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草食系院生ブログ

「労働」について思想史や現代社会論などの観点からいろいろ考えています。日々本を読んで考えたことのメモ。

現代に残された「蕩尽」の可能性とは-バタイユ『有用性の限界 呪われた部分』から考える5

前回からの続き。

バタイユは、近代の資本主義社会において「過剰なもの」を「蕩尽」するための方法が失われ、「過剰なもの」のさらなる増殖を目指した無限運動が自己目的化していることを批判的に捉えていたのでした。

しかし現代社会においても限られたかたちで「過剰なもの」を「蕩尽」する方法は残されている、とバタイユはいいます。その一例としてバタイユは「喫煙」を挙げています。

現代の社会で浪費がほとんどなくなっているというのは、それほど確実なことではない。その反論として、煙草という無駄な消費を挙げることができるだろう。 考えてみると、喫煙というのは奇妙なものだ。煙草はとても普及していて、わたしたちの生活のバランスをとるためには、煙草は重要な役割を果たしている。不況のときにも、煙草の供給は真面目に配慮されるくらいだ(少なくともそう見える)。煙草は「有用な」浪費に近い特別な地位を占めているのである。(『呪われた部分 有用性の限界』ちくま学芸文庫、130-131頁)

煙草好きだったバタイユならではの観点ですね。

ただし、喫煙はあくまで個人的な「浪費」にすぎず、かつての「祝祭」における「蕩尽」とは根本的に異なるものである、とバタイユは指摘しています。

祝祭はすべての人が同じように参加する。ところが煙草は富む者と貧しい者との間でうまく配分されていない。多くの喫煙者は貧窮していて、特権のある人々だけが際限なく喫煙できるのだ。他方で、祝祭は特定の時間だけに制限されるが、煙草は朝から晩まで、いつでもふかすことができる。こうした散漫さのために、喫煙は誰にでもできるものとなり、そこに意味が生まれないのだ。喫煙する多くの人が、そのことをいかに認識していないかは、驚くほどだ。これほど把握しにくい営みはない。(同上、131頁)

喫煙が個人的に消費されるのに対して、祝祭は集団によって浪費されるがゆえに、人々が交流(交通)し、共同体の結びつきを強める機能をもっていた。以前にも述べたように、「祝祭」は単なるお祭りではなく、その機会に富める者がふだん蓄積した富を放出し、それによって富める者と貧しい者との間の格差を埋める再分配の効果をもっていたのでした。また煙草は朝から晩までいつまでも好きなときにふかすことができるけれども、祝祭は特定の時間に限定されているがゆえに特別な価値をもっていたのだとバタイユはいいます。非常に鋭い視点です。

 

呪われた部分 有用性の限界 (ちくま学芸文庫)

呪われた部分 有用性の限界 (ちくま学芸文庫)

 

 

 また『呪われた部分』の第三巻にあたる『至高性』のなかでは、新たに「至高性」という観点から「過剰なものの蕩尽」の問題が再考察されています。このとき、「至高性」が「労働」と対比されて論じられていることがポイントです。バタイユにとって「労働」とは、あくまで必然的な原理のうちで「有用性」を目的として隷従的になされるものにすぎない。これに対して「至高性」は「有用性」を超えたところに、あるいは「必然性〔必要性〕」を超えたところに現出するバタイユはいいます。

至高性を際立たせるのは、富を蕩尽するということだ。つまりもろもろの富を生産するにもかかわらず、それを蕩尽することのない労働とか隷従性とは正反対の富の蕩尽である。至高者は蕩尽し、労働しない。それに対し、至高性の対局に位置する奴隷、すなわち持たざる人間はもっぱら労働し、そして自分たちが消費するのはただ必要最小限なもの、生産物のうち自らが生存し、労働することができるためになくてはならないものに限られている。(『至高性』湯浅博雄訳、人文書院、1990年、9-10頁)

 

「有用性」の領域とは、ある行為の外に何らかの目的があって、その目的を達成するための手段として行為がなされる領域のことを指します。例えば、お金を稼ぐために労働するとか、何らかの解決するべき問題があってそれを解決するために作業をするとかいったケースです。これに対して「至高性」の領域は、そのような「有用性」の領域(~のための○○)を超えて、その行為それ自体のうちに最上の喜びが見出されるような領域を指します。すなわち、「有用性を超えた彼岸こそ至高性の領域である」

 

これをバタイユは次のようにも言い換えています。「労働」とは「現在という時を未来の利益のために用いる」ことであって、このような行為は「隷従的」である。例えば、「労働者がボルトを生産するとき、その生産は、このボルトが自動車の組み立てのために役立つことになるはずの時を念頭に置いて、それを目指して行われる」。そのような労働を通じて、労働者は賃金を獲得し、自分の生存に必要なものを手に入れることができる。これはあくまで「有用性」の領域である。

 

これに対して、「至高であるということは、現在という時を、その現在という時以外にはなにものも目指すことなしに享受することである」(同上、11頁)。例えば、「労働者はその稼いだ賃金のおかげでワインを一杯飲むこともできる」。労働者が一日の仕事を終えたあとでワインを一杯飲むということは、彼の元気や体力を回復するためのものだとも言えるが、「実のところ彼は必要に迫られた不可避性を――つまり労働の原理であるような不可避的・必然的なものを――逃れようとする希望をこめて飲むのだと思われる」。

労働者が奮発してワイン代を支払い、美味なるワインを飲むとき、そこには「ある種の味わいという要素、ある奇跡的な要素が混入することになる」、そしてそのような奇跡的要素こそが至高性の基底を成しているのだ、とバタイユは書く。

それはまったく些細なことだ。が、しかし少なくとも一杯のワインはある短い瞬間、自分が世界を自由に取り扱っているという奇跡的な感覚をその労働者に与える。むろんそんなことを意識する間もなく、ワインは次々と盃を重ねられるだけだろう(労働者は飲むとすぐにそんなことは忘れてしまうだろう)。それでもそこに陶酔の原則はあるのであって、その奇跡的な価値に異議をさしはさむことは誰にもできないだろう。(同上、11-12頁)

 

先に述べた喫煙の例と同じく、このようにワインを飲むという行為も、基本的にはそれはあくまで「個人的な消費」の次元にすぎず、それは古代的な「祝祭」における「過剰なものの蕩尽」には敵わないであろう。しかし、それでも現代資本主義社会のうちにも、限定的なかたちで「蕩尽」の瞬間は確かに存在している。ごく瞬間的な些細なものであるとはいえ、その瞬間に含まれる「奇跡的な要素」をバタイユは見逃していない。

