読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

「脱成長」は可能なのか?-「成長の限界」と幸福度調査

 前回まで「フリー」や「シェア」によって進められる脱所有・脱消費・脱貨幣の流れは、新しい経済-社会の可能性を開くと同時に、既存の経済市場の規模を縮小させてしまうかもしれない、という話をしてきました。これは言い換えれば、資本主義経済の規模が縮小する一方で非-資本主義経済の規模が拡大する可能性がある、ということです。

 

 ここで非-資本主義経済が何であるかを一言でいうことはできませんが、例えば、非-近代社会(未開社会)で広範に見られるような互酬性(贈与と返礼)の原理がひとつのヒントになるかもしれません。インターネットの普及を契機として、成熟社会の進行とともに互酬交換が何らかのかたちで回帰してくるのではないか。例えば、フリーやシェアの流行、ソーシャルメディアの普及に伴って現れてきた様々なアクティビティ(活動)、寄付・贈与・社会貢献への関心の高まり、お金をかけない余暇の過ごし方の増加、などがその兆候を示しているとは考えられないでしょうか。

 

 柄谷行人は『世界史の構造』のなかで、ポランニーに倣って、人類の交換様式を(A)互酬(贈与と返礼)、(B)略奪と再分配、(C)商品交換に分けたうえで、さらにそれらの交換様式を超える(D)アソシエーションを提示しています。柄谷によれば、(D)アソシエーションは(C)商品交換がドミナントな社会(自由社会)を経たうえで(A)互酬性を回復するかたちで現れてくる、自由と平等を両立するような理想社会です。柄谷はマルクスが構想した理想社会としてのアソシエーションを参照しつつ、それを包括的に理論化しているわけですが、現在、徐々に現れつつある非-資本主義的領域は柄谷が理想とするアソシエーション社会にも近いものがあるように思われます。

世界史の構造

世界史の構造

マルクスのアソシエーション論: 未来社会は資本主義のなかに見えている

マルクスのアソシエーション論: 未来社会は資本主義のなかに見えている

 

 これまでも繰り返し書いてきたように、だかといってすぐに資本主義経済が終わるとか、脱成長社会が到来すると言いたいわけではありません。近代以降、数百年間にわたって成長と発展を遂げてきた資本主義経済はそう簡単には終わらないでしょう。国民国家(主権国家)の仕組みと同様に、資本主義がドミナントな経済-社会はまだ当分の間、続いていくものと思われます。とはいえ、資本主義経済だけが唯一の経済のかたちではないことは強調しておきたいですし、資本主義経済もいつか終わりを迎える可能性は十分になります。ただし、それはまだ随分先のことになるでしょう。

 

 しかし、資本主義が終わらないとしても、資本主義経済がこれまでのような順調な成長と発展を続けられるかというと、そこには疑問が残ります。先進諸国の成長率が徐々に低下してきていること、新興国や途上国の人口爆発に伴って食糧や資源の枯渇が懸念されること、テクノロジーの進歩(イノベーション)に陰りが見えてきたこと、グローバリゼーションとIT革命によって必要雇用量が減少すること、などが世界経済の成長阻害要因となることが予想されます。

 

 経済成長の正当性を問う議論には、古くは1972年にローマクラブによって発表された「成長の限界」などがありますが、とりわけリーマン・ショック以降、再び経済成長至上主義を問いなおす議論が(一部で)高まりつつあります。例えば、近年国内外で発表されたものだけをざっと列挙すると以下のものがあります。佐伯啓思『大転換―脱成長社会へ』(2009年)、平川克美『経済成長という病』(2009年)、芹沢一也荻上チキ・飯田泰之ほか『経済成長ってなんで必要なんだろう』(2009年)、セルジュ・ラトゥーシュ『経済成長なき社会発展は可能か?』(邦訳2010年)、タイラー・コーエン『大停滞』(邦訳2011年)、アンドリュー.J・サター『経済成長神話の終わり』(邦訳2012年)など。

 

大転換―脱成長社会へ

大転換―脱成長社会へ

経済成長という病 (講談社現代新書)

経済成長という病 (講談社現代新書)

経済成長って何で必要なんだろう? (SYNODOS READINGS)

経済成長って何で必要なんだろう? (SYNODOS READINGS)

大停滞

大停滞

経済成長神話の終わり 減成長と日本の希望 (講談社現代新書)

経済成長神話の終わり 減成長と日本の希望 (講談社現代新書)

 

 また、国民総生産(GDP)に替わる指標として国民総幸福(GHP)を掲げたブータンや、サルコジ元大統領の方針のもと、スティグリッツアマルティア・センなどの経済学者を集めて、経済的指標に替わる幸福度指標を策定しようとしたフランスの事例などにもあるように、経済的豊かさとは異なる「幸福度」を新たな豊かさの指標として見出そうとする動きも見られます。日本でも民主党政権下で「幸福度」について研究する委員会などが立ち上がりましたが、民主党政権の不人気や東日本大震災の発生などとともに、そのような議論もどこかへ吹き飛んでしまった感があります。

参考リンク:内閣府 幸福度に関する研究会 

 

幸福立国ブータン 小さな国際国家の大きな挑戦

幸福立国ブータン 小さな国際国家の大きな挑戦

暮らしの質を測る―経済成長率を超える幸福度指標の提案

暮らしの質を測る―経済成長率を超える幸福度指標の提案

日本の幸福度  格差・労働・家族

日本の幸福度  格差・労働・家族

 

 とはいえ、経済成長に替わる「豊かさ」を見つけだそうとする試みはまだ端緒についたばかりです。現実にはいまだ飽くなき経済成長を求める資本主義経済の威力に対抗する新しい経済-社会の理論は見つかっていないと言わねばなりません。しかしこのような動きが同時多発的にいろんな方面から出てきていること自体が、非-資本主義的領域へのニーズ/欲望の高まりを示しているように思われます。これからの社会では、経済成長から脱経済成長かという単純な二分法を超えて、どのような分野で経済成長を追求し、どのような分野では経済成長以外の価値を重視するのか、という判断を行なっていく必要があるのではないでしょうか。

 

 フリーやシェアの流行に伴う脱所有・脱消費・脱貨幣の流れと、リーマン・ショック以後の経済成長の問いなおしは、おそらくパラレルな関係にある問題です。さらにはこのブログを始めた頃に書いた「雇用の収縮」問題もまたこれらの傾向と深いかかわりがあるはずです。「経済成長はもはや必要ない」などと単純に言い切るつもりはありませんが、飽くなき経済成長を追求する資本主義的論理とは異なる経済-社会の領域を創りだしていく必要は確実に高まっているはずです。

 

 重要なのは、われわれが経済成長に替わる「豊かさ」をどのような価値に見出すのか、そしてそのような価値を実現する経済-社会をどうすれば拡張していけるのか、を考えることであるように思います。私見では、そこで重要になる価値は「贈与」「承認」「文化」「教養」「コミュニティ」などではないかと考えていますが、まだ僕も考えがまとまっているわけではありません。これから時間をかけて考えていくつもりです。

 

成長の限界―ローマ・クラブ「人類の危機」レポート

成長の限界―ローマ・クラブ「人類の危機」レポート