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草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

マルクスの両義的労働観-マルクスの未来社会論から考える2

 前回からの続き。

 前回の記事では、マルクス来るべき未来社会においては、「労働Arebeit」が生命維持のために行われる強制的で苦痛な営みではなく、行為それ自体を目的として行われるような「活動Tätigkeit」になると考えていたことを書きました。この発想は、初期マルクスの『経哲草稿』における労働疎外論や『ドイツ・イデオロギー』における分業廃止論から、中期マルクスの『経済学批判要綱』へと、さらには後期マルクスの『資本論』や晩年の『ゴータ綱領批判』へと、発展的に継承されています。

 

 このようなマルクスの労働未来論の根底には、マルクスの肯定的な労働観があります。マルクスは労働疎外論を唱えたことなどから、否定的な労働観を持っていたと評されることもありますが、おそらくそれは誤解です。マルクスは、労働とは本来「食うために働く」以上の豊かな意義をもった、人間にとって本質的な営みであると考えていました。若き日の『経済学・哲学草稿』の表現を借りれば、マルクスにとって、労働とは「人間と自然の物質代謝」であり、「人間の類的本質」を確認する営みであり、疎外状態を抜けだして「自己実現」するための営みであった。今日風にいえば、「他者からの承認」を獲得する契機もここに含めても良いかもしれません。

 

経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2)

経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2)


 実際にマルクスは『経済学批判要綱』のなかで、アダム・スミスの否定的な労働観を批判して次のように言います。アダム・スミスは「汝、額に汗して労働すべし!」というエホバがアダムに与えた呪詛(のろい)と同様に、「労働を呪いと考えている」(MEGAⅡ/1.1, S.499)。つまりスミスにとって労働は「骨折り損の仕事(toil and trouble)」なのであり、一種の犠牲的行為であると捉えられている。このような労働観は、労働を負の効用において捉える現在の主流派経済学においても引き継がれていると言ってよいでしょう。

 

国富論〈1〉 (岩波文庫)

国富論〈1〉 (岩波文庫)


 しかしマルクスによれば、「こうした障害の克服はそれ自体が自由の実証」であり、真の労働とは「自己実現、主体の対象化、それゆえに真実の自由」をもたらすような積極的・創造的活動である。アダム・スミス的な労働犠牲説からは、このような労働の肯定的側面が見失われてしまうであろう。ここにアダム・スミスの否定的労働観とは対照的な、マルクスの肯定的労働観がよく表れています。「労働の活動への転化」、およびそれを通した「豊かな個性の十全な発展」という構想も、このようなマルクスの肯定的労働観にもとづくものだと考えられます。

 しかし他方で、『経済学批判要綱』段階でのマルクスは、『ドイツ・イデオロギー』の段階におけるユートピア的労働観とはやや異なった記述を残してもいます。例えば「労働は、フーリエの望むように、遊びとはなりえない」と述べられている箇所です。フーリエは「空想的社会主義者」の代表的人物として知られる思想家ですが、彼は『産業的協同社会的新世界』(1829)という著作のなかで、社会の生産力向上にともない、労働が強制的で苦痛を帯びた営みから、労働それ自体を喜びとするような「魅力的な労働」に発展するというユートピア的な未来社会論を展開しました。

 

 

 このまとめだけを読むと、それがマルクスの労働未来論とまったく同じものであるように思われるでしょうが(そしてマルクスはおそらくフーリエの労働未来論から少なからず影響を受けているはずなのですが)、マルクスはこのようなフーリエの見通しが楽天的であるとしてこれを批判しました。

 

だが労働が魅力的な労働、個人の自己実現になるといっても、このことはなにも、フーリエが浮気なパリ娘のようなひどい素朴さで理解しているように、労働がたんなるおどけや、たんなる娯楽となるということを決して意味するものではない。真に自由な労働、たとえば作曲は、同時にまったく大変な真剣さ、はげしい努力なのである。」(MEGAⅡ/1.1, S.499)

 