 

もちろん、煙草やワインを消費することもまた、現代では資本主義システムのうちに取り込まれている。それはあくまで「資本の自己増殖運動」を駆動することに手を貸しているだけではないか、という批判はありうるかもしれない。しかしそのような資本主義的消費のうちに、一時、資本主義的原理を逃れる「蕩尽」の瞬間がありうることをバタイユは指し示そうとしていたのであった(言うまでもなく、バタイユにとって資本主義システムは「必然的」かつ「隷従的」な領域のうちにある)。

 

原則として、労働へと拘束されている人間は、それなしには生産活動が不可能となるような最低限の生産物を消費する。その逆に至高者は生産活動の超過分を消費するのである。(同上、10頁)

 

集団的な「蕩尽」の方法が失われた現代資本主義社会のうちにも、 いくつかの限定的なかたちで「過剰なもの」を「蕩尽」する方法が残されていないわけではない。煙草やワインの他にも、バタイユ「笑い」「エロティシズム」「芸術」などのうちにそのような奇跡的要素を見出している。これらの「蕩尽」のかたちについてはまた次回に述べることにしよう。

 

至高性―呪われた部分 (普遍経済論の試み)
 

 

「蕩尽」なき「消費」-バタイユ『有用性の限界 呪われた部分』から考える4

ようやく博士論文を書き終わったので久しぶりにブログを更新してみます。もはや前回の更新から1年3ヶ月も経っていますね!どうでもいいことですが、このブログ、どうやら大学の試験時期やレポート時期だけアクセスが急増する(といっても大した数ではないですが)傾向にあるようです。少しでも学生さんの役に立っているといいのですが(しかしコピペはダメですよ)。

 

もうずいぶん前の記事ですが、前回まではバタイユの理論に沿って、過剰な富が「蕩尽」される過程を追ってきたのでした。古代社会では「栄誉」を基準として祝祭における「蕩尽」が行われ中世社会では「慈善」を基準として宗教への「蕩尽」(=生産)が行われてきた。これに対して近代社会では、過剰な富を「蕩尽」(浪費)するのではなく、富を蓄積したうえでそれをさらなる富の増殖へと「投資」(先送り)していくという反復運動が行われるようになる。これがマルクスがいうところの「資本の自己増殖運動」を引き起こすのだ、というのがバタイユのおおまかな見立てでした。

 

呪われた部分 有用性の限界 (ちくま学芸文庫)

呪われた部分 有用性の限界 (ちくま学芸文庫)

 

 

バタイユの描く資本主義像は、マルクスの描くそれとほとんど同じです。その背景にはもちろんバタイユマルクス主義から大きな影響を受けているという事情があります。

 

「資本は基本的に、私的な利害にも、公的な利害にも無関心なままに発展してきた非人称的な貪欲さの運動である。あまねく成長するように宿命づけられたマシンなのである。しかしこの資本の非人称性という性格のために、最終的には社会的な傾向を犠牲にしながら、利害関係を重視するという特徴を発展させていくことになる。資本主義のマシンは、分解の動因なのだ」(バタイユ『呪われた部分、有用性の限界』ちくま学芸文庫、124頁)

「あまねく成長するように宿命づけられたマシン」としての資本主義は、その破壊力のために社会を犠牲にし、さまざまな繋がりを分解していく。このようなマシンとしての資本主義を駆動するのは、実業家ではなく投機家である、とバタイユはいいます。カルヴィニズムにおける実業家は、まだ宗教的な圏内に留め置かれながら、過剰な富を「生産」へと振り向けていた。しかし近代社会における投機家は、もはや有用な「生産」のためではなく、富の増殖それ自体だけを目的とした投機(≠投資)を行う。 

 

資本論 (1) (国民文庫 (25))

資本論 (1) (国民文庫 (25))

 

 

「資本主義の道徳的な雰囲気を作り出すのは、この投機家である。こうして投機家は、資本主義の達成したものを、自分の姿勢の土台になる価値、すなわち個人と私的な享受に結びつける。カルヴィニズムの霊的な原則は消滅し、実業家は〈社会主義的な役人〉のような態度を取らざるをえない。だからこそ大投機家がこうした新しい価値の紋章となるのである」(同上、126頁)

 

 

 こうしてもはや、近代社会では「祝祭における蕩尽」や「栄誉ある浪費」や「宗教的生産」どころか、「プロテスタンティズム的な勤労」や「有用な生産」さえも喪失され、ただ「商業的な搾取」にもとづく「資本の自己増殖運動」だけが残ることになります。

 

「人間の栄誉ある浪費は限界まで抑えられ、こうして商業的な搾取が可能になった。豪勢な活動の対象を作り出すことができたものは、なにも(あるいはほとんどなにも)残らなかった。現代では文学も見世物も、貨幣の計算に還元できるものである。(中略)祝祭の運動は全体として悲劇的であり、栄誉に輝き、人を陽気にさせるものだ。かつては人間の顔に誘惑の力を与えたものだったが、いまやそれも変質してしまった」(同上、128-129頁)

 

いや、資本主義社会では数え切れないほどの「浪費」が行われているではないか、と人はいうかもしれない。しかしそれはバタイユによれば、本当の意味での「浪費」(栄誉ある浪費)ではない。「資本主義的な生産に見合う浪費とは、真の豪奢さを排した個人の浪費というあり方だけである」(同上、130頁)。大量生産された製品ときらびやかな広告によって導かれるのは「みせかけだけの贅沢」にすぎない。そのような「みせかけだけの贅沢」のもとでは、人々は疲れきり、やがて「退屈」に陥ってしまう。そこには本当の意味での「蕩尽」が存在しないからである。

 

「わたしたちは、自分たちが生み出している余剰なエネルギーを、断固として浪費する必要があるのだが、そのことをもはや、だれも理解できなくなっているのだ。そしてわたしたちが盲目的であるために、この余剰が大きくのしかかる。そして余剰がわたしたちを浪費するほどには、わたしたちはこの余剰を浪費していないのである」(同上、138頁)

 
また近代資本主義のもとでは、「浪費」(消費)はあくまで個人的なものとなり、かつての祝祭におけるような集団的な人々の交わりという契機を失ってしまっている。かつての「蕩尽」や「浪費」が社会的なものであったのに対して、近代では「浪費」や「消費」があくまで私的な享受のためだけに行われていて、そこには本来的な「豪奢」が成立していない。このような個人主義的消費は「栄光を否定する宿命にある」ものであって、人々に真の満足を与えない。こうして資本主義社会は「蕩尽」を完全に衰退させてしまった、とバタイユは論じています。

