草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

イギリス史概観(16世紀~17世紀)

 ここで山川出版社の『詳説 世界史研究』や小室直樹『日本人のための憲法原論』を参照しつつ、16世紀から17世紀にかけてのイギリス史を確認しておきたい。イギリスの思想家を中心とする労働思想の発達を確認するうえで、イギリスの歴史を押さえておくことがその思想的背景を知るうえで極めて重要だからである。

 

詳説世界史研究

詳説世界史研究

 

日本人のための憲法原論

日本人のための憲法原論

 

 イギリスではマグナ・カルタ(1215年成立。当時のジョン王に、王といえどコモン・ローの下にあり、古来からの慣習を尊重する義務があり、権限を制限されることが文書で確認させたもの)から半世紀後の1265年に最初の議会が招集され、1273年にはすべての身分が参加した。このとき、イギリスの議会は貴族院(上院)庶民院(下院)の2つに分かれていたのだが、当初は貴族院の力が強く、庶民院はその言いなりとなっていた。

 ところが時が経つにしたがって、庶民院のほうが貴族院よりも力をもつようになった。なぜか。この時代の庶民院(House of Commons)を構成していたのは、「ジェントリーgentry」または「ヨーマンyeomanry」と呼ばれる特権階級であった。ジェントリーは、貴族・準貴族に次ぐ身分で、準々貴族に当たる。貴族たちほどではないが、中小の土地を所有する特権階級のひとつであった。ヨーマンはジェントリーに次ぐ「準々々貴族」であり、土地を所有する自作農であり、イギリスの中間階級を形成していた。(下図参照)

 

イギリスの身分制度

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    公爵 duke

    侯爵 marquis

貴族  伯爵 earl

    子爵 vice count

    男爵 baron

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準貴族 男爵 baronet
    士爵 knight

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準々貴族 ジェントリー gentry   
準々々貴族 ヨーマン yeomanry    
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 中世の封建制度が崩壊するにつれ、イギリスでも国王の力が強まっていったが、イギリスの場合、貴族と対抗するために国王はジェントリーやヨーマンを積極的に登用した。この点、フランスなどの絶対王権では、国王が独自の軍隊、独自の官僚を持つことで貴族と対抗したのとは大きく異なる。この傾向が顕著になるのは、ヘンリー7世(在位1485-1509)の時代であった。国王は大貴族の力を抑えるために、地方行政をジェントリーから選ばれた地方判事に任せることにした。地方判事は無給であったが、国王の期待に応えて王国の統治に力を発揮した。さらに国王軍の中心となったのは、勇敢なるヨーマンたちであった。彼らヨーマンは「何人にも服従せず、たた自分の王に服従するのみである」と言われた。すでにヘンリー7世の時代、大貴族は直前に行われた対仏戦争や内戦で多くが戦死し、没落していたのだが、ジェントリーやヨーマンの活躍によってますます力を失うこととなった。
 
 イギリス国王はこうして大貴族を弱体化させたわけだが、それで絶対王権が安泰になったわけではなかった。というのも、教会が国王に抵抗してたからである。この当時、教会領は王国の3分の1を占めており、そのうえに信徒から教会は貪欲に富を巻き上げていた。そして、その富はローマの法王庁にそっくり送られていた。この教会勢力を封じないかぎり、王権の未来はない。
 
 そこでヘンリー8世(在位1509-1547)は、王妃キャサリンとの離婚問題が起きたときに、徹底的にローマ教会と戦うことにした。かねてからイギリス国王と対立していた法王は、いちど神の前で誓った結婚を破棄することはできないとして、キャサリンとの離婚を認めようとしなかった。するとヘンリー8世は議会を招集し、ローマ教会との絶縁を決定的にする法案を次々と審議させた。ジェントリーやヨーマンの間でも、かねてからローマ法王は不人気であったので、王と議会は一致団結して、「国王至上法」(1543年)などを制定し、国王をイギリス国教会の唯一最高の首長とするイギリス国教会を成立させた。
 

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 さらにヘンリー8世は、王の首長権を拒否した多数の修道院に圧迫を加えたばかりでなく、さらにその財産奪取を目的に修道院を解散した。修道院の財産の没収によって、王室の財政基盤は強化され、のちにジェントリーたちに払い下げられたために、彼らの地位はさらに向上した。この時期が、以前のブログで取り上げた「宗教改革」および「囲い込み運動」の時期と重なっていることも重要である。「囲い込み運動」は、農民からだけでなく教会からも土地や財産を取り上げる国家主導の運動であったのであり、その背景には宗教改革によって従来のカトリック教会が攻撃されていたことがあったのだ。また、ローマ教会の意向に背いて国王の意志を貫徹する「国王至上法」の制定には主権国家の成立を見出すこともできる。
 
