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草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

「脱お金」はわれわれの経済を「豊か」にするか?

 前回まで、「フリー」や「シェア」の流行が脱所有・脱消費・脱貨幣に繋がっていくのではないか、というやや希望観測的な記事を書いてきました。こういった主張は、近年のネット論壇では珍しいものでは決してなく、むしろありふれていると言ってもいいくらいのものです。例えば、ブロガーとして有名なイケダハヤトさんの書かれた『年収150万円で僕らは自由に生きていく』では「脱お金」がキーワードになっていましたし、「日本一のニートを目指す」と宣言してユニークなニート生活を送っておられるphaさんの『ニートの歩き方』でも、インターネットを活用した「できるだけお金に頼らない生き方」が提唱されていました。

参考記事:【ニュースレター】脱所有化・脱物質化・脱貨幣化――今日の"3脱"世代へのメッセージ(TEDxTOKYO 2011でのスピーチより) 

 

年収150万円で僕らは自由に生きていく (星海社新書)

年収150万円で僕らは自由に生きていく (星海社新書)

ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法

ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法

 

 例えば、朝起きてまずパソコンでGmailをチェックし返信、その後LINEを使って友達とやりとり、ヤフーニュースでその日のニュース記事をチェック、はてなで面白そうなネット記事を散策、YouTubeで動画を見たり、iPhoneの無料アプリでゲームしたりして午後の時間をつぶし、夜は遠距離にいる友人とスカイプでおしゃべりしたり、twitterfacebookに書き込みをしたり、なんていう風に一日を過ごしていれば、その娯楽やコミュニケーションにほとんどお金はかかりません(毎月のネット代や携帯代を除けば)。

  

 現代の若者は過去のどの世代の若者よりも幸せだ(生活満足度が高い)、という主張を行なって物議を醸した古市憲寿さんの『絶望の国の幸せな若者たち』のなかでもこんな風に書かれていました。

「もう日本に経済成長は期待できないかも知れない。だけど、この国には日々の生活を彩り、楽しませてくれるものがたくさん揃っている。それほどお金がなくても、工夫次第で僕たちは、それなりの日々を送ることができる。

 たとえば、ユニクロとZARAでベーシックなアイテムを揃え、H&Mで流行を押さえた服を着て、マクドナルドでランチとコーヒー、友達とくだらない話を三時間、家ではYouTubeを見ながらSkypeで友達とおしゃべり。家具はニトリとIKEA。夜は友達の家に集まって鍋。お金をあまりかけなくても、そこそこ楽しい日常を送ることができる。」

(古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』講談社、7頁)

 

絶望の国の幸福な若者たち

絶望の国の幸福な若者たち

 

三浦展さんの『シンプル族の反乱』でもほぼ同じことが書かれていました。

シンプル族の反乱

シンプル族の反乱

 

 しかしこのような脱所有・脱消費・脱貨幣の流れが、われわれの経済-社会にとって本当に望ましいものであるかどうかは微妙なところです。なぜなら、これらの流れは必然的に既存の経済市場を縮小させ、消費や雇用を減らしてくことに繋がると考えられるからです。どの経済学の教科書にも書いてあるように、一般に「経済市場」としてカウントされるのは、あくまで「お金に還元できる活動(モノやサービスのやりとり)」だけです。

 

 例えば、わたしが家で掃除したり料理をしたりするのは「経済市場」上の数字にはカウントされないけれども、その家事仕事を外部のサービス会社に委託してお金を払えば、それは「経済市場」上の数字としてカウントされることになります。お金とモノ・サービスの交換があって初めて、その活動は「経済活動」として(お金を単位として)カウントされるのであって、そのようなお金を介した交換がなければ、それは経済活動として数字上はカウントされません。お金を介さない物々交換も同様です。例えば、近所どうしでお米と洋服を交換することによって、お互いに効用が増したとしても、それは経済市場の数値としてはカウントされません。*1

 

 そうであるとすれば、「フリー」や「シェア」の流行によってもたらされる「脱お金(脱貨幣)」の傾向は、必然的に既存の「経済市場(貨幣市場)」の規模を縮小させていくことに繋がるはずです。前回の記事で紹介したジモティLivlissayonara saleなどのサイトで、見知らぬ二人がお互いに「いらなくなったもの」と「ほしいもの」を交換したり譲り受けたりしても、やはりその物の移動は「経済活動」に含まれません。旅行をした際にカウチサーフィンを使って、見知らぬ人の家に泊めてもらった場合も同様です。そこでは、従来の経済市場では支払われていたであろう企業・業者の仲介料やホテルの宿泊料金などがスキップされたままで、わたしたちの活動が完結してしまいます。

 

 もちろんそのことが悪いというわけではありません。このようにお金を介さずに行動することで、わたしたちはお金を節約することができますし、モノやサービスのムダ使いを減らすことができるので環境にも優しい。お金に頼らずコミュニケーションによって経済活動が代替されることで、そこに新しい人間関係が生まれ、社会(コミュニティ)の繋がりが強化されるかもしれません。