 

「人間にとって豪奢とは、社会的な地位の表現である前に、祝祭の表現であった。祝祭で人々は交じりあい、交感する。豪奢とはまさに、多かれ少なかれ、人々のものであった(大聖堂に置いてもそうだったように)。ところが今わたしたちが知っている豪奢とは、人々を分かつ豪奢にすぎない。地位を築くための浪費による豪奢なのである」(同上、133頁)



前回記事の最後でも触れたように、バタイユにとって本質的に重要なのは「富の稀少性」ではなく、むしろ「富の過剰性」のほうです。古代社会からしてすでにつねに富は「過剰なもの」であった。それは地球がつねに太陽からの「純粋贈与」を受けているからです。近代以前の社会にはそのような「過剰な富」を「蕩尽」「浪費」していく知恵をもっていた。しかし近代以降の社会では「過剰な富」をさらに増殖させることに人々の関心が向けられ、市場において作り出された「稀少性」に人々は駆り立てられるようになった。しかしそこに生じる「消費」は決して「真の意味の浪費」=「蕩尽」ではない。そこにあるのはただただ「搾取を経て価値増殖していくマシン」にすぎない。そのような社会ではわれわれは真の「豪奢」を享受することはできないであろう、というのがバタイユの主張でした。このようなバタイユの「過剰経済学」の思想は、「過剰に豊か」でありつつ同時にどこか閉塞感の漂う現代社会にもまさに当てはまるものではないでしょうか。

「蕩尽」から「生産」へ-バタイユ『有用性の限界 呪われた部分』から考える3

 前回の記事では、古代社会・未開社会における「過剰」な富が「祝祭」の際に「蕩尽」される(ポトラッチなど)ことを書きました。このような「蕩尽」のあり方は、中世に入ると少しずつその様相が変わってきます。これも前回記事で書いたように、古代社会・未開社会においては「栄誉」が最大の価値基準でした。しかし、中世社会ではキリスト教における「慈善」こそが最大の価値基準になったバタイユは言います。

 

呪われた部分 有用性の限界 (ちくま学芸文庫)

呪われた部分 有用性の限界 (ちくま学芸文庫)

 

 

 やや単純化していえば、西洋における中世とはキリスト教が最大の権限をもった時代です。そのような社会では、蓄積された「過剰な富」の向けられる宛先も「宗教」(キリスト教)になります。具体的には、聖堂の建設、豪奢な典礼、僧院の維持などのために「過剰な富」が充てられることとなったのでした。これは、資本主義的な「増殖」とは異なるものの、西洋社会がその富を「生産」の方向に充て始めたことを意味していました。

 

「教会は大地を名誉ある建物で覆い、この聖堂で人々は、とてつもない儀礼を祝ったのだった。施しは当初の目的から逸脱して、奢侈の目的でも行なわれるようになった。すべての町とすべての村に、教会堂や聖堂が聳え立ち、キリストと、キリストの死にたいして、すべての人が行った贈与を証言している。平野から渓谷まで鐘楼と塔が聳え、供犠のしるしのもとに、人々と家と道の記憶を刻んでいる。」

(『呪われた部分、有用性の限界』ちくま学芸文庫、95頁)

 

 例えば、世界遺産にも登録されているドイツのケルン大聖堂は、初代が完成したのが4世紀、2代目が完成したのが818年。3代目は2代目が焼失した1248年に再建が始まり、16世紀に入ると宗教改革を発端とする財政難から工事が途絶。1842年に建設が再開され、全てが完成したのは建設開始から600年以上(!)が経過した1880年のことだったといいます。

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f:id:windupbird:20140127053657j:plain  ケルン大聖堂

 

 これだけの長期間をかけてひとつの大聖堂を作り続ける、これが中世に興った「宗教的生産」のかたちでした。ケルン大聖堂ゴシック様式の建物ですが、ゴシック様式とは西ヨーロッパで12世紀後半から15世紀にかけて発達した建築様式を意味しています。そのゴツゴツした無秩序にも見える不思議な建築様式は、中世の「宗教的生産」が産んだ文化的創造物のひとつだったと言えるでしょう(他にもパリのノートルダム大聖堂などがゴシック建築物に分類される)。

 

 こうして中世には「宗教的経済」が栄え、古代以前の「祝祭的経済」は衰退していくわけですが、その「宗教的経済」もルネサンス期に入るとまた様相が変化します。16世紀にいわゆる宗教改革が始まると、カトリック教会の豪奢な建造物や浪費的な典礼が批判の対象となり、「あらゆる濫費を敵視する道徳」が広がりを見せるようになります。ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で喝破したように、ルター・カルヴァンの広めたプロテスタンティズムは、「浪費」を敵視し「勤労」と「蓄積」を奨励しました。また堕落したカトリック教会の権威に依らず、個人と神が聖書を通じて直接に相対する、徹底的に個人主義的な信仰のあり方を提唱しました。

 

 「勤労」の結果として「蓄積」された富は、もちろん浪費されてはならない。その「蓄積」を未来へと先送りし「投資」することこそが奨励される。「世俗内禁欲」(プロテスタンティズムの倫理)に基づく、このような富の蓄積と投資(先送り)が「資本主義の精神(エートス)」を醸成していったこともまた、ウェーバーが指摘するところです。ここにいよいよ、「過剰性」を「蕩尽」「浪費」することなく、将来へ向けて「蓄積」し「投資」する資本主義経済が駆動を始めることとなるのです。

 

「これとは反対に、栄誉、そして一般にすべての興奮は、無益なもの、あるいは経済に有害なものとなった。福音書の信仰は、大地における栄光に敵対するものであり、死者にしか栄光を認めない。信者にとっては、この世の破滅的な壮麗さほど、真なる栄光とかけ離れたものはない。」(同上、98頁)

 

 こうして地上における「浪費」がいったんは否定されることになるのですが(世俗内禁欲)、しかしこれもウェーバーが言うように、そのような禁欲の倫理はほどなくしてブルジョワジーの欲望と資本主義の運動のもとに飲み込まれ、その正反対の「欲望」と「消費」が世界経済を際限なく駆動していくこととなるのです。宗教改革の時代が同時に大航海時代でもあり、西洋経済の領域が拡張していく時期にあたっていたこと(またマルクスのいう「原始的蓄積」が行われた時代であったこと)は以前の記事でも書いたとおりです。

 

