草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

労働を通じた「教育」と「矯正」 -フーコー『狂気の歴史』より

 前々回の記事で、16世紀のイングランドにおいて救貧対策が開始されたことについて書きました。復習しておくと、ヘンリ8世の時代(位1509-1547年)に、貧民を病気等のために働けない者と怠惰ゆえに働かない者に分類し、前者には物乞いの許可をくだし、後者には鞭打ちの刑を加えることが王令によって定められ(1531年)、1536年にこの王令は成文法化されました。これが最初の救貧法だとされています。さらにヘンリ8世の没後、王位についたエリザベス1世(位1588~1603)は、1601年にエリザベス救貧法として知られる救貧法改正を行います。このエリザベス救貧法では各教区に救貧委員をおいて、救貧税を集めて病気や高齢の貧民を救済するいっぽう、労働可能な貧民には強制的に仕事をさせ、浮浪者は犯罪人として取り締まることが定められました。前々回の記事でも述べたように、ここに浮浪者・失業者を「怠け者」として処罰する行政処置の登場を認めることができます。

 

 これらの救貧法によって、貧乏であること・働かない状態にあることが罪として扱われるようになり、そのような状態にある人々を強制収容する施設が登場します。それが「矯正院」「救貧院」「感化院」という名で呼ばれた施設です。ミシェル・フーコーは『狂気の歴史』(1972)のなかで、これら「矯正院」や「救貧院」などの施設のなかで、働かない者を「怠惰」とみなして処罰する規範が形成されていった経緯を、数多くの事例を用いて明らかにしています。フーコーによれば、中世において最高の罪は「貪欲」でしたが、監禁の世紀である17世紀になると「怠惰」が最大の罪とされるようになります

 

狂気の歴史―古典主義時代における

狂気の歴史―古典主義時代における

 

 またフーコーは、15世紀末から癩病患者にかわって「精神異常者」「乞食」「貧民」「怠け者」「性病者」「放蕩者」「不具・病弱者」などの人々がまとめて施療院に「閉じ込め」られるようになったと指摘しています。これらの「異常者」たちは、17世紀の「監禁」の世界で(広い意味での)「狂気」をもつ者として治療・監禁の対象となるのですが、そのなかでも特に数が多かったのが、貧民、浮浪者、乞食などの人々でした。そして収容施設のなかで労働意欲をもつ者のみが更正の意欲ありとされ、収容施設からの社会復帰を認められるようになったといいます。

 

 フーコーは次のように記しています。

「経済と道徳が結びあって望む、監禁制度への無理な要求が形づくられたのは、労働にかんする経験をとおしてである。労働と怠惰は古典主義時代の世界に一本の分割線を引いたが、その線は、例の癩病の大がかりな排除に入れ替わるものだった。精神界の風景のなかでと同様に人のよりつかぬ監禁地の地誌のなかで、収容施設は癩施療院にまぎれもなく取って代わったのである。人々は、追放という古来の慣習を、ただしこんどは生産と商業中心の世界に復活させた。呪われ有罪宣告された怠惰を閉じ込めるあの場所のなか、そして労働の法則をひとつの倫理的超越性に読みかえた社会が発案したあの空間のなかへこそ、そのうち狂気が登場し、やがては、それらを併合してしまうだろう。」(『狂気の歴史』90頁)

 

  ここでフーコーが直接的に問題にしているのは「狂気」の扱われ方についてですが、16紀には狂気もまた「勤労/怠惰」という価値基準によって捉えられるようになる、というのです。

「文芸復興までは、狂気にたいする感受性は、想像上のさまざまの超越的なものの現存と関係があったけれども、古典主義時代よりのちには、しかも初めて狂気は、怠惰にたいする倫理上の非難をとおして、また、労働中心の共同体によって守られている社会に内在する性格のなかで知覚されるようになる。」(同上、90頁)

 

 勤労/怠惰という価値軸のもとで運営される矯正院・感化院・救貧院などの「一般施療院」は、「老齢・不具・病気のゆえに働けぬ人々のための単なる保護施設」ではなく、「強制労働をおこなう仕事場」、さらには「ある種の道徳的《欠如》を罰し矯正するための訓育施設」という側面をもつようになる。「労働」によって、誤った状態にある人々・怠惰な人々を「矯正」し、適正な「労働者」へと仕立てあげていくこと。これが矯正院や感化院に求められた役割であった。「労働は、すべての形式の貧困にたいするあらゆる解決策、間違いのない万能薬、救済手段として知覚されている」(88頁)。言うまでもなく、このような「労働による矯正」「労働しない・できない者は怠惰な存在であり、社会的に存在価値がない」という思考は、16世紀から現代に至るまで、近現代社会を貫く強固な価値観のひとつであり、この価値観を元にしてさまざまな近代社会の仕組みが構築されていくことになります

「労働と貧困は、単純な正反対の関係におかれていて、それぞれの領域は相互に反比例しているにちがいない。もともと労働に属しているはずの貧困をなくす力については、古典主義的な思考によれば、労働はその力を、労働の生産能力からよりも、ある種の精神的な魔力から手に入れている。労働が効力をもつと認められるのは、その効力が倫理的な超越性に基礎づけられているからである。」(88頁)

 

 そもそも救貧法が整備される以前、特に宗教改革以前には、救貧は教会の役割でした。修道院やギルドなどで自発的に「貧しき人々」への救済が行われていました。キリスト教の伝統により、貧しいことは神の心にかなうこととされ、そうした人々に手を差し伸べることは善行であるとされていたのです。余裕のある者は、その寛大さを誇示するためにも積極的に自発的救貧を行った。また市民たちは競って貧民に文物を与え、それが市の誇りとされました。まずしい農民には安い地代で農地を提供することも多かったと言われています。

