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草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

ポリス・統治・生権力 -フーコー『安全・領土・人口』より part2

 前回からの続き。

 スミス-フーコーによれば、17世紀以降に出現した「統治としてのポリス」は、発展しつつある商工業(資本の増殖運動)をスムーズに機能させるための諸機能であり、具体的には都市の公衆衛生を高め、犯罪率を減らし、都市間の流通経路を確保するなどの役割を担うものであった。そしてその機能の核心は「諸個人の教育と職業化」、すなわち「諸個人を教育するとともに職業化することによって市民に道徳性を植えつけること」にあるというのがフーコーの見立てであった。

 『安全・領土・人口』の1978年3月29日付の講義のなかで、さらにフーコーは「内政(ポリス)」の役割について次のように解説している。

 

ミシェル・フーコー講義集成〈7〉安全・領土・人口 (コレージュ・ド・フランス講義1977-78)

ミシェル・フーコー講義集成〈7〉安全・領土・人口 (コレージュ・ド・フランス講義1977-78)

 

1)内政は人間たちの数(人口)を引き受けれなければならない。 

 国力が住民の数によって決まるという定式は中世ごろに確立され、17世紀にはより明確に主張されるようになる。領土よりも人口を管理・育成することが統治としてのポリスの第一の役割になる。

 

2)人口が生活・生存していくための生活必需品を確保せねばらない。

 「というのも人間たちがいるだけでは十分ではなく、さらにその人間が生きられなければならないからです」(401頁)。それゆえ、農業政策や穀物の流通、食糧難に備えての備蓄などが重要な行政機能の一部となる。

 

3)人々が「健康」な状態にあり、労働し活動することができるようにしなければならない。

 前回も述べたように、ポリスの役割は資本主義が必要とする良質な「労働力商品」を準備・確保することにある。それゆえ、ペストなどの疾病や衛生状況などにも行政が気を配る必要が出てくる。「万人の日常的健康はこれ以降、内政にとっての恒常的な配慮と介入の対象となっていく」(402頁)。

 

4)「健常な者」がみなきちんと働くように見張っていなければならない。

 一定の労働人口を確保し、その生存を維持し、健康な状態に保ったうえで、彼らを労働に就かせる必要がある。「労働できる者をすべて労働に就かせるということ、これが健常な貧民に対する政策です。手当は障害者の必要に対してのみ給付する。…つまり必要な(国家が必要とする)さまざまな職が実際に実践されているか見張り、国の利益になるようなモデルにしたがって生産物が製作されているかを見張るということです。そこから、あらゆる職に対してなされるあの統制が生じてきます」(402頁)。
 

5)労働によって生み出された商品・生産物をスムーズに流通させなければならない。

 街道、運河、端、公共広場、大通り、その他公共空間などを整理することによって流通経路を確保し、統制すること。ここには都市の浮浪者数を抑制すること、職人の移動を規制することなども含まれる。

 

「つまるところ一般的に言って、内政が支配するべきとされるもの、内政の根本的対象となるものは、いわば、人間たちの共存の形式全体です。人間たちがともに生きること、再生産すること、それぞれにしかじかの量の食糧を必要とすること、…さまざまな職に就いてそれぞれに労働すること、流通空間のなかにいるということ、このようなたぐいの…社会性こそ、内政が引き受けれるべきとされている当のものです。18世紀の理論家たちは、つまるところ内政が引き受ける当のものとは社会であると口にすることになります。」(403頁)

 

 これらの機能によって、「社会」における人間たちの共存と交流を統治・管理することこそがドイツの内政学(ポリツアイ・ヴィッセンシャフト)の役割であった。こうして、内政は人間が多数で生きることを確保し、生きるための食糧を保持し、健康な状態に置きながら、彼らが勤勉に働くよう見張り、その生産物をスムーズに流通させながら、国家がそこから十分な国力を引き出せるようにすることを可能にする。この一連の諸機能の中心にあるのはやはり、「労働力商品」としての人間(しかも多数の)である。良質な労働力商品の確保、それによって資本主義を円滑に機能させ、国力を高めること。これが近代的ポリスの役割である。

 

 フーコーによれば、このようなポリス=統治によって16世紀末から17世紀初頭にかけて確立された経済-社会システムのあり方は、新たな人間論的システムを打ち立てるものであった。それは「もはや死なないとか生き延びるとかいった直接的な問題によってではなく、いまやただ生きるというだけでなくより少しましに生きるという問題によって指揮されるようになる新しいシステム」であった。これこそは「生きよと命ずる権力」、すなわちフーコー「生権力」と名づけた権力であろう。

 

 ここで内政(ポリス)は、国家を出発点として「諸個人の生」を経由して国家へと戻ってくる流れを形成している。これは国家権力によって人民を暴力的に抑圧するという主権体制のあり方とは大きく異なっている。この内政のもとで人々は「ただ生きる」のではなく「よりマシに生きる」ことができる。すなわち、快適に幸福に生きることが可能となる。ただし、そのために人々は「国家にとって有用な存在」、つまり「良き労働力」を提供する存在でなければならない。逆にいえば、国家-ポリスは「人間たちの幸福を国力とする」のである。

 

 4月5日の講義では、内政が本質的に都市的・商業的なものであり、さらに言えば広い意味での市場制度の一部なのであると述べられている。また、このような内政の発展は、17-18世紀における重商主義の発展と密接に結びついたものである。「つまり、重商主義は各国ができるだけ多い人口を持とうとすることを第一に要求し、その人口全体が労働に就いているということを第二に要求し、その人口に与えられる賃金ができるだけ低いということを第三に要求する。それによって第四に、商品の原価が可能なかぎり低くなる。その結果、商品をできるだけ多く国外に受けることができ、それが金の輸入を…確保することになる」(419頁)。

 

 「内政と通商、内政と都市の発達、内政と広い意味でのあらゆる市場活動の発達、このようなことすべてが、17世紀には(18世紀初頭まで)本質的なひとつの単位をなすことになったと思います。16世紀以降に見られた市場経済の発達、交換の増加・強化、通貨流通の活発化といったことすべてが人間という存在を商品や交換価値という抽象的な、純粋に表象的な世界へと入らせたように見えます。」

「それは、国家理性という原則にしたがって整序された統治術が形成されるということ、人口と商品生産のあいだの諸関係を組織することを本質的に目標とする内政によって国力増強の技術が探求されるということ、そして最後に、国家理性という原則にしたがってなされる良い統治のおこなう警戒に属する諸問題としての共住・流通に関するあらゆる問題とともに市場都市が登場してくるということです。」(420頁)

 

 これらの解説からも、17世紀以降に登場した統治=ポリスが初期資本主義(商工業)の発展と相俟って普及していったこと、それ自体が市場システムの一部をなすようになったことが理解される。つまり、それは「市場都市が人間たちの生に対する国家介入のモデルとなったということ」である。このようなモデルに従う限り、人々は安全・快適に生きることが可能になる。これこそ「生権力bio-powerの誕生」の瞬間であろう。

 しかしフーコーはこれに続けて、18世紀にはこの統治-ポリス-生権力がある変質を迎えていったと議論をさらに展開させていくことになる。次回のこの点を検討することにしよう。