「ブルジョワジーの世界は、この濫費への恐怖、祝祭と供犠への恐怖によって成熟した。…禁欲主義のもとで登場してきた実業家は、有用性に価値を与えた初めての人間である。実業家が求めた評価の基準は、資本、すなわち企業に投資された富だけだった。」(同上、105頁)

 

 このようにブルジョワジーは「濫費への恐怖、祝祭と供犠への恐怖」をプロテスタントと共有しつつも、同時に「有用性」に価値を見出し、蓄積した富を「資本」に投資するという方式を(歴史上初めて)発見することによって、資本主義的増殖運動への決定的な一歩を踏み出したのです。そこでは「実業が栄誉なしに繁栄することが目的となり、有用性が道徳的な価値の基礎となった」(同書、106頁)。こうして「有用性」に最大の価値が置かれ、社会の「過剰な富」が「蕩尽」「浪費」されずに未来へと先送り=投資されるという、近代資本主義社会が開始されたのでした。

 

 そこでは「過剰性」がいつの間にか「稀少性」へと置き換えられ、「過剰な富」は飽くことなく「増殖」=「成長」を追い求め、人々や自然がもつ「余剰」なエネルギーが市場経済のために開発=搾取(exploit)されることになります。 バタイユが厳しく批判したのも、このような資本主義経済のあり方でした。次回記事ではこの点について詳しく見ていくことにしましょう。

 

 

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

 

 

「祝祭」と「蕩尽」――バタイユ『有用性の限界 呪われた部分』から考える2

 前回は、バタイユの構想した「普遍経済学」では「過剰性」がキーワードである、ということを見ました。これは、人間の欲望が根源的に「過剰性」に取り憑かれている、というバタイユの洞察からくるものです。人間の欲望はとどまることを知らず、放っておくとどんどんと増殖していく。この「過剰性」をどのように処理するかが「普遍経済学」の課題である、とバタイユは考えていました。

  

呪われた部分 有用性の限界 (ちくま学芸文庫)

呪われた部分 有用性の限界 (ちくま学芸文庫)

 

 

 

 

 これは「稀少性」を前提とする通常の経済学とはまったく逆の考え方です。通常の経済学では、財が基本的に有限で稀少性をもっており、この稀少な財をもっとも効率的に配分するのが自由市場のしくみである、という風に考えます。このような経済学の考え方は、1870年代にメンガーワルラス、ジェボンズらによって樹立された限界効用理論に基いています。バタイユの「普遍経済学」は、このような限界効用理論を根底から疑うような構想をもっていました。

 

 未開社会や古代社会ではこのような「過剰性」を「消尽consumation」あるいは「蕩尽consommation」という方法によって処理していた、とバタイユはいいます。『呪われた部分』のなかでバタイユは古代メキシコのアステカ族を例にとっていますが、未開社会や古代社会では「栄誉」がもっとも重要な価値基準でした。アステカ族では、「祝祭」の際には共同体の王は自らの富を気前よく民衆のために「浪費」する必要がありました。「祝祭」の際にケチケチとしているようでは共同体の王は務まらない。ふだん民衆より上の立場にたって偉そうに振る舞っているかわりに、「祝祭」や「戦争」などの場面では、「至高の地位」に立つ王が蓄積した富を放出し、民衆のためにそれを「浪費」しなくてはならない。それは何よりも王の威厳を示すための行為でした。

 

「古代のメキシコでは、気前のよさが王の特性のひとつであった。しかし王も、民の共同の期待に応じて行動すべき人のひとり、たんにもっとも富める者にすぎなかった。富者、貴族、商人たちも、それぞれの力に応じて、民の期待に答える必要があった。有力者は祝祭で財を浪費するために、富を蓄積しておかねばならなかった。高位の人々や商人たちは、奴隷を神の生け贄に捧げた。そして習俗と栄誉を保持する願いから、豪奢な宴会を催さねばならなかった」

(『呪われた部分、有用性の限界』ちくま学芸文庫、77頁)

 

 このように、古代メキシコでは王だけでなく、富者、貴族、商人たちもそれぞれの力に応じて、民の期待に答える必要がありました。公的な宗教に結びついた祝祭は、富める者たち、とくに商人たちが催したもので、そのような場では商人もまた、「利害の原則に厳密には従わず、値段の駆け引きなしで取引をおこない、交易者としての栄誉ある気品を保っていた」(同書、74頁)。「アステカの『商人』たちは、売るのではなく、贈与による交換をおこなっていたのである」(同上)。

 

 ときには破産してしまうほど気前よく貯めこんだ富を浪費すること、それによって共同体の習俗と個人の栄誉を保つことこそが重要であるとされたのです。そこでは「利害の原則」とは全く異なる原理が働いていました。「アステカの商人の『栄誉ある行動』について語ってきたことは、西洋の非人間的な文明が依拠している有用性の原則に、異議を申し立てるものである」とバタイユは書いています。

 

 古代アステカ族だけでなく、未開社会や古代社会に広く見られたこのような「蕩尽」のあり方は、近代以降の資本主義市場を唯一の「経済」のあり方と考える今日の経済学を相対化し、それとは別のかたちの「経済-社会」がありえるという可能性をわれわれに見せてくれます。以前に柄谷行人『世界史の構造』に関する記事のなかで書いたように、交換様式C(=商品交換)ではなく交換様式A(=互酬)が中心的な原理となっている社会-経済のあり方を、バタイユは的確に示してくれています。

 

いくつかバタイユの印象的な記述を引用しておきましょう。

「ポトラッチのもつ意味は、喪失という栄誉がもたらす効果にある。この営みから、貴族の身分、名誉、階層構造における地位が生まれる。もっとも多く贈与する者に、栄誉が与えられるのである。」

「しかしかつて富は、権力を獲得することであったが、その権力は喪失する権力だったのである。過去の時代の大衆にとって、財産は栄誉ある者、至高の存在、浪費によって失う必要性のもとに置かれた〈高さ〉と結びつけられていたのである。」

「産業社会となる以前の文明では、富者は祝祭の費用を支払わされていた。もっとも有力な者は、突然の浪費にそなえて、予備の富を蓄えていたのである。人々の労働が富を創出し、富める者がこの富を蓄積する。共同体はこの富のすべてを、栄誉ある形で一挙に浪費する――過剰さへの欲求の外に、いかなる欲求も満たさずに」

「富という語に、この〈名誉の高さ〉という意味が、まだ木霊のように共鳴している」

 「かつては祝祭は、惨めな多数者に開かれたものだった。祝祭によって社会的な秩序が転倒し、奴隷が主人であり、主人が奴隷に奉仕することもあったのである。祝祭には富という意味があった。」

