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草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

「祝祭」と「蕩尽」――バタイユ『有用性の限界 呪われた部分』から考える2

 前回は、バタイユの構想した「普遍経済学」では「過剰性」がキーワードである、ということを見ました。これは、人間の欲望が根源的に「過剰性」に取り憑かれている、というバタイユの洞察からくるものです。人間の欲望はとどまることを知らず、放っておくとどんどんと増殖していく。この「過剰性」をどのように処理するかが「普遍経済学」の課題である、とバタイユは考えていました。

  

呪われた部分 有用性の限界 (ちくま学芸文庫)

呪われた部分 有用性の限界 (ちくま学芸文庫)

 

 

 

 

 これは「稀少性」を前提とする通常の経済学とはまったく逆の考え方です。通常の経済学では、財が基本的に有限で稀少性をもっており、この稀少な財をもっとも効率的に配分するのが自由市場のしくみである、という風に考えます。このような経済学の考え方は、1870年代にメンガーワルラス、ジェボンズらによって樹立された限界効用理論に基いています。バタイユの「普遍経済学」は、このような限界効用理論を根底から疑うような構想をもっていました。

 

 未開社会や古代社会ではこのような「過剰性」を「消尽consumation」あるいは「蕩尽consommation」という方法によって処理していた、とバタイユはいいます。『呪われた部分』のなかでバタイユは古代メキシコのアステカ族を例にとっていますが、未開社会や古代社会では「栄誉」がもっとも重要な価値基準でした。アステカ族では、「祝祭」の際には共同体の王は自らの富を気前よく民衆のために「浪費」する必要がありました。「祝祭」の際にケチケチとしているようでは共同体の王は務まらない。ふだん民衆より上の立場にたって偉そうに振る舞っているかわりに、「祝祭」や「戦争」などの場面では、「至高の地位」に立つ王が蓄積した富を放出し、民衆のためにそれを「浪費」しなくてはならない。それは何よりも王の威厳を示すための行為でした。

 

「古代のメキシコでは、気前のよさが王の特性のひとつであった。しかし王も、民の共同の期待に応じて行動すべき人のひとり、たんにもっとも富める者にすぎなかった。富者、貴族、商人たちも、それぞれの力に応じて、民の期待に答える必要があった。有力者は祝祭で財を浪費するために、富を蓄積しておかねばならなかった。高位の人々や商人たちは、奴隷を神の生け贄に捧げた。そして習俗と栄誉を保持する願いから、豪奢な宴会を催さねばならなかった」

(『呪われた部分、有用性の限界』ちくま学芸文庫、77頁)

 

 このように、古代メキシコでは王だけでなく、富者、貴族、商人たちもそれぞれの力に応じて、民の期待に答える必要がありました。公的な宗教に結びついた祝祭は、富める者たち、とくに商人たちが催したもので、そのような場では商人もまた、「利害の原則に厳密には従わず、値段の駆け引きなしで取引をおこない、交易者としての栄誉ある気品を保っていた」(同書、74頁)。「アステカの『商人』たちは、売るのではなく、贈与による交換をおこなっていたのである」(同上)。

 

 ときには破産してしまうほど気前よく貯めこんだ富を浪費すること、それによって共同体の習俗と個人の栄誉を保つことこそが重要であるとされたのです。そこでは「利害の原則」とは全く異なる原理が働いていました。「アステカの商人の『栄誉ある行動』について語ってきたことは、西洋の非人間的な文明が依拠している有用性の原則に、異議を申し立てるものである」とバタイユは書いています。

 

 古代アステカ族だけでなく、未開社会や古代社会に広く見られたこのような「蕩尽」のあり方は、近代以降の資本主義市場を唯一の「経済」のあり方と考える今日の経済学を相対化し、それとは別のかたちの「経済-社会」がありえるという可能性をわれわれに見せてくれます。以前に柄谷行人『世界史の構造』に関する記事のなかで書いたように、交換様式C(=商品交換)ではなく交換様式A(=互酬)が中心的な原理となっている社会-経済のあり方を、バタイユは的確に示してくれています。

 

いくつかバタイユの印象的な記述を引用しておきましょう。

「ポトラッチのもつ意味は、喪失という栄誉がもたらす効果にある。この営みから、貴族の身分、名誉、階層構造における地位が生まれる。もっとも多く贈与する者に、栄誉が与えられるのである。」

「しかしかつて富は、権力を獲得することであったが、その権力は喪失する権力だったのである。過去の時代の大衆にとって、財産は栄誉ある者、至高の存在、浪費によって失う必要性のもとに置かれた〈高さ〉と結びつけられていたのである。」

「産業社会となる以前の文明では、富者は祝祭の費用を支払わされていた。もっとも有力な者は、突然の浪費にそなえて、予備の富を蓄えていたのである。人々の労働が富を創出し、富める者がこの富を蓄積する。共同体はこの富のすべてを、栄誉ある形で一挙に浪費する――過剰さへの欲求の外に、いかなる欲求も満たさずに」

「富という語に、この〈名誉の高さ〉という意味が、まだ木霊のように共鳴している」

 「かつては祝祭は、惨めな多数者に開かれたものだった。祝祭によって社会的な秩序が転倒し、奴隷が主人であり、主人が奴隷に奉仕することもあったのである。祝祭には富という意味があった。」

  

  「祝祭」とそこにおいてなされる「蕩尽」という贈与は、「過剰」を処理することによって共同体を活性化させ、地位ある者の栄誉を高めるとともに、特定の人々に富が独占されないように、その共同体の経済-社会のバランスを保つためになされる公共的な営みだったのでした。もし祝祭の原則に反して、祝祭が私的に催されるようになると、富のもつ自然な輝きは薄れてしまう。「壁の背後でこっそりと隠れて催される祭は、富の輝きを横領する」。 

 

 しかし近代に入って、経済のしくみが「資本主義」へと移行すると、このような祝祭-蕩尽のしくみは衰退していきます。資本主義経済では「過剰なもの」を特定の資本家が蓄積し、それを民衆に気前よく「贈与」することはなく、蓄積した富をさらなる余剰の生産にむけて投資していく(先送りしていく)ようになります。その結果として、「余剰なもの」が「蕩尽」「消尽」されることなくどんどんと社会のなかに増殖していく。バタイユはここに近代社会の病理を見ていました。この点については次回の記事で詳しく見ていくことにしましょう。

 

 

バタイユ: 呪われた思想家 (河出ブックス)

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バタイユ―消尽 (現代思想の冒険者たち)

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バタイユ

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