草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

「経済成長」のイデオロギーを超えて-資本主義のオルタナティブを構想する 再論

 マルクスは「資本」の本質を「価値の無限増殖運動」に見定め、これをG-W-G´という定式で表しました。資本主義はつねに「さらなる経済成長」を求める運動であり、その欲望はとどまるところを知りません。その社会の経済水準がどのようなレベルに達していようとも、「もっともっと」と利潤の増加を追求するのが資本の性質です。「資本としての貨幣の流通は自己目的である。なぜかというに、価値の増殖は、ただこのたえず更新される運動の内部においてのみ存するのだからである。したがって、資本の運動は無制限である」(『資本論』岩波文庫版、第一分冊、265頁)。

 

資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)

資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)

 

 さらにマルクスが行った重大な発見は、資本の無限増殖運動G-W-G´という定式が、Wの位置に労働力という特殊な商品を代入することによって成立するものである、ということでした。なぜなら労働力という商品だけが、それが使用(消費)されることによって新しい価値(剰余価値)を生み出す、という特殊な性質を持っているからです。それゆえ、資本主義という経済システムは、労働力という人間に内在する能力を強制的に「商品化」することによって成立しています。歴史的にこの商品化は「資本の本源的蓄積」と呼ばれる暴力的過程によって実現されました。その過程には国家の強制力(暴力)が関与しています。

 

 カール・ポランニーが『大転換』のなかで指摘したように、土地や貨幣とともに労働力という生産要素は本来「商品化」に馴染まない性質をもっています。しかし資本主義はそれを擬制的に「商品化」することで、その無限増殖運動を可能にしている。労働力が生産過程で生み出した剰余価値(利潤)をその都度ごとに使い切るのではなく、次回の生産過程にむけて蓄積し再投資することによって、より剰余価値を増殖させていく、というのが資本の運動である。この運動は無限に続き、資本は絶えまなく自己増殖を繰り返していく。

 

[新訳]大転換

[新訳]大転換

 

 しかしその運動は限度を知らないがゆえに、どこかの時点で破局を迎えるだろう、というのがマルクスの考えでした。そしてその破局は「恐慌」というかたちで訪れるであろう、と。このような恐慌は過剰生産によってもたらされる、というのが一般的な理解ですが、日本のマルクス経済学者・宇野弘蔵は、恐慌をもたらす契機となるのは「労働力商品」である、という説を提示しました(『恐慌論』)。

 

恐慌論 (岩波文庫)

恐慌論 (岩波文庫)

 

 労働力だけは資本が自由に作り出すことのできない特殊な商品であるがゆえに、好況時に労働力が不足しても資本家はそれを思い通りに補充することができない。結果として賃金が高騰して資本の利潤が徐々に低下する、最終的にいずれかの時点で突如として恐慌が訪れる。本来商品化に適さない労働力を擬制的に商品化して資本主義を駆動させていたことから来るこのような恐慌=資本主義の限界を、宇野弘蔵「労働力商品化の無理」というテーゼで以って表現しました。

 

 そして現代の日本経済もまたこのような「資本主義の限界」に行き当たりつつあるのではないか、というのが僕の見立てです。といっても、すぐに「資本主義が終わる」という素朴なマルクス主義論を展開したいのではありません。現実はそう単純ではありません。資本主義という経済システムはこれからも当分の間続いていくことでしょう。しかし、資本主義が今後もこれまでと同じく「価値の無限増殖運動」を続けていけるかといえば、それは怪しいのではないか。これは資本主義という経済システムが悪いから・間違っているから、という理由ではなく、日本経済が「成長」段階をすぎて「成熟」段階に入っているから、という理由です。成熟段階とは、一国の経済水準(国民の生活水準)が相当程度にまで向上し、経済成長が停滞する段階、という意味です。下図を見ると、日本の経済成長率は約20年間ごとに段階を経て下降してきていることがわかります。

 

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  とくに91年のバブル崩壊以降の長期不況は「失われた20年」とも呼ばれ、日本の経済政策が失敗したことがその停滞の原因であったのではないかと言われています。現在、アベノミクスの名のもとに「異次元の経済政策」が実施され、これまでのところ順調な成果をあげているように見えます。しかし僕は個人的に、このアベノミクスによる好況がどれだけ持続するのか、懐疑的な立場をとっています。2年間でマネーサプライを2倍にする、というリフレ政策はたしかに「異次元」のものですが、そのような大型の金融緩和は同時に大きなリスクを伴います。

 

 異次元のレベルで刷られたおカネが国内市場での消費や投資などへきちんとまわれば問題はないのですが、もしそのおカネが実体経済に落ちず、株式や先物市場などの投機へとまわればそれが資産バブルを引き起こし、経済全体を不安定化させることに繋がるでしょう。実際に、02-06年にかけて日銀が行った量的金融政策は、アメリカの住宅バブルの要因のひとつとなり、サププライム危機(リーマン・ショック)を引き起こしたという指摘もなされています。今回のリフレ政策もそのような結果(恐慌!)を引き起こす可能性は決して低くないでしょう。

 