  

  「祝祭」とそこにおいてなされる「蕩尽」という贈与は、「過剰」を処理することによって共同体を活性化させ、地位ある者の栄誉を高めるとともに、特定の人々に富が独占されないように、その共同体の経済-社会のバランスを保つためになされる公共的な営みだったのでした。もし祝祭の原則に反して、祝祭が私的に催されるようになると、富のもつ自然な輝きは薄れてしまう。「壁の背後でこっそりと隠れて催される祭は、富の輝きを横領する」。 

 

 しかし近代に入って、経済のしくみが「資本主義」へと移行すると、このような祝祭-蕩尽のしくみは衰退していきます。資本主義経済では「過剰なもの」を特定の資本家が蓄積し、それを民衆に気前よく「贈与」することはなく、蓄積した富をさらなる余剰の生産にむけて投資していく(先送りしていく)ようになります。その結果として、「余剰なもの」が「蕩尽」「消尽」されることなくどんどんと社会のなかに増殖していく。バタイユはここに近代社会の病理を見ていました。この点については次回の記事で詳しく見ていくことにしましょう。

 

 

バタイユ: 呪われた思想家 (河出ブックス)

バタイユ: 呪われた思想家 (河出ブックス)

 

  

バタイユ―消尽 (現代思想の冒険者たち)

バタイユ―消尽 (現代思想の冒険者たち)

 

  

バタイユ

バタイユ

 

 

「普遍経済学」あるいは「過剰性の経済学」の試み――バタイユ『有用性の限界 呪われた部分』から考える1

 ジョルジュ・バタイユが通常の経済学の領域にとどまらない、人類学などの知見を取り入れた「普遍経済学」を構想したことはよく知られています。普遍経済学という言葉に表れているように、バタイユのいう経済学は、いわゆる「経済」の枠を超えて、より広い社会-経済の領域をその範疇に捉えています。

 この「普遍経済学」の試みこそが、現在の経済成長を前提とした経済学の限界を乗り越えるオルタナティブをわれわれに示してくれるのではないでしょうか。ここでは吉田裕『バタイユ-聖なるものから現在へ』を参考にしながら、その構想の概要を見てみたいと思います。

 

呪われた部分 有用性の限界 (ちくま学芸文庫)

呪われた部分 有用性の限界 (ちくま学芸文庫)

 

 

バタイユ 聖なるものから現在へ

バタイユ 聖なるものから現在へ

 

 

 バタイユの普遍経済学は、「稀少性」を前提とした通常の経済学とは異なり、「過剰性」を前提とした経済学を構想しています「過剰excés」あるいは「余剰surabandance」という言葉がバタイユのテキストには頻出します。「過剰とは、世界が至高なありようをしているときにはどのようであるかを示す徴(しるし)、突然強調されて現れる徴なのだ」(『内的経験』)。

 まずバタイユが「過剰」「余剰」の原初に見出すのは太陽エネルギーです。太陽は見返りを求めることなく、自らを破壊することによって光と熱を生み出し、一方的にその過剰なエネルギーを「贈与」している。つまり太陽から降り注ぐ光と熱は、地球上に暮らすわれわれに向けられた「純粋贈与」である。こうして与えられた太陽エネルギーをもとにして、地球上に生命体が生み出され、生態系が育まれる。

 

内的体験―無神学大全 (平凡社ライブラリー)

内的体験―無神学大全 (平凡社ライブラリー)

 

 

 個人的には、以下の谷川俊太郎の詩がこのイメージをよく表していると思います。

「陽は豪奢に捨てている

 われわれはそれを拾うのにいそがしい

 われわれはいやしい生まれなので

 樹のようにゆたかに休むことがない」

谷川俊太郎『62のソネット』より)

 

六十二のソネット (講談社プラスアルファ文庫)

六十二のソネット (講談社プラスアルファ文庫)

 

 

 そして、生命体が太陽の「過剰」なエネルギーによって生み出されたものであるならば、その生命体の本質もまた「過剰さ」にあるということになる。本質としてのこの過剰さは、生命体を完結した循環の中に安住することがない。生命体は、その過剰によってつねに、元の数以上の生命体を生み出していく。それゆえ、この地球上の生命体は(とりわけ食物連鎖の頂点に立つ人間は)太陽エネルギーに由来する「過剰さ」に原初的に取り憑かれているということができる。

 

「まず自由なエネルギーが放出される。これは太陽エネルギーである(地球のエネルギーでもある)。この自由なエネルギーは、一つまたは複数のシステムで獲得できる。このシステムは最後にはエネルギーを再び放出する。こうして、植物は太陽エネルギーを吸収し、動物に食べられ、動物は人間のための仕事をし、やがて人間に食べられる。エネルギーと同じように、人間の糧は労働のうちでもたらされる。」

バタイユ「1941年から1943年の構想と断章」)

 

 このようにバタイユ「純粋贈与」としての太陽エネルギーから出発した「過剰な」エネルギーが連鎖的に放出・吸収されていく過程を「普遍経済学」の根本として捉える。人間の社会的な営みもまた、このような過剰なエネルギーの連鎖の元にあるのであり、それゆえにその営みは本質的に「過剰性」によって性格づけられている、というのがバタイユの考えであった。

 

 バタイユによれば、未開社会においては、その過剰なエネルギーは「栄誉」の観念として、「祝祭」あるいは「供犠」のような儀礼のなかで吸収され、発出(生産・贈与)され直していました。

 

「栄誉とは、有用性への配慮とは独立してエネルギーそのものとして浪費すること、あるいはある側では過剰に浪費することによって発生する効果である。その意味では太陽の光はまさしく栄誉ある消費とみなすべきだ。そして民衆の意識においては、太陽の光が潤沢さ、比類のない勇気、供犠、詩的な転載など、いくつかの人間の生活の形式と似たものと考えられているのも、まさにこのためである…。」

バタイユ『呪われた部分 有用性の限界』中山元訳、ちくま学芸文庫、39頁)

 

「未開の民族に共通する意識では、太陽は栄誉のイメージを示すものである。太陽は光を発散する。栄誉は太陽のように光輝くもの、光を発散するものと考えられている。素朴な人間にとって光は、神的な存在のシンボルである。光は壮麗さを備えている。この輝きは有用なものではないが、開放感を与えてくれるものである。」

(前掲書、41頁)

 