 かくしてヘンリー8世のもくろみは見事に成功し、イギリスはローマ教会から離脱することができたわけだが、そこで議会政治において決定的に重要な変化が起きた。宗教改革において国王がジェントリーの力を活用したことによって、議会の地位と重要性が確実なものとなったからである。議会の協賛なくしては、王はその絶対権力を振るうことができない(King in Parliament 議会の中の王)という原則が確立した。また王は、枢密顧問官としてジェントリーを登用して、彼らを活用した。こうして英国独自の絶対王政がスタートしたのである(テューダー統治革命)。ヘンリー8世が議会を尊重したことによって、イギリスの議会は確実に「議会主権」にむけてスタートを切ることになった。庶民院は王権と手を組むことで、着実に力をつけていったのである。
 
 ローマ教会との対立を通じて、王権の拡大に成功したヘンリー8世が1547年に死ぬと、イギリスは混乱期を迎えることになった。ヘンリー8世の後を継いだのはわずか9歳のエドワード6世であったから、伯父のサマセット公が摂政となったのだが、そこで問題となったのは宗教問題だった。というのも、エドワードもサマセット公も新教徒であったので、イギリス国教会の教義をプロテスタント流に変えることにしたのである。1549年には「礼拝統一法」が議会で制定された。これによって、聖職者の結婚が合法化され、教会内の聖像を撤去するなどの変革も強行されたところ、国内各地で反乱が起こった。
 
 この大混乱の中、病弱なエドワードが在位6年で死ぬと(1533年)、メアリ・テューダー、通称「ブラッディ・メアリ」(血なまぐさいメアリ)が即位する(在位1553-1558)。メアリは母親譲りのカトリック教徒であったために、父ヘンリー8世の時代に作られた反ローマ教会の法律を次々と廃止し、また新教徒の聖職者たち多数を「異端」として処刑していった。
 
 しかしこのようなメアリ女王の偏狭な信仰姿勢にたいしてイギリス人の間で反感が高まり、彼女が1558年に死去したのちに、エリザベス1世が女王になると人々はこれを大いに歓迎した(在位1558-1603)。エリザベスは、ヘンリー8世の2番目の妻アン・ブーリンの娘である。エリザベスは首長令を復活し、統一法で共通祈祷書の使用を義務づけ、儀礼・礼拝の形式を定め、イギリスを再び国教会にもどした。さらに1571年、39ヶ条の信仰箇条が定められ、これが現在でもイギリス国教会の教義の綱領の役目を果たしている。
 

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 エリザベス女王は美貌と同時に、政治の天才にも恵まれていた。彼女は父ヘンリー8世の政治手法を踏襲し、絶対王政を確立させていった。同時に議会との関係も良好であった。彼女は絶対君主でありながら、その権力を直接に振るうことが少なく、どんな政策も必ず議会の支持を得てから行い、また議会をそのように導くことの名人であった。スペインに対する宣戦布告(1588年)や、スコットランド女王メアリー・ステュワートの処刑といった歴史的決断は、すべてエリザベスの意志でありながら、彼女は決して自分からそれを言い出さず、議会から言い出すように仕向けた。彼女は純粋な絶対君主でありながら、後代の立憲君主のように振舞ったのである。またこの時期に「議会における原論の自由」が確立されている。
 
 経済面では、エリザベスはトマス=グレシャムを登用して貨幣を改鋳し、通貨を安定させたことが知られている。しかし、この改鋳によってポンドが大陸諸国の通貨に対して強くなり(ポンド高)、イギリスの毛織物は大陸で割高となった。そのうえイギリスでは、ネーデルランドを支配しているスペンと対立したことなどが原因となって、アントワープ市が閉鎖され、毛織物の輸出が伸びなくなった。しかもこの時期には、人口も激増したために失業者も増えたため、1601年に救貧法が制定された。これも以前の記事で見たとおりである。
 
 文化面ではこの時代はイギリス=ルネサンスの最盛期となり、劇作家シェークスピア(1564-1616)などが活躍する華やかな時代となった。対外的にはプロテスタントとしてオランダの独立を支援し、1588年には暴風雨にも助けられて、スペインの無敵艦隊を破って海外進出の端緒を開いた。この戦争は、ヨーロッパでスペインの覇権が衰え、北西ヨーロッパのオランダ・フランス・イギリスの3国が勢力争いをする時代に入っていくひとつのきっかけとなった。
 
 エリザベス女王は生涯未婚のままで通したため、1603年に彼女が没すると、テューダー朝の血統が絶えた。このため、スコットランド王ジェームズ6世がイギリス王ジェームズ1世(在位1603-1625)として迎えられ、ここにステュアート朝が開かれることとなった。これ以後、1707年に正式に合同するまでイングランドとスコットランドは「同君連合」のかたちをとる。ジェームズ1世は王権神授説を唱え、専制政治に走ったが、その支持基盤はきわめてもろかった。
 
