草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

「二重の意味で自由な労働者」とは誰か? -マルクス『資本論』から資本主義の本質を考える。part 3

 前回の記事で、G-W-G' という資本の価値増殖を可能にさせるのが「労働力」という特殊な商品であることを書きました。ところでこの「労働力商品」は、自然にもとから存在していたものではありません。それは人為的・強制的に創りだされなければならなかったものです。「貨幣所持者が市場で商品としての労働力に出会うためには、いろいろな条件が満たされていなければならない」のです。マルクスはこれを「二重の意味で自由な労働者」の創出(出現)という言い方で表現しています。

 

 まず、市場において労働力商品が成立するためには、労働者が自分の労働力を「自由に」売ることができる権利を持っていなければなりません。労働市場では、あくまで貨幣所持者(資本家)と労働力所持者(労働者)が、「対等な商品所持者」として労働力売買にかんする契約を結び、等価交換を行わなければならない。実際には、労働市場では詐欺まがいの契約によって資本家(経営者)が労働者を搾取するという事態がいまだに数多く存在してるのですが、ここではいったんそういった略奪・詐術のケースは思考の外に置いておきます。あくまでマルクスはここで、等価交換ルールに基づく資本の価値増殖運動について説明しているからです。

 

 次に、市場において労働力商品が成立するためには、労働者は労働力以外の生産手段を持たない存在でなければならない、とマルクスは言います。例えば、工場や土地などの生産手段やそれを購入する元手(資本)を持ち合わせているのならば、その人は自身の労働力を市場で切り売りする必要はないでしょう。自分自身が資本家(経営者)となって他人を雇い、働かせたほうが労せず利益を得ることができるからです。(経営者だって「労働」している!というありがちな反論もここではいったん思考の外に置いておきます。)つまり、労働者は労働力以外の生産手段から「自由」でなければならない。

 

 自分の労働力を市場で売ることができる自由と、自分の労働力以外に市場で売るものを持たない自由。アイザリア・バーリンの有名な自由論をもじって言えば、前者は「~への自由」(free to~)という意味で積極的自由、後者は「~からの自由」(free from~)という意味で消極的自由、と言い換えられるかもしれません。このような二重の自由に置かれている労働者のことを、マルクスは「二重の意味で自由な労働者」と呼んでいたわけです。

 

「だから、貨幣が資本に転化するためには、貨幣所持者は商品市場で自由な労働者に出会わなければならない。自由というのは、二重の意味でそうなのであって、自由な人として自分の労働力を自分の商品として処分できるという意味と、他方では労働力のほかには商品として売るものをもたず、自分の労働力の実現のために必要なすべての物から解き放たれており、すべての物から自由であるという意味でそうなのである。」

 

 しかし、ここまで読んだ人の多くがそう思うでしょうが、このような状態に置かれている労働者は果たして本当に「自由」なのでしょうか?自分の労働力を市場で売ることができる自由は良いとしても、自分の労働力以外に生産手段を持たない自由というのは、実質的にはほとんど「自由」などと呼べないものでしょう。実際には、多くの労働者は自分の労働力以外に市場で売るものを持たないがゆえに、労働力を市場で売り続けなければならない「不自由」の状況に置かれているのであり、ここに労働力という商品を購入してもしなくてもよい資本家の「自由」との非対称な関係性が生まれてくることになります。

 

 「この関係は、自然史的な関係ではないし、また、歴史上のあらゆる時代に共通な社会的な関係でもない」とマルクスは書いています。「それは明らかに、それ自体が専攻の歴史的発展の結果なのであり、多くの経済的変革の産物、たくさんの過去の社会的生産構成体の没落の産物なのである」。『資本論』の妙味のひとつは、それが資本主義経済の構造を明快に分析しているだけでなく、そのような経済構造が成立するに至った歴史的過程をも巨大なスケールで描き出しているということです。マルクスの歴史観は一般に「史的唯物論」と呼ばれ、非常に悪名高いものなのですが(笑)、現在ではここまで巨大な視野で人類の歴史全体を語る人はほとんどいないので、そういった意味では一度その壮大な歴史観に触れてみるのも悪くないのではないかと思います。

 労働力商品が人為的・暴力的に創出された歴史的経緯については、次回以降にまた触れてみたいと思います。

 

