なぜ「仕事で自己実現」は人気がなくなったのか?-マズローの5段階欲求説から考える
前回は社会的企業について書きました。起業の目的が「お金儲け」から「社会貢献」に変化してきているのではないか、という話でした。これと同じような変化が個人の働く意識レベルでも起きているのではないか、というのが今回の話です。
最近の若者は働くことに「自己実現」を求める傾向がある、なんて言われたりします。自己実現幻想、というやつですね。『グローバル時代の人的資源論―モティベーション・エンパワーメント・仕事の未来』という本でも渡辺聰子さんが、ポスト近代社会では「仕事における自己実現至上主義」傾向が進む、という話をされていたりします。
グローバル時代の人的資源論―モティベーション・エンパワーメント・仕事の未来
- 作者: 渡辺聰子,アンソニー・ギデンズ,今田高俊
- 出版社/メーカー: 東京大学出版会
- 発売日: 2008/04
- メディア: 単行本
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渡辺さんは有名なマズローの「欲求5段階説」に依りながらこれを説明しています。マズローの「欲求5段階説」とは、心理学者のマズローさんが提唱したもので、人間の欲求を以下の5つに分類し、人間の欲求は(1)から順に低次の段階が満たされると高次の段階へ移行していくようになる、という仮説です。
(1) 生存欲求(生理的欲求)
(2) 安全欲求(安全に対する欲求)
(3) 所属欲求(愛情と帰属に対する欲求)
(4) 承認欲求(自尊心に対する欲求および社会的地位や評判に対する欲求)
(5) 自己実現欲求
少々単純すぎる気もしますが、同時になんとなくうまく人間の欲求を説明してくれている気もするので、企業のキャリア研修なんかでよく使われていたりします。
〔図〕マズローの5段階欲求説
渡辺聰子さんによれば、ポスト近代社会では (1)~(4)の欲求はすでにそれなりに満たされてしまっているので、今後重要になっていくのは(5)自己実現欲求の段階だろう、とされています。「労働」の場面においてもその傾向は認められ、「労働人口のかなりの部分が、仕事に対して物質的報酬以上のものを期待しており、彼らにとって仕事は自負心を満足し、人生に意義を与える重要なものとなっている」(『グローバル時代の人的資源論』74頁)のだそうです。
産業構造の中心が第二次産業(製造業)から第三次産業(サービス・情報業)へと移行するなかで、徐々に生活水準が向上し、生理的欲求や物質的欲求が一定程度満たされるようになると、人間の欲求は「所属」「愛情」や「承認」「自己実現」などの精神的次元へと移行するだろう、というのがマズロー欲求5段階説から導かれる推定です。渡辺さんのいう「仕事における自己実現至上主義」とは「仕事の第一義的意味は自己実現であるとする仕事観であり、仕事は何よりもまず生きがいを与え、自己発展のプロセスとなるものでなければならないという考え方」だそうです。渡辺さんは独自のインタビュー調査や理論考察に基づきつつ、この仮説を裏付けています。
- 作者: A.H.マズロー,小口忠彦
- 出版社/メーカー: 産能大出版部
- 発売日: 1987/03/10
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しかし昨今では、むしろこのような「仕事における自己実現至上主義」を批判する風潮のほうが強くなっているように思われます。曰く、「仕事に自己実現なんて求めるほうが間違っている」「そういった甘っちょろい考え方で仕事に臨まれても困る」「そもそも実現すべき"本当の自己"なんてあるのか」「これだから最近の若者は…」といった感じで、年長者による若者批判のバリエーションの1つとして否定的に言及されることが多い。実際に最近の就活では志望動機などで「自己実現」という単語を使わないほうがよい、といった指導もなされているようです。
- 作者: 速水健朗
- 出版社/メーカー: ソフトバンククリエイティブ
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- 作者: 田中和彦
- 出版社/メーカー: 大和書房