リフレはヤバい (ディスカヴァー携書)

リフレはヤバい (ディスカヴァー携書)

 

 またアベノミクスのリフレ政策が目標として掲げている「デフレ脱却」も、もし仮にそれが実現されたとしても、そのことが日本経済にとって本当に良いことなのかどうかは分かりません。これは実際、現在起こっていることですが、たとえ消費者物価指数が上昇したとしても、その内容がエネルギーや食料品の値上がりで、それが国民の所得(賃金)上昇を伴わないのであれば、多くの国民にとってむしろ生活は苦しくなるでしょう。内田樹さんも指摘されているように、大企業の利益上昇と国民生活の向上が結びつかなくなったのが「グローバル化時代」の特徴です。インフレになれば景気が上昇する、というリフレ派が掲げる命題は、必ずしもあらゆる経済段階に当てはまるものではありません。

 

脱グローバル論 日本の未来のつくりかた

脱グローバル論 日本の未来のつくりかた

 

 ごく簡単ではありますが、以上が僕がアベノミクスに懐疑的な理由です。正確には、アベノミクスに懐疑的というよりは、日本経済が今後もこれまでと同様、右肩上がりで成長し続けられるはず、という「経済成長主義」の考え方に懐疑的だ、というほうが適切なのですが。とはいえ、僕は「経済成長」そのものを否定しているわけではありません。一国の経済段階では「経済成長」が適切な時期もあるだろうと思います。ただし、日本社会はもはやそのような「成長段階」を抜け出てしまったのではないか、いまやこれだけ日本経済は豊かになったのだから、無理をしてさらなる経済成長を目指すよりも、現在の経済レベルを保持しつつ、成熟社会(少子高齢化社会・人口減少社会という意味でもあります)に適した社会の仕組みを創っていくことを目指したほうが良いのではないか、というのが僕の主張です。

 

成熟日本への進路 「成長論」から「分配論」へ (ちくま新書)

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成長なき時代の「国家」を構想する ―経済政策のオルタナティヴ・ヴィジョン―

成長なき時代の「国家」を構想する ―経済政策のオルタナティヴ・ヴィジョン―

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  マルクスがG-W-G´という定式で的確に示してみせたように、資本主義は飽くことなく価値の無限増殖を求めます。しかし、我々の経済-社会にとって、そのような資本の無限増殖の要求に従い続けることが、本当に我々の「豊かさ」に繋がっているのかどうか、我々は改めて問いなおしてみる必要があると思います。もし我々の社会が資本の無限増殖運動に適応するのが困難な段階に来ているのだとしたら、資本の要求に従うことは必ずしも我々を「豊か」にしてくれるとは限らないからです。

 

 これもマルクスが喝破したように、資本の限界と矛盾は労働力という人間身体の一部に表れてきます。非正規雇用の増加や格差の拡大、ワーキングプア問題やブラック企業問題、失業率の上昇など、現代の日本経済で「労働」をめぐる問題が頻発していることも、その表れのひとつだと考えて良いでしょう。前回の記事で「なぜこれほど豊かな社会で我々はこんなにも働いているのか?」という問いを改めて提示しましたが、そのもうひとつの答えは、我々の社会が「成熟」段階に達しているにもかかわらず相変わらず「成長」段階の仕組みで物事を乗り切ろうとしているから、ということだと思います。

 

経済成長神話の終わり 減成長と日本の希望 (講談社現代新書)

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移行期的混乱―経済成長神話の終わり

移行期的混乱―経済成長神話の終わり

 

 資本主義を敵視したり、資本主義を終わらせようとしたりする必要はないけれども、成熟段階に到達した我々の社会は、少なくとも一部に「非-資本主義的」な仕組みを取り入れていく必要がある、いいかえれば「資本主義のオルタナティブ」を探す試みを始めなければならない、このことくらいは認識しておいたほうがいいでしょう。

 

 とりわけ人間の生life〔生活・生命〕にかかわる「働くこと」に関しては、資本主義の論理を徹底化させることが正しいことだとは必ずしも限りません。市場を円滑に機能させるため、雇用の流動化を徹底的に進め、雇用に関する規制をすべて取り払ってしまおう、という新自由主義的な主張がまさにそれです。むしろ意識的に「非-資本主義的な論理」を取り入れることによってこそ、経済-市場も安定的に機能することができるようになるはずです(「働くこと」に関して多くの法律や規制が存在するのはそのためです)。面倒だから・非合理的に見えるからという理由で、すべての雇用規制を緩和してしまおうとするのは大きな誤りです。

 

 資本主義を絶対化しないこと、社会のうちに「非-資本主義的なもの」を敢えて取り入れること、経済成長以外の「豊かさ」を見つけること。成熟社会に生きる我々に求められているのは、このようなことではないか。そのためにマルクスの経済思想を虚心坦懐にもういちど見直すことは大きな意義をもつに違いありません。マルクスの言ったことを教条的に鵜呑みにするのではなく、資本主義の本質を分析し、資本主義の原理を疑い、資本主義のオルタナティブを見つけるための手がかりとする。このブログで考えていきたいのはそういうことです。