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草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

マルクスの唯物論はヘーゲルの労働観をどのように批判したのか -マルクス『経済学・哲学草稿』より

 前回までヘーゲルの労働観について書きました。

 ここでぐるっと一周してマルクスの労働観に戻ってくるのですが、若き日のマルクスヘーゲルの思想を批判することによって自身の労働観を形成していきました。『経済学・哲学草稿』のなかでマルクスは次のように書いています。

 

経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2)

経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2)

 

ヘーゲルの『精神現象学』とその最終成果とにおいて――運動し産出する原理としての否定性の弁証法において――偉大なるものは、なんといっても、ヘーゲルが人間の自己産出をひとつの過程としてとらえ、対象化を対象剥離として、外化として、およびこの外化の止揚としてとらえているということ、こうして彼が労働の本質をとらえ、対象的な人間を、現実的であるゆえに真なる人間を、人間自身の労働の成果として概念的に把握しているということである。」(『経済学・哲学草稿』岩波文庫版、199頁)

 

 ここでマルクスは、ヘーゲルが労働の本質をとらえていたこと、すなわちヘーゲルが労働をとしてとらえていたこと「自己産出」および「外化」の過程(労働とは、人間が自己〔の一部〕を生産物のうちに対象化〔外化〕する運動である)をマルクスは高く評価しています。しかしそれだけでは終わりません。マルクスヘーゲルを高く評価する一方で、同時にヘーゲルを厳しく批判してもおり、ヘーゲル思想を乗り越えたさらなる高次の思想を構築しようとするのです。

 

ヘーゲルは、労働を人間の本質として、自己を確証しつつある人間の本質としてとらえる。彼は労働の肯定的な側面を見るだけで、その否定的な側面を見ない。労働は、人間が外化の内部で、つまり外化された人間として、対自的になることである。ヘーゲルがそれだけを知り承認している労働というものは、抽象的に精神的な労働である。」(同上、200頁)

 

 ここでのマルクスは、ヘーゲルが労働を人間の本質としてとらえていることを評価しつつ、彼が「労働の肯定的な側面を見るだけで、その否定的な側面を見ない」点を批判しています。前回までの記事で書いたように、ヘーゲルは労働を人間を陶冶する手段としてとらえたり、あるいは労働を承認獲得のための契機としてとらえたりしていたのでした。これが労働の肯定的側面です。ではヘーゲルが見逃しているという労働の否定的側面とは何か?

 

 言うまでもなく、それは労働が資本制生産様式のもとで「疎外」され「搾取」されるということです。これこそは、マルクスが資本主義経済を批判した最大のポイントのひとつでした。とくに「労働の疎外」は、同じ『経済学・哲学草稿』のなかでマルクスが構想した非常に重要な概念のひとつです。この点についてはまた後ほど詳しく見ることにしましょう。

 

 もうひとつ、マルクスヘーゲルを批判しているポイントがありました。それは、ヘーゲルが考察している労働が非常に抽象的で精神的であるということでした。これは、マルクスの有名な観念論批判=唯物史観に関わります。前回の記事でも書いたように、ヘーゲルの『精神現象学』は人間の自己意識が展開して、最終的に絶対知の段階へと至る過程を描いたものでした。このように精神的なものや観念的なものに沿って体系的な思想を構築したヘーゲルに対し、マルクスはそこに物質的・現実的な基盤が欠けているとしてこれを批判しました。そうして形成されたのがマルクスの唯物論(唯物史観)です。

 

 抽象的な観念論を論ずるだけでなく、現実社会に起こっている貧困や不平等や搾取や不正義などの問題を見、それらの問題の物質的基盤を問わない限り、真の哲学を構想し、社会を良き方向に導くことはできない。そのためには政治や経済や社会で現実に起きている問題を直視し、それらの否定的側面や物質的構造について論じなければならない。若き日のマルクスが当時のドイツの政治・社会状況を睨んで当時の政府に批判的な新聞記事を書きつつ、イギリス由来の経済学やフランス由来の社会主義思想を学びながら、ヘーゲルを批判的に乗り越えようとしたのは、まさにこの唯物論的視点においてでした。この構想は、さらに後年の『ドイツ・イデオロギー』や『共産党宣言』、さらには『経済学批判要綱』や『資本論』にまで繋がっていきます。

 

 次回はマルクスの労働疎外論について書きたいと思います。