  バタイユは、アステカ族の「栄誉ある浪費」としての祝祭-供犠を例に出すことでこれを説明しています。アステカ族では、毎年の供犠において「若く、非の打ちどころのない美しい若者」が犠牲に捧げられた。犠牲となる若者は一年前に戦の俘虜のうちから選び出され、それから一年間、その俘虜は王侯のように贅沢な暮らしを与えられる。生贄の祝祭の20日前には「みめよい四人の娘」が彼に与えられ、若者はこの20日の間、娘たちと交わる。そして生贄に捧げられる祭りの5日前に、若者は神の栄誉を与えられる。涼しく、心地良い場所で祝宴が開かれたのち、若者は神殿の階段を登る。最上段に登ると、死を与えようと待ち構えていた神官たちが若者に襲いかかり、石造りの板の上に投げ倒す。黒曜石の刀をもつ神官が若者の胸をぐさりと刺し、その刀で開けた傷口に手を差し込んで心臓を抉りとり、それをすぐに太陽に捧げる…。この饗の儀礼は休みなしに続けられ、聖なる供犠のために毎年、2万人以上の生贄が必要とされたといいます。

 

 現代の感覚からすれば、野蛮・残酷としか思えないこの儀礼も、「純粋贈与」として与えられた生命エネルギーを栄誉の名のもとに「浪費」し、生贄を神に捧げることによって、神/太陽からの「純粋贈与」に対するささやかな「返礼」を行う意義を有していたのです。

 

 戦場における戦士の死もまた、供犠における生贄と同様の意味をもっていました。

「戦士は自分の身体で、貪欲な神々に食べ物を奉じることになるのである。」

「戦士たちが戦の場で果てることを神々が望むのは、まことにもっともなことです。神々が戦士をこの世に送り出したのは、戦士の血と肉を、太陽と大地の糧とされんがためですから。」

(前掲書、63-64頁)

 

  このように未開社会においては、過剰エネルギーの贈与と吸収は、祝祭-供犠における栄誉の観念とともに、それが「死」と密接に結びついていることが分かります。それはおそらく、「死」が訪れる際にその人のうちに蓄えられていた生命エネルギーが外に向かって放出される、と考えられているからでしょう。それゆえに、ふだん過剰なエネルギーを贈与してくれている神/太陽にたいして、人間の側からささやかな贈与/返礼を行う際には、健康的で美しい若者を生贄にささげることによって、その生命エネルギーを放出=贈与させる必要があるのです。

 

 バタイユは、このような生命エネルギーのやりとり(生産・交換・消費)こそが「普遍経済学」の本質を成すと考えていました。そして繰り返しておけば、そのような生命エネルギーは原初的に「過剰なもの」です。この「過剰さ」を豊かに「交換」し、「消費」または「浪費」し、また同時にそれを「(再)生産」するという営みこそが、広い意味での社会-経済(さらには世界や宇宙)を駆動している。これがバタイユの構想した「普遍経済学」の基本的なアイデアでした。しかし、このような前近代的な〈経済〉のあり方は、西欧近代社会では大きく変質していくこととなります。次回はその変質について書いてみたいと思います。(続)

 

至高性―呪われた部分 (普遍経済論の試み)

至高性―呪われた部分 (普遍経済論の試み)

  

 

成熟社会における「暇と退屈」の問題――國分功一郎『暇と退屈の倫理学』から考える Part3

 成熟社会では「労働」と「遊び」(あるいは「労働」と「活動」)が一体化する、というマルクス的ユートピアを前回記事で紹介しました。國分功一郎さんの提案する「豊かな浪費」とは異なる成熟社会の過ごし方が、そこには示されています。

 やや単純化して言えば、成熟社会における理想的労働のかたちとは、「生命維持の必要」のためだけに働くのではなく、「働くことそれ自体を目的として働く」ことだと言えます。逆にマルクスにとって、「疎外された労働」とは「生命維持の必要」のためだけに働くような労働のあり方でした(『経済学・哲学草稿』)。

 そのためには、「労働」と「遊び」の一体化というユートピアの中でも、(1) 一定の訓練が必要であること、(2) 動物的とりさらわれ(没頭)が重要になること、という國分さんの指摘は重要です。「遊ぶように働く」ためにも、一定の訓練は必要であり、またそのような訓練を経てこそ、その仕事=遊びにとりさらわれる(没頭する)ことが可能になるからです。

 

 ところで、國分功一郎氏の『暇と退屈の倫理学』のなかで、ハイデガーの退屈論と並んで興味深いのは、ボードリヤールの消費社会論に基づいた、「消費」と「浪費」の区別、という議論です。國分氏の整理によれば、「浪費」とは「必要を超えて物を受け取ること」であり、「消費」とは「物に付与された観念や意味を吸収すること」である。そして、物の受け取りには限度があるので「浪費」はどこかの時点でストップするのに対し、観念や記号の吸収には限度がないため「消費」は無限に増殖する。

 

消費社会の神話と構造 普及版

消費社会の神話と構造 普及版

 

 

 消費社会は、商品・サービスのわずかな差異を記号に仕立てあげ、消費者が消費し続けるように仕向ける。消費社会は私たちを浪費ではなく消費へと駆り立てる。「消費は贅沢などもたらさない。消費する際に人は物を受け取らないのだから、消費はむしろ贅沢を遠ざけている。…消費には限界がないから、それは延々と繰り返される。延々と繰り返されるのに、満足がもたらされないから、消費は次第に過激に、過剰になっていく」(『暇と退屈の倫理学』151頁)

 

  このようにして國分氏は無際限な「消費」を批判し、真の豊かさ・贅沢としての「浪費」を推奨します。そして、真の豊かな「浪費」を享受するためにも、一定の訓練と動物的「とりさらわれ」が重要、という結論に繋がるわけです。

 

 以上のような國分氏の議論は、消費社会(=資本主義社会〕への批判としては確かに重要で、個人的にも共感するところがあります。ただし、このような消費/浪費の区別の仕方がどこまで有効なのか、やや疑問が残るところもあります。この本で説明されているように、明快に「消費」と「浪費」を区別することは可能なのか、「浪費」には限度があり「消費」には限度がないという理解は正しいのか(むしろ「浪費」のほうこそ限度がないのではないか?)、高度に発達した消費社会では「消費」と「浪費」はほとんど一体化しているのではないか、こういった疑問・批判が即座に思い浮かびます。

 

 私見では、ここで重要なのは、消費/浪費の区別よりも、資本主義的/非資本主義的の区別です。高度に発達した消費社会では(國分氏の言う意味での)消費と浪費の境界は極めて曖昧です。それよりも、それが「資本主義的な」消費/浪費であるのか、「非-資本主義的な」消費/浪費であるのか、という区別のほうが重要な意味をもちます。