  ここでマルクスは、理想社会においても労働がたんなる遊戯や娯楽的営みとなるのではないことを強調しています。マルクスによれば、理想的・創造的な労働は、喜びや自由さと同時に非常な努力や緊張を必要とする営みでもある。マルクスが労働を理想的・楽観的に捉えているだけでなく、同時にそれが厳しい努力や緊張を必要とする行為だと認識していることは、『資本論』第一巻・第五章「労働過程」の記述からも確認することができます*1 。そこではアダム・スミスの否定的労働観にも類似するような、労働苦の消極面・負の側面が強く押し出されており、マルクスには理想的・積極的な労働観と現実的・消極的な労働観の両面が存在していることが伺えます*2

 

資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)

資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)


 理想社会においてなお、自由な労働にある種の勤勉さや絶えざる努力を求めようとするマルクスの理想は、自由時間の活用についての記述にも表れています。マルクスにとって、自由時間は単なる余暇時間ではなく「高度な活動にとっての時間」でなければならない。その時間は「成長しつつある人間」にとっては「訓練」Diziplinであり、「成長した人間」にとっては実践・科学・運動〔体育〕excerciseである。これらの時間を通じて、諸個人はより発展した段階の主体=「社会的個体」へと進化することが期待されている。自由時間に対応するのは、芸術・科学などの教養Ausbildungであり、これが労働主体を陶冶Ausbildする

 

 これらの記述からは、マルクスがポスト資本主義における労働を楽天的に捉えるのではなく、むしろかなり規範的に捉えていたことが分かります。資本の歴史的使命の一つが「厳格な規律を通じて勤勉(Arbeitsamkeit)を一般的財産として普及させること」であるとしていることからも、マルクスが資本主義的な勤勉精神を蔑ろにしているのではなく、むしろ豊かな未来社会を実現するために必要な要素として見なしていることが分かります。

 こうして見ると、マルクスの労働観は、スミスに代表される古典派経済学の労働犠牲説・否定的労働観とは異なるものの、労働を規範的行為と捉え、それがより豊かな生産能力と享受能力を発展させると考える点では、プロテスタンティズム的な労働倫理と資本主義的な無限成長モデルを維持しているようにも思えます。

 

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

 

 従来のマルクス主義者はこの逆説にどれほど意識的であったか、怪しいところです。『経済学批判要綱』は多くのマルクス研究者によって好意的に評価されてきましたが、そこに資本主義的な労働観や成長モデルが引き継がれていることを指摘したものは、おそらくほとんどありません。とりわけこの逆説は、今日の新自由主義における「労働の自己実現」賛美と、余暇時間を自己成長のために当てよと命ずる自己啓発モデルを想起するときに、より深刻な問題として意識されてくると考えられます。

 

 もちろん、マルクスの労働未来論における構想が現代の新自由主義の自己実現論と通ずるところがあるからといって、マルクスの思想がまったく無効なものになるということではありません。むしろ、このことはマルクスの構想が現代経済にまで射程の及ぶ卓見であったことを証明するものであると言えるでしょう。ただし、従来のマルクス主義者がそうしてきたように、マルクスの資本文明化論や労働未来論を手放しで受け入れて、これを称賛するということはもはや我々にはできません。マルクス未来社会論がもつ意義とその危うさを同時に捉えつつ、その現代的有効性を問いなおす作業が私たちに求められているものだと言えるでしょう。

*1: 『資本論』の労働過程論では、労働が「まず第一に、人間と自然との間の一過程である」ことが確認されたうえで、それが自然の形態変化を引き起こすとともに、労働者の目的を実現するものであると述べられている。そのためには、労働者は自分の意志をその目的に従わせなければならず、「労働する諸器官の緊張のほかに、注意力として現れる合目的的な意志が労働の継続期間全体にわたって必要である。」「しかもそれは、労働がそれ自身の内容とその実行の仕方とによって労働者を魅することが少なければ少ないほど、したがって労働者が労働を彼自身の肉体的および精神的諸力の自由な営みとして享楽することが少なければ少ないほど、ますます必要になるのである。」

 これらの表現からは、マルクスが労働を否定的に捉えているわけではないものの、それを単純に喜びに満ちた行為と捉えているわけでもなく、「諸機関の緊張」や「合目的的な意志」を必要とする厳しさを持ったものと考えていることが理解されよう。労働にはときに苦痛が伴うこと、そしてその労働苦を克服することこそが、労働という主体的活動の特徴であることが強調されている。

*2:参照、津戸正広「<論説>自由な時間と労働 : マルクスの「1857-58年草稿」を中心にして『大阪府立大學經濟研究』 39(3), 71-85, 1994