草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

成熟社会における「暇と退屈」の問題――國分功一郎『暇と退屈の倫理学』から考える Part1

 一昨年に出版された國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』は紀伊国屋じんぶん大賞2011を受賞するなど、大きな話題を呼びました。この本が人文書では異例のヒットとなったのは、この本のテーマがすぐれてアクチュアルなものであり、成熟社会に生きるわれわれにとって極めて重要な問題を扱ってる、と多くの読者に感じさせる何かがあったからだと思います。すなわちそれが「暇と退屈」の問題です。

 

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

 

 

 以前の記事で、ケインズの「孫たちの世代の経済的可能性」というエッセイについて紹介しました。繰り返しておけば、ケインズは1930年の時点で、今から100年たてばおそらくほとんどの経済的問題は解決しているであろう、真の問題は人間が「必要のための労働」から解放されたときに、どのようにして与えられた余暇(自由時間)を過ごすかである、と論じていたのでした。これは言いかえれば、生産性が十分に向上した成熟社会において、われわれは「暇と退屈」の問題といかに向き合っていくべきなのか、という問題でもあります。

 

 國分功一郎さんによれば、「暇と退屈」は人類がその歴史のなかで長く抱えてきた社会的・文化的哲学的問題のひとつです。当然のことながら、それは現代において初めて生じてきた問題ではなく、約1万年前に定住革命が起こって以来、人類が延々と抱え続けてきた問題です(この本では哲学的な議論だけでなく、こういった超マクロ的な人類史の話題が挿入されているのも面白いところのひとつです。定住革命以前の人類には「暇と退屈」の問題は生じなかったのか、という論点は気になるところではありますが)。どのように「暇と退屈」と向き合うか、という点において各時代・各社会の特徴が形作られてきたと言うことができるかもしれません。

 

 それゆえ、「暇と退屈」といかに向き合うか――いかにして「暇」を過ごし、「退屈」に陥らないようにするか――という問題は、定住革命以後の人類が長らくさまざまなかたちで向き合ってきたものであった。國分さんは多くの哲学者の「暇と退屈」に関する分析・思考を紹介しながら、その歩みを紹介していきます。どの哲学者の議論も興味深いものばかりですが、とりわけ本書の白眉と言うべきはやはりハイデガーの退屈論に関する議論でしょう。

 

形而上学の根本諸概念―世界‐有限性‐孤独 (ハイデッガー全集)

形而上学の根本諸概念―世界‐有限性‐孤独 (ハイデッガー全集)

 

 

  國分さんが紹介しているハイデガーの退屈論は、『形而上学の根本諸概念』講義において展開されているものですが、ここでは詳細を省いてごく簡単にその内容を紹介します(詳しくは『暇と退屈の倫理学』第四章を読んでください)。ハイデガーは退屈の形式を大きく以下の三つに分けています。

 

退屈の第一形式:何かによって退屈させられること。

退屈の第二形式:何かに際して退屈すること。

退屈の第三形式:なんとなく退屈であること。

 

  國分さんも詳しく紹介しているように、この三つの退屈形式に関してハイデガーが挙げている具体的な事例が非常に面白い。第一形式では駅舎で列車を待っている際の例、第二形式では友人宅でのパーティでの例、という具合に(やはり詳細は國分さんあるいはハイデガーの本を読んでください)。

 さてハイデガーにとってこの三つの形式のうちで最も深いのは、第三形式の退屈です。第一形式の退屈も第二形式の退屈も、第三形式 の退屈:「なんとなく退屈だ」という声を隠すために行なわれていた物事から生じる二次的な退屈にすぎない。そして第三形式の退屈が示しているのは、人間が「自由」であることの可能性であり、その自由は「決断すること」によって初めて現実のものとなりうる、とハイデガーはいう。ここにハイデガー哲学の「決断主義的」な要素が表れていると見ることができます。*1

 

 國分さんはハイデガーの退屈論を、「暇と退屈」の問題にたいする優れた哲学的思考として紹介しつつ、ハイデガーが結論として導き出す「決断主義的」な解決策にたいしては 違和感を表明しています。ハイデガーは「決断」することによって人間は「退屈」から解放され「自由」になるというが、それはむしろ「決断の奴隷」になることを意味しているのではないか(この点に関しても詳しいロジックは原書を参照のこと)。ハイデガーは「決断後の主体」について十分に思考していないのではないか。

 