 

 國分氏の批判する「消費」とは、まさにボードリヤールのいう「記号的消費」であり、彼の称揚する「浪費」とは消費社会=資本主義社会の論理に回収されないモノ・コトの享受です。つまり國分氏もまた、消費/浪費の区別で重視しているのは資本主義的/非-資本主義的の区別にほかなりません。言いかえれば、資本主義的な消費の論理にいかに抗うか、そのオルタナティブをいかに見つけるか、がモノ・コトの豊かな享受としての「浪費」の鍵となるのです。これもまた、本ブログで繰り返し書いてきた、成熟社会における「非-資本主義的次元」の重要性にほかなりません。

 

 これとほとんど同じことを、社会学者の見田宗介氏が『現代社会の理論』のなかで、バタイユを参照しながら書いています。見田氏によれば、バタイユボードリヤールのいうconsommationとは〈商品の購買による消費〉であり、consumationとは〈充溢し燃焼しきる消尽〉である。またLa société de consommationとは、商品の大量の消費を前提とする社会の形態であり、La société de consummationとは、効用に回収されることのない生命の充溢と燃焼を解き放つ社会の形態である(『現代社会の理論』129頁)。

 

現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)

現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)

 

 

 そして見田氏もまた、資本主義的な「消費」(consommation)ではなく、非-資本主義的な(あるいは超-資本主義的な)〈消費〉(consumation)こそが、これからの時代における「自由」の望ましい形である、と結論づけています。すなわち、資本主義的な「消費」は環境破壊や南北格差といった破壊・収奪をもたらすゆえに真の意味で「自由」でありえないが、非-資本主義的な(あるいは超-資本主義的な)〈消費〉は破壊・収奪をもたらさないかたちでの真の「自由」の享受を可能にする、と。

 

 ここで見田氏のいう〈消費〉は國分氏のいう「浪費」にほぼ等しく、それは、バタイユのいう「蕩尽」を現代社会に適したかたちで取り戻したものに等しい。『暇と退屈の倫理学』でも、バタイユ見田宗介氏の名前が挙がっていないのが不思議なくらいです(元ネタにしている可能性は大いにあるのではないかと思いますが。ちなみにボードリヤールの消費/浪費の議論もまたバタイユの「蕩尽」論を参照したものです)。

 

呪われた部分 有用性の限界 (ちくま学芸文庫)

呪われた部分 有用性の限界 (ちくま学芸文庫)

 

 

  実際に、バタイユの蕩尽論は成熟社会における消費/浪費のあり方を考えるうえで非常に重要になってくるものです。次回は、バタイユ『呪われた部分』の議論を参照しつつ、この問題についてさらに深く考えてみることにしましょう。その際に、消費/浪費の次元だけでなく、労働/活動の次元をも、バタイユの蕩尽論から見直してみたい、と考えています。

 先回りして書いておけば、資本主義の論理に回収されない、〈充溢し燃焼しきる消尽〉としての労働/活動というのものがあり得ないか。それが冒頭に書いた、「労働」と「遊び」の一体化というマルクス的ユートピアに重なるものとなるのではないか、というのが大まかな見通しです。詳細はまた次回に。

成熟社会における「暇と退屈」の問題――國分功一郎『暇と退屈の倫理学』から考える Part2

 前回の記事では、國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』を手がかりとして、成熟社会における「暇と退屈」の問題について考えてみました。國分さんの最終的な提案は、「暇と退屈」を豊かに「浪費」(「消費」ではなく)するための「訓練」を積むこと、それによって動物のように「とりさらわれる」瞬間を創りだすことが重要だ、というものでした。僕自身もこの提案には基本的に賛成なのですが、それと同時に、もう少し別の方向から、成熟社会における「暇と退屈」へ向き合うことも可能なのではないか、と考えています。

 

 それが「仕事と活動」からのアプローチです。通常、「余暇時間」は「労働時間」と正反対のもの(余暇は一日のうち労働時間以外の時間)だと考えられているので、「余暇」と「労働」は一見結びつきにくいように思えます。しかし、以前の記事で述べたマルクスケインズ未来社会論を思い返せば、また別の可能性が見えてくるはずです。

 

 以前の記事でも書いたように、ケインズは「孫たちの経済的可能性」のなかで次のように述べました。今から100年後(ケインズがこのエッセイを発表したのが1930年なので、おおよそ2030年ごろ)には主要な経済問題は解決され、人々は生命維持のための必要から解放されているであろう。しかしそのような社会では、一部の才能に恵まれた以外の多くの人々は、ノイローゼに陥ってしまうに違いない。なぜなら、人類の長い歴史では、日々の糧を得るための働くことが人々の主要な関心を占めていたのであって、突然その問題から解放されてしまったとき、多くの人々は生きる目標を失ってしまうだろうからである。

 

 それゆえ、未来社会における人類の課題はいかにしてこの「暇と退屈」をやり過ごすかという問題になるはずである。この問題に対してケインズは、人々に1日2~3時間程度の労働を課すことがその解決に繋がるのではないかという提案を行っています。それによって、人々は社会との繋がりを保つことができ、生きる意義を見出すことができるだろう。残りの時間には各自が好きなことをして過ごせば良い。そして未来の人類にとって真に重要なのは、お金に代わる価値を見出すことである、と。

 

ケインズ 説得論集

ケインズ 説得論集

 

 

 これに対して、マルクスの未来社会像はより積極的(あるいはユートピア的)です。マルクスは次のように述べています。「資本の偉大な文明化作用」によって生産力が向上すれば、社会の必要労働時間は減少し、自由時間(余暇時間)が増大していくであろう。その自由時間において、必要のための「労働」は自己目的的な「活動」へと転化し、その活動によって人々は新しい主体としての「社会的個体」へと生まれ変わる(『経済学批判要綱』)。そのときに「朝には狩りをし、昼には漁をし、夕食後には批評をする」ような理想社会(『ドイツ・イデオロギー』)、あるいは「能力に応じて働き、必要に応じて取る」ような理想社会(『ゴータ綱領批判』)が実現されるだろう、と。

 

 

ドイツ・イデオロギー(抄)/哲学の貧困/コミュニスト宣言 (マルクス・コレクション)

ドイツ・イデオロギー(抄)/哲学の貧困/コミュニスト宣言 (マルクス・コレクション)

 

 

 

マルクス・コレクション VI フランスの内乱・ゴータ網領批判・時局論 (上)

マルクス・コレクション VI フランスの内乱・ゴータ網領批判・時局論 (上)

 

 

