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草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

「陶冶」=「教養」としての労働-ヘーゲル『法の哲学』より

 今回はヘーゲルの労働観についてです。

 ヘーゲルアダム・スミスの『国富論』から影響を受けながら、市民社会の本質を「欲求の体系」に見出し、独自の市民社会論を構想しました。ヘーゲルにとっての市民社会とは「市場経済」とほぼ同じ意味です。『法の哲学』のなかでヘーゲルは次のように書いています。「特殊的人格として自分が自分にとって目的であるところの具体的人格が、もろもろの欲求のかたまりとして、また自然的必然性と恣意との混合したものとして、市民社会の一方の原理である」(§182)。

 

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 G.F.W.ヘーゲル(1770-1831)

 

 ヘーゲルにとって、市民社会の基礎となり出発点となるのは個々人の特殊な(私的な)利害関心です。フランス語には「ブルジョワジー(bourgeois)」と「シトワイヤン(citoyen)」の区別があります。後者が個人の私的利害をこえて国家(共同体)の政治にたずさわる存在であるのに対し、前者は個人の私的利害にもとづいて行動する市民(Bürger)を意味します。ヘーゲルのいう市民社会(Bürgerliche Gesellschaft)は明らかに前者の市民=ブルジョワジーによって構成される社会を想定しています。

 

 ヘーゲルは、「欲求の体系」としての市民社会が個々人の特殊性(私的利害)にもとに成り立っている点に市民社会の限界を見ており、部分的にその意義を認めつつも、最終的にはその体系は「人倫の体系」としての国家によって統制されねばならないと考えていました。「特殊性はそれだけでは、放埒で限度のないものであり、この放埒な享楽の諸形式そのものに限度がない。人間の欲望は動物の本能のように閉ざされた範囲のものではないから、人間はおのれの欲望を表象と反省によって拡大し、これを悪無限的に追いつづける。ところが他方、欠乏や窮乏も同じく限度のないものである。この放埒な享楽と窮乏との紛糾状態は、この状態を制御する国家によってはじめて調和に達することができる。」(§185

 

 のちにマルクスヘーゲル哲学を批判することによって独自の共産主義思想を創りあげていくことになりますが、マルクスの資本主義搾取批判の原型がすでにヘーゲルの市民社会論のうちに表れていることが、この記述からよく分かります。市民社会=市場経済における個人の欲望には限度がないので、諸個人はその欲望を無限に追求してしまう。しかしその結果として、市民社会=市場経済では欲望の充足だけでなく、欠乏と窮乏が同時にもたらされてしまう。そこで、個人の特殊性(私的利害)にもとづく市民社会にはこれを解決する能力がないので、最終的には国家が登場してこの問題を解決せねばならない、というのがヘーゲルの考えでした。

 これに対してマルクスは、市場経済としての市民社会がもたらす欠乏や窮乏(貧困や格差)の問題を、国家の力によってではなく、市場経済を乗り越えた真の市民社会(=共産主義社会)を創設することによって解決しようと考えたのでした。ここで、最終的に「国家」を重視するヘーゲルと「(市民)社会」を重視するマルクスの相違が生まれてくるわけです。マルクスの市民社会論についてはまた別の機会に詳しく書ければと思います。

 

 さて、市民社会を市場経済と同一視するヘーゲルの哲学において興味深いのは、ヘーゲルが「労動」を市民社会を構成する重要な要素のひとつと見ていたことです。ヘーゲルは市民社会を構成する三つの契機を次のように説明しています。

A、個々人の労動によって、また他のすべての人々の労動と欲求の満足とによって、欲求を媒介し、個々人を満足させること――欲求の体系。

B、この体型に含まれている自由という普遍的なものの現実性、すなわち所有を司法活動によって保護すること。

C、上の両体系のなかに残存している偶然性に対してあらかじめ配慮すること、そして福祉行政と職業団体によって、特殊的利益をひとつの共同的なものとして配慮し管理すること。

 