 それに対して國分さんが提示する処方箋は、むしろ暇を暇として楽しむこと、暇つぶしのための「気晴らし」をより豊かで贅沢なものとし、それを味わい尽くすことによって、「暇と退屈」の問題を乗り越えるというものです。そのためには、気晴らしを楽しむためのある種の「訓練」が必要になる。例えば、ハイデガーが退屈の第二形式で示していたような、パーティーの席で(気晴らしをしつつも)退屈してしまう人に関しては、その場の料理を楽しみ、葉巻の香りや味わいを楽しみ、友人たちとの会話を豊かなものにするための、ある種の「訓練」や「知識」を身につけてみればどうだろうか。退屈の第一形式のように、駅舎で列車を待つ人に関しては、豊かな暇つぶしの仕方、あるいは暇を暇として楽しむ仕方を身につけることによって、安易な「決断」へと流れない「主体」や「自由」のあり方を見いだせるのではないか。

 

 また、そのように暇を楽しむための訓練をする、というのが人間的な解決方法であるとすれば、同時に動物的な解決方法として、ひとつの物事に「とりさらわれる」ことを学ぶこと、簡単にいうとひとつの物事に熱中して楽しむあり方を学ぶことを、國分さんはもうひとつの解決方法として提示しています。ハイデガーはユクスキュルの環世界(Umwelt)論を参照しつつ、ひとつの環世界において「とりさらわれる」動物と、複数の環世界を行き来できる(世界に住まうことができる)人間とを区別して、人間を動物より高尚な存在者として位置づけます。しかし國分によれば、ひとつの環世界に「とりさらわれる」ことは必ずしも不幸なことでも貧しいこともでなく、むしろもっとポジティブな要素を秘めた状態でありうることを主張しています。

 

 以上のように、「人間であることを楽しむこと=贅沢を取り戻すこと」と、「動物になること=とりさらわれること」とが、國分さんの提示する「暇と退屈」の問題へのひとまずの処方箋である、ということになります。 とりわけ重要だと思われるのは、「暇と退屈」を豊かで贅沢なものとして享受するために、われわれが一定の「訓練」を積む必要があると述べられている点です。

 國分さんはこれをウィリアム・モリスの言葉を借りて、次のように表現しています。「わたしたちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない」

 

ユートピアだより (岩波文庫)

ユートピアだより (岩波文庫)

 

 

ウィリアム・モリスのマルクス主義 アーツ&クラフツ運動の源流 (平凡社新書)

ウィリアム・モリスのマルクス主義 アーツ&クラフツ運動の源流 (平凡社新書)

 

 

  私自身も、以上のような國分さんの見解に基本的には賛同します。とりわけ、「暇と退屈」を楽しむための訓練や知識を「教養Bildung」の観点から捉え返してみれば、「学問」や「勉強」(学ぶこと)が成熟社会における「暇と退屈」問題を解決するためのひとつの答えになりうるという可能性が示されているように思います。そうであるとすれば、自分のように学問にたずさわる者にもまた微力ながら、現代の「暇と退屈」問題の解決に寄与する一助となりうるのかな、と考えたりもしています*2

 國分さんの『暇と退屈の倫理学』のような哲学書を読み、その感想を話し合ったり、議論しあったりするような「楽しみ方」がまさにその可能性を示しているとも言えるでしょう。

 

 それと同時に、國分さんが示した処方箋とは別の「暇と退屈」への向き合い方もあるのではないか、という思いも個人的には持っています。それは以前にマルクスの未来社会論を通じて言及したことのある、「労働」の未来についての議論です。「暇と退屈」は通常、「労働」と反対のところにあるものだと考えられているのですが、成熟社会における「暇と退屈」の変化にともなって「労働」はどのようなものになっていくのか。実は、成熟社会では「労働時間」と「余暇時間」の境界線は極めて曖昧なものとなり、労働時間における活動と余暇時間における気晴らしが一体化してくるのではないか。大まかに言えば以上のような観点に基づきつつ、改めて未来社会の「労働」と「余暇」の問題について、次回の記事で考えなおしてみたいと思います。

*1:ハイデガーの哲学が本質的に「決断主義的」な性格を持ったものであったかどうかについては様々な議論が存在します。ここで示されている「決断主義的」な解決策は、この講義が行われた1929-1930年という時期〔ドイツではワイマール体制の限界が露わになり、ナチスが台頭を始めた時期。あわせて世界大恐慌が起こり、やがて来る第二次大戦に向けての不穏な空気と閉塞感が広がりつつあった時期〕も大きく影響している可能性があります。詳しくは、小野紀明ハイデガーの哲学』などを参照ください。

*2:ただし、國分さん自身は彼のいう「楽しむための訓練」がいわゆる「教養」のようなハイカルチャーだけを意味しているのでなく、美味しい料理を食べたり、映画を楽しんだりといった、日常的な「楽しみ」のうちにおける訓練であることを強調している