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豊田義博『就活エリートの迷走』(ちくま新書)では、自己実現ストーリーに基いたES対策、面接対策に長けた「就活エリート」 たちが、実際に入社してみると仕事面でいかに使えない人材であることが分かり、採用マッチングに重大な問題をきたしていることが書かれていました。自己実現幻想をもって有名企業に入社してきた「就活エリート」たちは、実際に働き始めてちょっとした壁にぶつかるとすぐに「これは俺のやりたい仕事じゃない」「この職場では俺の夢は実現できない」という風に考えてしまい、挫折してしまうのだそうです。
- 作者: 豊田義博
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2010/12/08
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また若者の雇用問題に詳しい教育社会学者の本田由紀さんが提唱した「やりがいの搾取」問題も、「仕事における自己実現主義」を後退させた要因のひとつであると考えられます。「やりがいの搾取」とは、仕事に「やりがい」を求める若者たちを利用する企業が、低賃金や劣悪な環境のもとで長時間働かせるという「搾取」的な事態が生じていることを問題として提起された概念です。もともとは阿部真大さんが自身のバイク便ライダー経験を元にして書かれた『搾取される若者たち ―バイク便ライダーは見た!』 (集英社新書)の中で提唱されている「自己実現ワーカホリック」に本田さんが触発されて、その事態をさらに精緻に理論化し考察を深めたものです。
- 作者: 本田由紀
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
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搾取される若者たち ―バイク便ライダーは見た! (集英社新書)
- 作者: 阿部真大
- 出版社/メーカー: 集英社
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- 作者: 阿部真大
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このように、ここ10年くらいの間に「仕事における自己実現主義」は不人気になってしまいました(もちろん一部には、現在でも「仕事で自己実現」を煽る就活本や自己啓発本などがあり、それを実践している人たちもいるのですが)。そこで「自己実現」の代わりに重視されるようになってきたのが「承認」や「社会貢献」というキーワードです(このことは前回の記事の最後でも少し触れました)。就活などで「御社で自己実現したいです!」というよりも「御社で社会貢献がしたいです!」というほうが何となくイメージが良いのでは、という風潮が高まっているように思われます*1。実際に僕の後輩でも「何か社会の役に立つ仕事がしたい」という発言をする割合が増えているような印象があります。(もちろんそのこと自体は何ら悪いことではないと思います)
なぜこのような変化が起きているのでしょうか。詳しい原因はわかりません。しかし世論調査などの傾向を見ても、この変化を裏づける結果が出ているように見えます。内閣府が毎年行っている世論調査のなかに「働く目的は何か」を訊いている項目があります。
こういう世論調査では質問項目の用意の仕方などによって出てくる結果がずいぶん違うのであまり断定的なことを言うのは難しいのですが、あまり細かいことを気にせずにこの調査結果を分析してみます。この12年間で「働く目的」がどのように変化したのかをまとめると以下のようになります。(前者が平成13年(2001)、後者が平成24年(2012年)の数字。)
1位:「お金を稼ぐために働く」 49.5%→51.1%(+1.6%)
2位:「生きがいを見つけるために働く」 24.4%→20.8%(-3.6%)
3位:「社会の一員として、務めを果たすために働く」 10.0%→14.8%(+4.8%)
4位:「自分の才能や能力を発揮するために働く」 9.0%→8.8%(-0.2%)
これらの回答を思い切ってマズローの5段階欲求に対応させてみるならば、次のようになるのではないでしょうか。(適当)
「お金を稼ぐために働く」⇒ (1) 生存欲求 & (2) 安全欲求