 こうした救貧のありかたを一変させたのが、前回紹介した宗教改革でした。マルティン・ルターは1520年に発表した『ドイツ貴族に与える書』で「怠惰と貪欲は許されざる罪」であり、怠惰の原因として物乞いを排斥し、労働を「神聖な義務である」と書き、都市が責任を持って『真の貧民』と『無頼の徒』を峻別して救済にあたる監督官をおくことを提唱しました。カルヴァンは『キリスト教綱要』でパウロの「働きたくない者は食べてはならない(新約聖書「テサロニケの信徒への手紙二」3章10節)」という句を支持し、無原則な救貧活動を批判します。こうした思想がイングランドにも持ち込まれ、囲い込みなどによって増えつつある貧民への視線を変えていったのです。(救貧法wikiより)

 このような貧民への視線の変化を背景として、16世紀以降のイングランド社会では救貧制度(救貧法と救貧院)が整えられていくことになりました。

 

この点について、今村仁司は『近代の労働観』のなかで次のように書いています。

「農村から都市に流入してきた人々は、そのままではまだ到底労働者ではなかった」から、「都市の経済は、こうした民衆の農民的身体を商品経済的身体に作り直さなくてはならなかった」 。 「貧民や乞食は道徳的に退廃しているとみなされていたので、労働は貧民の道徳的な「再教育」になり、労働の厳しさを学ぶなかで労働のエトスが知らぬ間に注入されていく。放浪者、のらくら者、放蕩者たちはアジール(矯正院)に閉じ込められ、強制的に労働に従事させられる。強制労働は怠け癖をなくし、悪へ走る傾向を忘れさせることを目的にしていた。労働だけが悪を貧民からなくす最良の手段だと一般に信じられていたという。 」(『近代の労働観』岩波新書、30頁)

 

近代の労働観 (岩波新書)

近代の労働観 (岩波新書)

 

 農村で生産手段を奪われ、都市に流入して、浮浪者・失業者・貧民となった人々は、行政処置によって矯正院・救貧院に収容され、「労働」によって「商品経済的身体」へと作り変えられるよう教育と懲罰がほどこされた。今村によれば、「近代初期において労働がこうむった運命はけっしてのんびりしたものではなくて、それどころか反対に相当に過酷なものであった」 。そして「厳しい労働の経験を通過するなかで、徐々に近代固有の労働が形づくられて」いった。

 このように資本の本源的蓄積としての労働力商品化は、極めて人為的かつ暴力的なプロセスを経て、成し遂げられたものだったのです。そこには新興ブルジョアジーと国家権力との結託があり、失業者や浮浪者などの「働かない者」を「怠惰な人間」とみなす規範の形成があり、救貧法の制定とともに設立された救貧院や矯正院などと呼ばれる施設のなかでは、フーコーが「規律訓練型権力」と呼んだ権力装置の発動を認めることができます。

 

 同じく、カール・ポランニーは『大転換』(1944)のなかで、16世紀前半になってはじめて、イギリスで「貧乏人poor」とは区別される「貧民pauper」がイギリスに登場したと論じています。ポランニーによれば、貧民は「荘園にもいかなる封建領主にも属さぬ人物」として目につくようになったのであり、彼らの放浪に対する厳しい迫害と、外国貿易の継続的伸張によって促進された国内工業の成長とが結びついた結果、貧民は次第に「自由な労働者階級」へと転換していったのだ、と。(『大転換』東洋経済新報社、117-118頁)

 

[新訳]大転換

[新訳]大転換

 

 ことほどさように、貧民を「労働者」、言い換えれば「労働力商品」へと仕立てあげていく過程では、労働が矯正・教育のための手段として用いられ、その過程に馴染めない者には「怠惰な役立たず」というレッテルが貼られることとなりました。そこに、前回述べたプロテスタンティズムの労働倫理(世俗的職業に励むことは神の御心にかなう行為であり、救済の確証を得るための行為である)が影響を及ぼしていたことは間違いないでしょう。こうして形成された労働規範は、プロテスタンティズムの流行や都市の貧民対策という時代・社会状況の限定をこえて、その後、広範な地域へ普及していき、さまざまな変容を遂げつつも現代社会にまで至ります。もちろん16世紀イングランドの労働規範と現在の日本がもつ労働規範では異なる点も多くあるのですが、あくまでその原型はその時代にすでに形づくられていたといって間違いではないと思います。このような労働規範は今後もわれわれの社会に残っていくのでしょうか。あるいは今後少しずつその規範が弱体化していく可能性もあるのでしょうか。

 

 おそらく近代以降5世紀以上にわたって続いてきた、この労働規範が簡単に消え失せることはないでしょう。それは今後も長期にわたって持続し、社会規範の主要な一部をなすことになると僕は思います。ただいっぽうで、この「働かざるもの食うべからず」という規範は人類に普遍に存在するものではなく、ある時代状況において作り出されたものであることを確認しておくことは重要です。なぜならこのことは、別の時代状況においてはその規範が変わりうること、或いはわれわれがその規範を変えうることを意味しているからです。そして僕の考えでは、現在すでにこの労働規範はほころびを見せ始め、変質しつつあります。この変化が喜ばしいものであるかどうかは、簡単に判断することができません。勤労規範に替わって、別の新たな規範が登場してくることが予想されるからです。その次なる規範の内容と、それに伴って社会がどのように変容していくのかを見定めることが重要でしょう。この点については、また別の機会にじっくりと考えてみたいと思います。