 さて、ここまで説明してきたように、労働市場における「二重の意味で自由な労働者」は、形式的には、資本家(経営者・雇用者)と「自由・対等な人格的関係」にあり、それぞれ自由意志のもとに労働力商品について売買契約を結ぶという建前になっています。決して、資本家が労働者を暴力的に脅して無理矢理に労働契約を結ぶのではない、ということに(建前上は)なっています。しかし実際には、労働者には自身の労働力を売るという選択肢しか残されておらず、ときには自身に不利な条件であったり、不本意な労働環境であっても、労働契約を結ばねばならないことがしばしばあります。また、いったん労働契約を結んだ後も、その仕事場が気に入らなかったからといって簡単に労働契約を破棄できないケースもあります。仕事場の雰囲気でそうしにくい、ということもあるでしょうし、生活費を稼ぐためには嫌でも働かねばならない、ということもあるでしょう。

 

 そう、労働者は生存していくために日々の生活費を稼がねばならない、という必要性〔必然性]のもとに強制的に置かれているのであり、資本主義社会においては生活費を稼ぐためにはほとんどの人びとは自分の労働力を賃金と引換えにするしかないという状況に置かれているのです。ここに、「最悪働かなくても食っていける」資本家と(なぜなら資本家は一定の資本〔≒お金]を持っていることが前提ですから)、「働かなければ食っていけない」労働者との間に、「形式的には自由・対等な人格的関係」だが、「実質的には不自由・非対等な資本家-労働者関係」が現れてくることになります。マルクスはこのような建前と本音の乖離を別の箇所で、「資本の形式的包摂」と「資本の実質的包摂」という言い方で区分しています。

 

 このような労働契約の形式(建前)と実質(本音)の乖離が生み出す悲劇は、現代においてもしばしば見られるものです。いわゆるブラック企業の広告の謳い文句と、実際に会社に入ってみたときの労働環境の差を想像してもらえば分かりやすいでしょうか。労働者は「自由」の名のもとに、実際には「強制的に」労働市場への参加を宿命づけられている、という点でもマルクスの指摘は、現代資本主義にまで通ずるものです。いわゆる「自己責任論」も、このような議論の延長上にあるものだと捉えることができます。

 

  労働市場における「形式的な自由」と「実質的な不自由」を区別することは、現代社会を分析・批判するためには欠かすことのできない作業です。その本質を19世紀半ばにおいて見抜いていたマルクスの分析は、やはり慧眼であったと言わねばならないでしょう。最後に、『資本論』第一章・第四節「貨幣の資本への転化」の末尾にある、マルクスの慧眼と皮肉に満ちた記述を引用しおきましょう。少々長いですが、こういうユーモアと皮肉に満ちた文章もまた『資本論』の魅力を成す大きな要素の一つだからです。

 

「労働力の売買がその枠内で行なわれる流通または商品交換の部面は、じっさい、天賦人権の真の楽園であった。ここで支配しているのは、自由、平等、所有、およびベンサムだけである。自由! なぜならば、ある一つの商品たとえば労働力の買い手も売り手も、彼らの自由な意志によって規定されているだけだから。彼らは、自由な、法的に対等人として契約する。…平等! なぜならば、彼らはただ商品所有者としてのみ互いに関係しあい、等価物と等価物とを交換するのだから。所有!なぜならば、どちらもただ自分のものを自由に処分するだけだから。ベンサム!なぜならば、両者のどちらにとっても、かかわるところはただ自分のことだけだから。彼らを結びつけて一つの関係におく唯一の力は、彼らの自利の、彼らの個別的利益の、彼らの私的利害の力だけである。そして、このように、各人がただ自分のことだけを考え、他人のことには考えないからこそ、みなが、事物の予定調和の結果として、あるいは全能なる摂理のおかげで、おたがいの利益になり、共同の利益になり、全体の利益になる仕事だけをすることになるのだ。」

 

 いちいち意味は説明しませんが、この記述に込められたマルクスの皮肉を理解していただけるでしょうか?ここでマルクスは一般の経済学者(古典派経済学)の立場を、この上なく簡潔に説明しながら(最後のあたりはマルクスの「見えざる手」理論を皮肉っているわけですね)、その理論がいかに欺瞞に満ちたものであるかを暴露しているのです。『資本論』の副題が「政治経済学批判 Zur Kritik der Politischen Oekonomie」であることの理由もここにあります。資本主義経済がもつ欺瞞とその実態を暴き立て、それを超克する新しい経済-社会を構想すること。これこそがマルクスが生涯をかけて取り組んだ課題であり、その成果の集大成とも言うべき大著が『資本論』であるのです。