「生きがいを見つけるために働く」 ⇒ (5) 自己実現欲求
「社会の一員として、務めを果たすために働く」 ⇒ (3) 所属欲求 & (4) 承認欲求
「自分の才能や能力を発揮するために働く」 ⇒ (5) 自己実現欲求
細かい説明をし始めると長くなるので省きますが、上記の対応づけが正しいとするならば、この12年間で回答割合に変化が認められるのは、「生きがいを見つけるために働く」 (自己実現欲求)と、「社会の一員として、務めを果たすために働く」(所属欲求&承認欲求) の二つです。「お金を稼ぐために働く」と「自分の才能や能力を発揮するために働く」 は年ごとに微妙な変化はあるものの、大きな変化はありません。
そうするとこの12年間では、「生きがいを見つけるために働く」 (自己実現欲求)の割合が3.6ポイント減少し、「社会の一員として、務めを果たすために働く」(所属欲求&承認欲求) の割合が4.8ポイント増加したことになります。すなわち、この12年間で「仕事に自己実現を求める割合」が4ポイント弱低下したのに対して、「仕事に所属や承認を求める割合」は5ポイント近く上昇し、この二つの「働く目的」が逆方向の変化を示していることが分かります。
つまり「働く目的」として「自己実現」を重視する人の割合がやや低下し、「社会貢献」(あるいは「所属」と「承認」)を重視する人の割合がやや増加しているのではないか、という結論をこの世論調査から導くことができます。*2
また、NHK放送文化研究所が5年毎に行っている「日本人の意識」調査には、「理想の仕事の条件」に関する質問項目がありますが、この調査結果も興味深いものです。
〔図〕NHK放送文化研究所編『現代日本人の意識構造』(第7版、2010年)より筆者作成
- 作者: NHK放送文化研究所,日本放送協会放送文化研究所=
- 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
- 発売日: 2010/02
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この調査では先の世論調査とはまた質問項目などが異なるので比較するには難しいところがあるのですが、とりあえずこの調査についても時系列の変化をまとめてみると以下のようになります。(前者が1973年の数字、後者が2008年の数字)
《健康》 健康をそこなう心配がない仕事:28%→17%(-11%)
《専門》 専門知識や特技が生かせる仕事:15%→18%(+3%)
《仲間》 仲間と楽しく働ける仕事:15%→21%(+6%)
ここでも主要な回答項目をあえてマズローの5段階欲求に対応させてみると次のようになるでしょう。(やや強引ですが…)
《健康》 健康をそこなう心配がない仕事 ⇒ (1) 生存欲求 & (2) 安全欲求
《専門》 専門知識や特技が生かせる仕事 ⇒ (5) 自己実現欲求
《仲間》 仲間と楽しく働ける仕事 ⇒ (3) 所属欲求 & (4) 承認欲求
するとこの調査では、《仲間》=所属欲求&承認欲求 を重視する割合がこの35年間で最も増加しており(+6ポイント)2008年調査では1位、次に《専門》=自己実現欲求を重視する割合の増加が大きく(+3ポイント)2008年調査では2位、《健康》=生存欲求&安全欲求を重視する割合は大きく減って(ー11%)2008年調査では3位、となりました。
先ほどの世論調査とはいろんな点でレベルが違うので単純に一般化することはできませんが、しかしこの調査でも働くなかで「専門知識や特技を生かす」ことよりも「仲間と楽しく働く」ことを重視する傾向が強まっていることが分かります。ここからもやはり「自己実現よりも社会貢献や承認・所属」という労働観の変化を読み取ることができるのではないでしょうか。
※繰り返しになりますが、ここで行った考察は社会学的分析としてはかなり大ざっぱなものなのでおそらくツッコミどころ満載です。そもそもこれらの回答項目をマズローの5段階欲求に対応づけていいのか、という大きな問題点があります。あくまで近年の「労働観の変化」をざっくり読み解くための第一次近似的な考察、とお考えください。何かご批判・アドバイスなどあれば歓迎いたします。
参考記事:
就活:NPO目指す動き活発…狭き門でも「社会貢献を」(毎日新聞)
お金より社会貢献 変わる幸せの価値観(中日新聞 學生之新聞)