  このうち今われわれにとって重要なのはAの契機で、ヘーゲルが「欲求の体系」としての市民社会の原理を「個々人の労動によって、また他のすべての人々の労動と欲求の満足とによって、欲求を媒介し、個々人を満足させること」に見出しているということです。つまりヘーゲルは、市民社会に参加する諸個人の欲望が他者の労動によって満たされると考えていた。さらにヘーゲルは、労働が市民を「陶冶Bildung」する効果を持つと考えていました。

「だから陶冶(教養)とは、その絶対的規定においては解放であり、より高い解放のための労働である。すなわちそれは、倫理のもはや直接的でも自然的でもなくて精神的であるとともに普遍性の形態へと高められた無限に主体的な実体性へと到達するための、絶対的な通過点なのである。」

この解放は(個々の)主体においては、動作のたんなる主観性や欲望の直接性だけでなく、感情の主観的な自惚れや個人的意向の気まぐれをも克服しようとする厳しい労働である。解放がこのような厳しい労働であるということこそ、それが嫌われることの理由の一部である。しかしこの陶冶(教養)としての労働によってこそ、主観的意志そのものがおのれのうちに客観性を獲得するのであって、この客観性においてのみ、主観的意志はそれなりに理念の現実性たるに値し、理念の現実性たりうるのである。

「また、特殊性はそれだけでは、労働と陶冶によっておのれを作り上げ高めて、この普遍性の形式、すなわち悟性的分割を手に入れてしまうがゆえにこそ、同時に、個別性の真実の対自存在になるのであり、また普遍性を満たす内容とおのれの無限な自己規定とを普遍性に与えることによって、それ自身が倫理のうちに、無限に対自的に存在する自由な主体性として存在することになるのである。」 ((§187、強調は引用者)

 

  このようにヘーゲルにとって、労働とは市民社会における諸個人(市民)の欲望を満たし、社会の全面的依存関係を創りあげるとともに、市民の特殊性を「陶冶」して普遍性へと高めていく役割を持つものであった。

「労働と欲求の満足とが以上のように依存的相互的であるところから、主観的利己心は、すべての他人の欲求を満足させるための寄与に転化する、――すなわち特殊的なものを普遍的なものによって媒介するはたらきに転化する。主観的利己心が弁証法的運動としてのこうした媒介のはたらきに転化する結果、各人は自分のために取得し生産し享受しながら、まさにこのことによって他の人々の享受のために生産し取得することになる。」

「万人の依存関係という全面的からみ合いの中に存するこの必然性が今や、各人にとって普遍的で持続的な能力=資産(Vermögen)なのであり、各人は、自分の教養と技能によってこれに参与してその配分にあずかり、自分の生計を安全にする可能性を与えられている。――それとともに他方ではまた、各人の労働によって媒介されたこの取得が、普遍的能力=資産を維持増大するのである。」 (§199

 

  先に述べたようにヘーゲルは、「欲求の体系」としての市民社会は最終的には国家によって制御されなければならないと考えていたのですが、「自由な精神」が「人倫の体系」としての国家へ至るための通過点として、労働が市民を「陶冶」し、特殊性にとらわれた欲求を普遍的な倫理へと高めていく意義をもつと考えたのでした。以前の記事でも書いたように、労働=勤労を市民を育成・陶冶するものとして捉える思想は、宗教改革以降のプロテスタンティズムのなかで生まれてきたものでした。この思想は西洋社会の近代化が進むなかで、労働が市民を陶冶し、諸個人の特殊性を国家の普遍性へと統合する原理にまで発展していくことになりました。言い換えれば、プロテスタンティズムというキリスト教内のひとつの宗派内の原理であった勤労思想が次第に一般社会と国家の原理へと拡張し普遍化されていったのです。そのひとつの到達点がヘーゲル哲学における市民社会論であったと言うことができるでしょう。

 

法の哲学〈1〉 (中公クラシックス)

法の哲学〈1〉 (中公クラシックス)

法の哲学〈2〉 (中公クラシックス)

法の哲学〈2〉 (中公クラシックス)