 次のチャールズ1世(在位1625-1649)は、父王ジェームズ以上に専制を強化したが、これが議会からの反発を招き、1628年に議会は「権利の請願」を提出して、議会の同意していない課税や法にもとづかない逮捕や東国をやめることなどを国王に約束させた。これに対して国王は、翌年、議会を解散し、以後11年間にわたって議会を開くことなく、専制政治をおこなった。しかし、1639年、カルヴァン派(長老派)の強いスコットランドに国教を強制したことから反乱が起こり、チャールズ1世としても戦費調達のために議会を招集せざるをえなくなった。しかし、このために開かれた議会は課税を拒否したうえ、国王を激しく非難したため、国王は3週間でこれを解散した(短期議会)。同年、別の議会が開かれたが、対立はますます深刻化し、1642年、5名の議員を逮捕しようとして失敗した国王は北部のヨークに逃れ、イギリスは内乱状態に突入した。内乱では初めは王党派が優勢であったが、議会派の中心となった独立派のクロムウェルの快進撃によって王党派は打ち破られ、ついに1649年には国王が処刑され、クロムウェルら議会派が共和政Commonwealthを打ち立てた。この一連の動きをピューリタン革命という。」
 

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 いったん勝利した議会派のなかでは、政権の中枢に座った独立派と長老派や主として少ブルジョワを代表したといわれる平等派との間に次々と対立が生じた。クロムウェルの率いる独立派は、まずより急進的な平等派と組んで、スコットランドやロンドンの大商人に支持者の多かった穏健な長老派を追放し、つで1649年には平等派をも抑えて、独立政権を擁立した。
 権力を確立したクロムウェルは、貴族院を廃止して庶民院のみとし、アイルランドを征服したほか、1651年には公開法を施行してオランダの中継貿易を排除しようとした。このためにおこった第1次イギリス=オランダ戦争英蘭戦争、1652-1654)に勝利すると、1653年に終身の護国卿となり、軍事独裁をおこなった。劇場を閉鎖し、ほとんどの娯楽を禁じるなど、厳格なピューリタニズムにもとづくクロムウェルの独裁政治は、民衆の反感を買い、王政復古につながることとなる。
 
 クロムウェルの独裁にたいする国民の不満を利用した王党派は、クロムウェルが没すると、1660年、長老派と組んで、フランスに亡命していた前王の子、チャールズ2世(在位1660-1685)を呼び戻した。チャールズ2世は議会との和解姿勢を示し、ステュアート朝を復活させた。しかし次のジェームズ2世(在位1685-1688)の政治も専制的であり、カトリックの復活を意図している疑惑も起こったため、1688年に議会は一致してジェームズ2世をフランスに追放し、かわって王女メアリ(在位1689-94)とその夫でオランダの総督ウィレム3世を共同統治の王として迎え入れた。両王は議会が提出した「権利の宣言」を承認し、これを「権利の章典」として発布した。これによって、国王の権利が大幅に制約され、議会が主権を握る立憲王政が確立、絶対王政は消滅した。この革命を名誉革命Glorious Revolutionという。この革命によって確立した体制は、以後、1世紀以上にわたってイギリスの社会や政治のあり方を決定づけることになる。
 
 1707年にはスコットランドがイングランドに併合され、イギリスは大ブリテン王国となった。1714年にアン女王(在位1702-1714)が死去し、ステュアート朝が絶えると、ドイツのハノーヴァー選帝侯がジョージ1世(在位1714-1727)として迎えられ、ハノーヴァー朝(1714-1917)が成立した。40歳をすぎてイギリスにきた王は英語が話せなかったこともあり、国王は「君臨すれども統治せず」という原則が確立した。ホイッグ党ウォルポール首相(任1721-1742)のもとで、内閣が議会に責任を負う責任内閣制が成立したのもこのときである。
 
 大まかではあるが、以上が16世紀から18世紀にかけてのイギリス史の概要である。前回、前々回の記事で取り上げたジョン・ロックは、1632年に生まれて1704年になくなっているが、10歳のころにピューリタン革命が起こり、その後、30代から50代にかけて王政復古の時期を生きたのちに、名誉革命を経験したのちに生涯を終えている。まさにイギリスが大きな変動期にあった17世紀を生き抜きながら、自然法・社会契約論・労働価値説・私有財産制といった近代思想の原型を創りあげた思想家であったと言えよう。また、ロックはニュートンなどの科学者と交流があり、彼の近代的・合理主義的な自然法思想は、当時の科学革命から大きな影響を受けているという指摘もある。人間の本性にもとづき、すべての人類に普遍的に適用されるものと想定された自然法は、現実の法や制度に先行する法であるとされるが、このような抽象的思考は少なからず当時の自然科学の発展に影響を受けていると考えられるのである。
 
※科学革命とは、17世紀に生じた科学の大規模な変革のことであり、コペルニクスケプラー、ガリレイ、ニュートンらによって地動説が提唱されたことにより、宇宙体系の認識が大きく変化したことがその発端とされている。また17世紀前半に、イギリスのフランシス=ベーコン(1561-1626)が、実験と観察の結果から一般法則を導く帰納法にもとづく経験論的合理主義を唱えた。この後、イギリスでは経験論的な思考法が多くの分野で優勢となっていく。これに対してフランスのデカルト(1596-1650)は、数学的な証明法によって真理に到達する演繹法にもとづく合理的な思考法を主張した。17世紀前半には、これら二つの思考方法を基礎に、自然科学が近代的な学問として確立されることとなる。