  以前の記事では、ケインズ未来社会を「ワークシェア的」、マルクス未来社会を「ベーシックインカム的」と表現して対比させましたが、皆さんにはどちらの社会(労働スタイル)がより望ましいものだと思われるでしょうか。

 どちらの未来社会像も、2013年の現在を生きる我々にとっては、まだまだ道のり遠いもの、あるいはユートピア的なもののように感じられるかもしれません。確かにマルクスケインズの生きていた時代から比べればずいぶん豊かになったとしても、まだまだ我々の暮らす社会は、生命維持のための労働や貧困や格差などの問題から解放されていません。社会全体で見れば、物質的にはとても豊かな社会に暮らしていても、個々の生活を見れば、様々な経済問題が残っていると言わねばならないでしょう。

 

 しかしそれと同時に、マルクスケインズが論じた事柄が、現在の成熟社会においてよりいっそう重要な問題となってきていることもまた確かです。繰り返しになりますが、それが成熟社会における「暇と退屈」の問題であり「労働と活動」の問題です。長期的に見れば、社会全体の労働時間は昔に比べて確かに短くなってきている(ように見える)。そのときに増大してくる余暇(自由時間)をいかにして過ごすのか。そこから生まれてくる「退屈」と我々はいかに向き合うのか。

 

 言いかえれば問題はこうです。成熟社会では物質的豊かさはすでに一定水準以上に満たされている(あくまで社会全体で見た際には、ということです。個々には当然、貧困や格差の問題がありうる)。そこで問題となってくるのは精神的充足(心の豊かさ)のほうである。もはや右肩上がりに経済が成長を続ける時代は終わり、一生懸命働いた分だけ見返りがある(経済成長する)という期待を多くの人が持てなくなっている。そのような時代において、人々はいかにして精神的充足を得ることができるのか。「終わりなき日常」においていかに心を病まず、楽しい・充実した生を送ることができるのか。

 

 ここで國分功一郎さんが古市憲寿さんとの対談のなかで面白いことを言っています。朝には狩りを、昼には漁を、夕べには家畜の世話をし、夕食後には批評をするというマルクスが『ドイツ・イデオロギー』で描いたユートピアは、現代の日本社会ではすでに一定程度、実現されているのではないか、と。

 これを受けて古市憲寿さんも次のように言います。確かにいまの日本では実はそのユートピアを部分的に実現することはそれほど難しくないのかもしれない。例えば、仕事を持ちながらブログを書いたり、NPOの活動をしたり、ボランティアをしたりしている人ならたくさんいる。もちろん誰もができるわけではないかれども、毎日やることを変えるというハードルは確実に下がっている、と。

社会の抜け道

社会の抜け道

 

 

 『ナリワイをつくる』という本を書かれた伊藤洋志さんも、ひとつの固定した仕事だけでお金を稼ぐのではなく、複数の「ナリワイ」を組み合わせることによって生計を立てていくワーク/ライフスタイルを提案されています。ここでいう「ナリワイ」とは、会社に勤めてお給料を貰うといった一般的な仕事だけでなく、畑で野菜を育てて部分的に自給自足の生活をしたり、近隣の地域社会や身近なNPO団体などの手伝いをしたり、短期的に頼まれた仕事を請け負ったり、ブログやSNSを通じた情報発信をしたり、といった多様な仕事/活動が含まれます。

ナリワイをつくる:人生を盗まれない働き方

ナリワイをつくる:人生を盗まれない働き方

 

 

 実際に伊藤洋志さん自身が、年に二回だけの「モンゴル武者修行ツアー」京都の一棟貸し宿、木造校舎ウェディング、ブロック塀ハンマー解体協会、全国床張り協会、といった多数のユニークな仕事/活動を実践しておられます。伊藤さんのブログを見ていると、本当に様々なことに取り組んでおられて、見ているだけで楽しいです。『ナリワイをつくる』には、実際に「ナリワイ」を組み立てて生きていきたい人のための実践的なアドバイスもたくさん書かれています。

 

 このように複数の「ナリワイ」を組み合わせて自由なワーク/ライフスタイルを実現するという方法は、まさに『ドイツ・イデオロギー』のマルクスが理想としたそれに近いものだと言えるでしょう。もちろんここで言いたいのは、誰もがそのような生き方/働き方をするべきだということではありません。人にはそれぞれ向き不向きがあり、世間には多種多様な価値観が存在します。ひとつの仕事を長く続けるほうに向く人はそのような働き方をすれば良い、いっぽうで複数の仕事を掛け持ちして働くほうが向いている人はそうすれば良い、という程度に緩やかに捉えてもらえればいいと思います。

 

 伊藤さんはこう言います。大正9年国勢調査で国民から申告された職業は約3万5000種だったのに対し、厚生労働省の「日本標準職業分類」によれば、現在の職業は2167職にまで減少している。わずか100年ぐらい前には仕事の種類にはかなりの多様性があって、日本人はそれぞれの適性に合わせて生計を立てていた。季節ごとに3つぐらい仕事をしていた人は珍しくなかったはずだ。

 しかし、戦後の数十年間で日本人はその職業の多様性を手放して「専業化」を進めてきた。その結果として、日本は大きな経済成長を遂げたけれども、その反面、生活と仕事が乖離し、固定した働き方に心を病んでしまう人もたくさん出てきた。そろそろ我々は、多様な働き方・生活と一体化した働き方を取り戻すべき時期に来ているのではないか。それを実践するのが「ナリワイ」プロジェクトなのである、と。

 

 ノマドワーカーとして有名なイケダハヤトさんや、 「月3万円ビジネス」藤村靖之さん、「半農半X」の塩見直紀さんなども、同様の主張をされています。これからの時代は仕事をひとつに固定するほうがむしろハイリスクであり、複数の小さな仕事を掛け持ちするほうがリスクヘッジとしても健全だし、そちらのほうが時間的にも融通がきくし、自由な生き方/働き方ができる、と。

 

年収150万円で僕らは自由に生きていく (星海社新書)

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月3万円ビジネス

月3万円ビジネス

 

 

半農半Xという生き方

半農半Xという生き方

 

 

 仮にこのようなナリワイ的働き方が広がっていくとすれば、それは成熟社会における余暇の有意義な過ごし方は何か、という問いに対するひとつの有効な答えになりうるのではないでしょうか。それはケインズの提案するワークシェアリング的な答えとも、國分功一郎さんの提案する「浪費の洗練」という答えとも異なる、マルクスからの「積極的な労働」という新しい余暇(自由時間)の過ごし方を示しているのです。