  しかしその一方で、既存の経済市場が縮小し、これまでわれわれの経済活動を媒介することでお金を稼いできた人たち(会社)の商売が成り立たなくなるかもしれません。その結果として経済活動が停滞し、雇用が縮小し、賃金が下がり、デフレ化が進んでしまうかもしれません。実際に、インターネット上の「フリー」サービスや「シェア」サービスによって商売が成り立たなくなってしまったビジネスはたくさんあるでしょう。(有料のメールサービス、動画閲覧サービス、通話サービス、報道サービスなど)

  また、アマゾンや楽天などのインターネットを利用した流通サービスはわれわれの消費活動を劇的に便利にしてくれましたが、その一方で地元の小さな商店・本屋が潰れてしまい、結果的に地域のコミュニティや景観が破壊されてしまった、などという例も枚挙にいとまがないでしょう。

 

 しかしここで少し立ち止まって次のように考えてみたいのです。もし「フリー」や「シェア」の流行とともに「経済市場」の規模が縮小し、その「豊かさ」が損なわれてしまうというのであれば、そもそもそのような「経済」や「豊かさ」の測り方じたいが間違っているのではないか?たとえお金の尺度で測ったさいの「経済規模」が縮小していたとしても、「フリー」や「シェア」の広がりとともにわたしたちの実生活が「便利」で「豊か」なものになっているとすれば、それは広い視野で見たさいの「経済」や「社会」をやはり良き方向へ導いてくれていると捉えるべきではないか。

 

 ここで問われているのは「経済」や「豊かさ」の尺度や定義そのものです。お金の媒介を伴うモノ・サービスの交換を経済活動と捉え、お金を尺度として経済の規模や豊かさを測るという従来の経済学の仕組みそのものの妥当性が問われる時代にわれわれは突入しつつあります。たとえお金の媒介がなかったとしても、個人どうしの間でモノやサービスの交換が行われ、それがわたしたちの生活を「豊か」にしてくれるのであれば、それは広い意味での「経済活動」として認められるべきではないのか。*2

 

 かつてカール・ポランニーは『大転換』のなかで、人間の交換(経済活動)を、1)互酬、2)再分配、3)商品交換、の三つに分類しましたが、現在、われわれが「経済活動」としてカウントしているのは、3)商品交換と2)再分配のみです(しかもそれらのうちの貨幣を介した交換のみ)。残された交換形式である1)互酬(贈与と返礼)は、われわれの社会では「経済活動」としてカウントされていません。それはあくまで経済市場の外部にある個人的なやりとりであると考えられています。

[新訳]大転換

[新訳]大転換

 

  しかし、インターネットの発達とともに「フリー」や「シェア」が広がりを見せるなかでは、われわれの経済-社会活動のうちに1)互酬と返礼(贈与)の要素が不可避的に入り込んできます。その結果として、3)商品交換の規模は縮小するかもしれないが、その代わりに1)互酬と返礼(贈与)の規模が拡大するかもしれない。そして三つの交換形式すべてを含めた経済-社会全体の規模や「豊かさ」でみれば、われわれの経済-社会は良い方向にむかっているのかもしれない。*3

 

  以上は、あくまで「経済」の捉え方を転換するための大まかなラフスケッチにすぎません。さらに議論を進めるためにはより詳細な検討・考察が必要とされることでしょう。しかし、せめて以上のように大きな流れで現代の経済-社会が置かれた状況を見つめ直してみることが、今後の経済-社会の行く末を考えるうえでも重要になってくるのでしょう。繰り返せば、ここで問われているのは、新しい「経済」の捉え方であり、新しい「豊かさ」の尺度なのです。それは決して簡単に見つかるものではないだろうけれども、現在の経済的豊かさに替わるオルタナティブを見つける努力をわたしたちは行っていく必要があるのではないでしょうか。

 

 

*1:伝統的に女性の仕事であるとされてきた家事労働(シャドウ・ワーク)に対しても賃金が支払われるべきだ、という主張が一部のフェミニストからなされた背景にもこのような事情があります(彼女たちの家事労働には対価として賃金が払われないために、経済-社会的にその存在意義が認められていない、とする考え方)。

*2:現在、話題になっているアベノミクスでは、大型金融緩和とともに大規模な公共事業を復活させ、脱デフレを目指すことが宣言されていますが、これだけグローバル化・IT化が進展してきた時代にあって、日銀がお金を大量に刷りまくることで経済成長を取り戻そうとする政策が、果たして長期的に成功するのかどうか。一時的な金融経済の盛り上がりに惑わされず、それが実体経済(雇用や賃金)にまで回ってくるかどうかを慎重に見守る必要があるように思います。

*3:ポランニーによれば、「経済市場」は近代以前には「社会」のなかに埋め込まれたものであったのが、近代以降に「経済市場」が「社会」から浮き上がり、逆に「経済市場」が「社会」を包摂してしまうという転倒が起こったとされる。それゆえ、近代に適したかたちで再び「経済市場」を「社会」に再-埋め込みするための方途を考えることがポランニー派の課題となる。