草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

リキッド・モダニティにおける不安な僕たち

 僕が大学を就職して、某メーカー企業に就職したのが2005年だったのだけれど、ちょうどその頃から、正規社員と非正規社員の格差問題や、ワーキングプア問題、偽装請負事件、ロストジェネレーション問題などが世間を賑わすようになった。2006年には「格差社会」が流行語のひとつに選ばれている。僕も大学4年生のときに山田昌弘先生の『希望格差社会を読んで、「なるほど、将来の対する希望の差が格差を生んでいるのか!」と衝撃を受けたりもした。ライフコースの多様化に伴い、従来は安定的に描けていた将来設計の見通しが成立しにくくなったため、現在の収入や地位についての格差というよりも、将来に希望をもてる人ともてない人との格差が社会的に大きな意味をもつようになってきている、というのが山田先生の主張である。

 

希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く

希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く

 

 2000年代頃から労働・雇用環境に関しておこった変動を表すキーワードは「流動性」である。戦後日本の経済成長期を象徴した終身雇用・年功序列という日本型労使システムが90年代に崩壊し始め、かつて安定的だった労働・雇用環境が流動化し、長期的な将来設計が困難になった。誰も5年先の未来を描けない。10年前までは東電やJALなんて超優良企業で、学生の就職希望ランキングでも上位に入っていたはずだ。現在、経営不振で大型リストラを繰り返しているソニーやパナソニック、シャープなどの電機メーカーもそうである。今のところ、自動車メーカーはまだ新興国にたいしてやや優位を保っているけれども、その状態もそう長くは続かないだろう。こんな状況では就職活動にのぞむ学生の態度が慎重になったり保守的になったりするのも仕方がないところである。

 

 「流動化」というキーワードで後期近代を読み解いたのは、ジグムント・バウマンの『リキッド・モダニティ』である。かつては「一生ものの契約」だった労働・雇用環境が、近年では「追って沙汰があるまで」も束の間の契約になってしまったとバウマンは言う。この過剰流動性が後期近代社会を不安定化させ、さまざまな社会問題を引き起こしているのではないか。適度な流動性は人びとに自由をもたらすけれど、過剰な流動性は人びとに不安をもたらす。かつては人びとを社会化させ、社会を安定的にまわすために機能していた労働倫理が、現在では不要な人びとを切り捨て、社会に分断線をもたらす機能を果たすようになっている。

 

リキッド・モダニティ―液状化する社会

リキッド・モダニティ―液状化する社会

 

 どうしてこういった状況になってしまったのだろうか。僕の見るところ、現在、多くの若者は将来の展望について、あまり大きな希望をもっていない。「そこそこの環境でそこそこに働いて、それなりにまったりと暮らしていければいい」という控えめな将来への希望を語る後輩が多い印象だ。彼らが生まれたときからずっと日本経済は長期不況に陥っていて、日本の政治状況にもほとほとうんざりしているし、社会的な将来見通しを立てることも難しいし、こんな状況のなかで若者は大きな希望や野心を抱けというほうがどだい無理というものである。

 

 しかしそのようなささやかな生活にたいする彼らの希望ですらも、現在の日本では叶えにくくなってきているのかもしれない。最近の大学生(ときには高校生や中学生ですら!)がもっている就職活動への不安は、ちょっと驚いてしまうほどに大きい。不況不況といえど、物質的には十分に豊かであるはずの日本で、どうしてこんなにも若者が不安に陥り、多くの人が将来見通しを描きにくくなっているのだろうか。この状況を少しでもマシなものにするためには、どうしていけば良いのだろうか。

 僕はこういった問題について、「労働思想史」という武器をつかいながら、自分なりに考えていきたいなと思っている。