・未開社会における「過剰」な富が「祝祭」の際に「蕩尽」される(ポトラッチなど)ことを書きました。このような「蕩尽」のあり方は、中世に入ると少しずつその様相が変わってきます。これも前回記事で書いたように、古代社会・未開社会においては「栄誉」が最大の価値基準でした。しかし、中世社会ではキリスト教における「慈善」こそが最大の価値基準になったバタイユは言います。

 

呪われた部分 有用性の限界 (ちくま学芸文庫)

呪われた部分 有用性の限界 (ちくま学芸文庫)

 

 

 やや単純化していえば、西洋における中世とはキリスト教が最大の権限をもった時代です。そのような社会では、蓄積された「過剰な富」の向けられる宛先も「宗教」(キリスト教)になります。具体的には、聖堂の建設、豪奢な典礼、僧院の維持などのために「過剰な富」が充てられることとなったのでした。これは、資本主義的な「増殖」とは異なるものの、西洋社会がその富を「生産」の方向に充て始めたことを意味していました。

 

「教会は大地を名誉ある建物で覆い、この聖堂で人々は、とてつもない儀礼を祝ったのだった。施しは当初の目的から逸脱して、奢侈の目的でも行なわれるようになった。すべての町とすべての村に、教会堂や聖堂が聳え立ち、キリストと、キリストの死にたいして、すべての人が行った贈与を証言している。平野から渓谷まで鐘楼と塔が聳え、供犠のしるしのもとに、人々と家と道の記憶を刻んでいる。」

(『呪われた部分、有用性の限界』ちくま学芸文庫、95頁)

 

 例えば、世界遺産にも登録されているドイツのケルン大聖堂は、初代が完成したのが4世紀、2代目が完成したのが818年。3代目は2代目が焼失した1248年に再建が始まり、16世紀に入ると宗教改革を発端とする財政難から工事が途絶。1842年に建設が再開され、全てが完成したのは建設開始から600年以上(!)が経過した1880年のことだったといいます。

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f:id:windupbird:20140127053657j:plain  ケルン大聖堂

 

 これだけの長期間をかけてひとつの大聖堂を作り続ける、これが中世に興った「宗教的生産」のかたちでした。ケルン大聖堂ゴシック様式の建物ですが、ゴシック様式とは西ヨーロッパで12世紀後半から15世紀にかけて発達した建築様式を意味しています。そのゴツゴツした無秩序にも見える不思議な建築様式は、中世の「宗教的生産」が産んだ文化的創造物のひとつだったと言えるでしょう(他にもパリのノートルダム大聖堂などがゴシック建築物に分類される)。

 

 こうして中世には「宗教的経済」が栄え、古代以前の「祝祭的経済」は衰退していくわけですが、その「宗教的経済」もルネサンス期に入るとまた様相が変化します。16世紀にいわゆる宗教改革が始まると、カトリック教会の豪奢な建造物や浪費的な典礼が批判の対象となり、「あらゆる濫費を敵視する道徳」が広がりを見せるようになります。ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で喝破したように、ルター・カルヴァンの広めたプロテスタンティズムは、「浪費」を敵視し「勤労」と「蓄積」を奨励しました。また堕落したカトリック教会の権威に依らず、個人と神が聖書を通じて直接に相対する、徹底的に個人主義的な信仰のあり方を提唱しました。

 

 「勤労」の結果として「蓄積」された富は、もちろん浪費されてはならない。その「蓄積」を未来へと先送りし「投資」することこそが奨励される。「世俗内禁欲」(プロテスタンティズムの倫理)に基づく、このような富の蓄積と投資(先送り)が「資本主義の精神(エートス)」を醸成していったこともまた、ウェーバーが指摘するところです。ここにいよいよ、「過剰性」を「蕩尽」「浪費」することなく、将来へ向けて「蓄積」し「投資」する資本主義経済が駆動を始めることとなるのです。

 

「これとは反対に、栄誉、そして一般にすべての興奮は、無益なもの、あるいは経済に有害なものとなった。福音書の信仰は、大地における栄光に敵対するものであり、死者にしか栄光を認めない。信者にとっては、この世の破滅的な壮麗さほど、真なる栄光とかけ離れたものはない。」(同上、98頁)

 

 こうして地上における「浪費」がいったんは否定されることになるのですが(世俗内禁欲)、しかしこれもウェーバーが言うように、そのような禁欲の倫理はほどなくしてブルジョワジーの欲望と資本主義の運動のもとに飲み込まれ、その正反対の「欲望」と「消費」が世界経済を際限なく駆動していくこととなるのです。宗教改革の時代が同時に大航海時代でもあり、西洋経済の領域が拡張していく時期にあたっていたこと(またマルクスのいう「原始的蓄積」が行われた時代であったこと)は以前の記事でも書いたとおりです。

 

「ブルジョワジーの世界は、この濫費への恐怖、祝祭と供犠への恐怖によって成熟した。…禁欲主義のもとで登場してきた実業家は、有用性に価値を与えた初めての人間である。実業家が求めた評価の基準は、資本、すなわち企業に投資された富だけだった。」(同上、105頁)

 

 このようにブルジョワジーは「濫費への恐怖、祝祭と供犠への恐怖」をプロテスタントと共有しつつも、同時に「有用性」に価値を見出し、蓄積した富を「資本」に投資するという方式を(歴史上初めて)発見することによって、資本主義的増殖運動への決定的な一歩を踏み出したのです。そこでは「実業が栄誉なしに繁栄することが目的となり、有用性が道徳的な価値の基礎となった」(同書、106頁)。こうして「有用性」に最大の価値が置かれ、社会の「過剰な富」が「蕩尽」「浪費」されずに未来へと先送り=投資されるという、近代資本主義社会が開始されたのでした。

 

 そこでは「過剰性」がいつの間にか「稀少性」へと置き換えられ、「過剰な富」は飽くことなく「増殖」=「成長」を追い求め、人々や自然がもつ「余剰」なエネルギーが市場経済のために開発=搾取(exploit)されることになります。 バタイユが厳しく批判したのも、このような資本主義経済のあり方でした。次回記事ではこの点について詳しく見ていくことにしましょう。

 

 

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)